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しかし、報民倉の俵(穀物)では、日本中の大飢饉の前には、 幾日分かの食糧に過ぎませんでした。 康直侯は心痛の余り「この窮状を救うものは崋山のほかにはない。」 と早速江戸に使いを出して、先生の帰国を求めました。 その時先生は、頭も上がらぬ大病でどうすることもできませんでした。 苦しい中に筆を取って、 「お殿様お願いです。どうか日々の御膳一碗を減らし毎日農村をお見舞ください。」 と思い切った手紙を認め、尚また家老達には 「人から預った品物を失った時には、武士は腹を切って申し開きをするものだ。 何よりも大切な人民が、一人でも飢饉のために逃げたり死んだりするようなことがあったら、 家老たるものは切腹して罪を謝せねばならぬ。」 と認めて、眞木重郎兵衛を代理として田原へ送りました。 |