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それから一年過ぎて、三宅十三代の康明侯が亡くなり、 世嗣の問題をめぐって家老達の口からは、恐しい声がもれ始めました。 家老甲 「後を嗣ぐべき友信侯に隠居して戴こうでは御座らぬか。」 家老乙 「ああいう様に幕府のお止めになっている西洋事情を研究していては、 もし幕府のおとがめがあれば三宅侯はつぶされてしまいます。」 家老丙 「三宅家はそればかりではなく財政も困難であるからそれがよい。」 家老丁 「それでは徳川家の最も有力な家来としている大名から 御養子を迎へようではないか。」 先 生 「馬鹿なことをいう、いらぬ心配をして児島高徳公以来続いている 忠臣の血統を変えて、どこに三宅侯のねうちがあろう。 田原藩には天子様を尊び、大日本帝国を盛んにする精神が 血となって流れている筈だ。」 と主張しましたが遂に容れられず、徳川家四天王の一家である、 姫路侯酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)の六男稲若(いなわか)君が 第十四代の藩主となって、康直侯と申しました。 |