和暦(西暦) |
数え年 |
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寛政5年(1793) |
1 |
9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。 |
寛政7年(1795) |
3 |
妹茂登生まれる。 |
寛政9年(1797) |
5 |
この年、軽い疱瘡にかかる。 |
寛政12年(1800) |
8 |
若君亀吉のお伽役になる。妹まき生まれる。 |
享和元年(1801) |
9 |
最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。 |
享和3年(1803) |
11 |
弟熊次郎生まれる。 |
文化元年(1804) |
12 |
日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮する。 |
文化2年(1805) |
13 |
鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。 |
文化3年(1806) |
14 |
若君元吉(後の康和)のお伽役になる。 |
文化4年(1807) |
15 |
弟助右ヱ門生まれる。 |
文化5年(1808) |
16 |
絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。
藩主康友に従って田原に滞在する。
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文化6年(1809) |
17 |
金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。 |
文化7年(1810) |
18 |
田原に藩校成章館創立。妹つぎ生まれる。 |
文化8年(1811) |
19 |
佐藤一斎から儒学を学ぶ。 |
文化10年(1813) |
21 |
妹つぎ亡くなる。 |
文化11年(1814) |
22 |
納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名世に知られる。 |
文化13年(1816) |
24 |
弟五郎生まれる。 |
文化14年(1817) |
25 |
父定通、家老となる。 |
文政元年(1818) |
26 |
正月、藩政改革の意見を発表。
長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。
「一掃百態図」を描く。
藩主康友に従って田原に滞在する。 |
文政2年(1819) |
27 |
江戸日本橋百川楼で書画会を開く。 |
文政6年(1823) |
31 |
和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。 |
文政7年(1824) |
32 |
7月、家督する。父定通亡くなる。 |
文政8年(1825) |
33 |
この年から松崎慊堂に儒学を学ぶ。 |
文政9年(1826) |
34 |
江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。
長女可津生まれる。
この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。 |
文政10年(1827) |
35 |
10月、三宅友信に従い田原に来る。 |
文政11年(1828) |
36 |
「日省課目」を定め修養に努める。
側用人となり、友信の傅を兼ねる。
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文政12年(1829) |
37 |
三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。 |
天保元年(1830) |
38 |
埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。
弟熊次郎亡くなる。 |
天保2年(1831) |
39 |
江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。
妹まき亡くなる。
9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
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天保3年(1832) |
40 |
家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。
長男立生まれる。 |
天保4年(1833) |
41 |
1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。 |
天保5年(1834) |
42 |
幕命の新田干拓中止の願書を上申。
農学者大蔵永常を田原藩に招く。
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天保6年(1835) |
43 |
報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。 |
天保7年(1836) |
44 |
田原地方大飢饉。 |
天保8年(1837) |
45 |
真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。
年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。
「鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
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天保9年(1838) |
46 |
年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。
「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。
儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
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天保10年(1839) |
47 |
江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。
5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。
12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
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天保11年(1840) |
48 |
1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。 |
天保12年(1841) |
49 |
10月11日。自刃する。 |