田原市博物館|平成27年 春の企画展

帰ってきた国指定重要文化財 渡辺崋山筆 千山万水図 初公開 奈良岩雄氏寄贈資料

2105年4月11日〜5月24日
場所 田原市博物館
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週月曜日 ●ただし5月4日(月・祝)は開館し、5月7日(木)は休館します
観覧料 一般400円(320円) 小・中学生 無料
( )内は20名以上の団体割引料金
●4月11日(土)は無料公開。●毎週土曜日は高校生も無料
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奈良岩雄氏について

岩雄氏の祖父である奈良磐松(1879〜1961)氏は、元秋田銀行頭取・金足村村長、秋田蘭画の収集家としても知られました。その後、奈良家の資料は奈良淳一郎・奈良恭三郎(元秋田市収入役)氏から岩雄氏に引き継がれました。貴重な最晩年の渡辺崋山作品はじめ31点が田原市へ寄贈されることになり、全作品を一堂に公開します。

企画展イベント

【講演会】 5月3日(日・祝)/午後1時30分
「渡辺崋山の海防思想と千山万水図」
講師:常葉大学特任教授・文学博士 日比野秀男氏
【展示解説】 4月11日(土)・5月6日(水・祝)/各回午前11時〜
田原市博物館/副館長 鈴木利昌

主な作家紹介

●渡辺 崋山(わたなべ かざん)【寛政5年(1793)〜天保12年(1841)】
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

●福田 半香(ふくだ はんこう)【文化元年(1804)〜元治元年(1864)】
遠州磐田郡見附(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772~1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

●渡辺 小華(わたなべ しょうか)【天保6年(1835)〜明治20年(1887)】
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

●松林 桂月(まつばやし けいげつ)【明治9年(1876)〜昭和38年(1963)】
山口県萩市に伊藤篤一の次男として生まれた。名は篤。明治27年(1894)に上京、野口幽谷に師事した。同31年に幽谷門下の松林雪貞と結婚し、松林姓を名乗るようになる。明治41年第二回文展から出品し、第五回から第八回まで連続三等賞を受賞する。昭和8年(1933)帝国美術院会員、同19年帝室技芸員となり、同33年文化勲章を受章。近代日本南画界を代表する作家である。