田原市博物館|平成24年 夏の企画展

出光美術館コレクションによる花鳥の美〜珠玉の日本・東洋美術

開催日 平成24年9月29日(土)〜平成24年11月11日(日)  
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) → 展示情報詳細はこちら
会場 田原市博物館「企画展示室」

展示作品リスト

企画展示室
出展番号 展示室 テーマ 作者名 作品名 員数 制作年 備考
1 特別 四季を彩る(春) 橋本関雪 江南春望図 一幅 大正14年(1925)以前  
2 特別   中林竹渓 春汀花鳥図 一幅    
3 特別   川合玉堂 春風図 一幅 大正8年(1919)  
4 特別 四季を彩る(夏) 長沢芦雪 藤花樹陰戯犬図 一幅    
5 特別   中林竹渓 嵐山清浅図 一幅    
6 特別   渡辺崋山 蟷螂図 一幅    
7 特別 四季を彩る(秋) 竹内栖鳳 秋暑図 一幅   棲鳳落款
8 特別   山本梅逸 秋叢小禽図 一幅 天保7年(1836)  
9 特別   竹内栖鳳 秋郊暮雨図 一幅 明治26年(1893)  
10 特別 四季を彩る(冬) 小田海僊 雲景山水図(湖山晴雪図) 一幅    
11 特別   高久靄厓 寒山行旅図 一幅 天保5年(1834)  
12 特別   下條桂谷 脩竹幽居図 一幅    
13 特別 慶弔のこころ 幸野楳嶺 ニ福神図 双幅    
14 特別   田能村直入 福禄寿図 一幅 明治28年(1895)  
15 特別   島田元旦 蓬莱山水図 一幅 寛政7年(1795)  
16 特別   帆足杏雨 天保九如図 一幅 安政6年(1859)  
17 企画1   田中以知庵 肇図 一幅 昭和13年(1938) 南方絵画展、大東南宗画院展第二回 出品
18 企画1   川端龍子 慶鶴図 一幅 昭和13年(1938)  
19 特別   富岡鉄斎 観世音菩薩像 一幅 明治36年(1903)  
20 特別   中村不折 十六応身図 一幅 大正5年(1916)  
21 特別   富岡鉄斎 耆闍崛十六羅漢尊図 一幅    
22 企画1 掛軸の表現力 森寛斎 前赤壁図 一幅    
23 企画1   菱田春草 狐嫁入図 一幅    
24 企画1   八木岡春山 渓流図 一幅   大和文華館蔵 伝元信「渓流図」の写し
25 企画1   吉川霊華 南淵先生図 一幅 大正6年(1917)  
26 企画1   西山翠嶂 青田図 一幅    
27 企画1   小室翠雲 山中飛瀑図 一幅 大正6年(1917)  
28 企画1   木村武山 朝靄図 一幅    
29 企画1 額と屏風の妙 結城豊太郎 「別是一家風」扁額 一面    
30 企画1   森川曽文 富嶽図扁額 一幅    
31 企画1   富岡鉄斎 狂濤万里図扁額 一面 明治30年(1897)  
32 企画1   平福百穂 水墨山水図額 一面 昭和8年(1933)  
33 企画1   富岡鉄斎ほか 諸家扇面貼交屏風 二曲一隻 明治41年(1908)以降  
34 企画1   富岡鉄斎 扇面貼交屏風 二曲一隻 大正4年(1915)以降  
35 企画1   橋本関雪 煉丹 六曲一双 大正5年(1916) 第10回文展
36 企画1   木島桜谷 春秋山水図屏風 二曲一隻   背面に小扉あり、中に葉書あり
37 企画1 詩と画の交響 丹羽嘉言 花鳥図 一幅 文化7年(1810)  
38 企画1   大倉笠山 古木竹石図 一幅    
39 企画1   長三州 蘭梅図 一幅    
40 企画1   田近竹邨 月江泛舟図 一幅 大正6年(1917) 田能村竹田「亦復一楽帖」の写し
41 企画1   浦上春琴画・頼山陽賛 渓山秋晩図 一幅 文政3年(1820)  
42 企画1   富岡鉄斎 山高水長図 一幅 明治28年(1895)  
43 企画1   菅原白龍 着色山水図(秋景耕作図) 一幅    
44 企画1   貫名海屋 柳塘山水図 一幅 弘化元年(1844)  
45 企画1 別世界への憧れ 奥原晴湖 秋景青緑山水図 一幅 明治34年(1901)  
46 企画1   中林竹洞 蘭亭流觴図 (蘭亭曲水図) 一幅 文政4年(1821) 明治32年6月鉄斎鑑定
47 企画1   池玉蘭 青緑山水図 一幅    
48 企画1   野口小蘋 僊山春靄図・秋巒聳秀図 双幅 明治31年(1898)  
49 企画1   鶴沢探山 竹林七賢図 一幅    
50 企画1   富岡鉄斎 飲中八仙図 一幅 明治42年(1909)  
51 企画1   富岡鉄斎 漁家楽図 一幅 大正11年(1922)  
52 特別 文人・俳人・名士の筆跡 頼山陽 春水老人贈霊淵尊者七絶 一幅    
53 特別   夏目漱石 菊図自画賛 一幅    
54 特別   斉藤茂吉 蔵王嶺和歌 一幅 昭和20年(1945)  
55 特別   下村為山画・高浜虚子賛 柿図 一幅 昭和10年(1935)  
56 特別   伊藤博文 長雲閣詩 一幅 明治34年(1901) 明治天皇御股布
57 特別   武藤山治 眠鳩図 一幅 昭和9年(1934)  
58 企画1 工芸家・洋画家の一面 小杉未醒 悟空求道図 一幅 大正8年(1919)  
59 企画1   中川一政 静物図 一幅    
60 企画1   板谷波山 百合花図 一幅    
61 企画1   板谷波山 瓶花之図 一幅    
62 企画1   板谷波山 三宝柑図 一幅 昭和36年(1961)  
63 企画1   真清水蔵六 陶器製造図・深山瀑布図・高山雲煙図 三幅対    
64 企画1   河合卯之助 雪に晴れたる瀬見温泉図 一幅 昭和2年(1927)  
65 企画1   河合卯之助 雪の蔵王山屏風岳賽の河原より望む図 一幅 昭和2年(1927)  
66 企画1   飯塚琅玕斎 多草図 一幅    
67 企画1 長谷川家ゆかりの書画 今尾景年・中村不折 書画衝立 一面 大正7年(1918)  
68 特別   長谷川橘庵 松風発処証和敬 一幅 昭和33年(1958)  
69 特別   高村光太郎 牛行詩(牛はのろのろと歩く) 一幅 昭和13年(1938)
昭和12年(1937)
 
70 特別   高村光太郎 雄牛図 一幅    
71 特別   橋本関雪 雄牛図 一幅    
72 特別   黒木欽堂 岱頂図 一幅 大正9年(1920)  
73 特別   山村耕花 唐三彩の壺図 一幅    
74 企画1   松村景文 春草図風炉先屏風 二曲一隻   裏面橘庵好みの表具

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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長谷川コレクションは、絵画、書の名品が含まれたコレクションで、現在の山形銀行の経営に携わり、美術への造詣も深かった初代直則氏以来、代々引き継がれ、山形美術館に寄贈された作品の一部は重要文化財・山形県指定文化財になり、江戸時代から近代にわたる作品が知られています。今回、その長谷川家の所有する京都四条派や明治期の文人画の名品を中心に展示させていただくことになりました。
日本の四季を感じさせる作品群は、まさに日本の風土そのものといっていいでしょう。本展ではテーマを12に分け、暮らしに息づく日本の書画の楽しみを再発見していただきます。

在世一覧

番号 作家名 生年 没年
1 鶴澤探山 1655 1729
2 池玉蘭 ? 1784
3 丹羽嘉言 1742 1786
4 長沢芦雪 1754 1799
5 中林竹洞 1776 1853
6 島田元旦 1778 1840
7 貫名海屋 1778 1863
8 松村景文 1779 1843
9 浦上春琴 1779 1846
10 頼山陽 1781 1832
11 山本梅逸 1783 1856
12 大倉笠山 1785 1850
13 小田海僊 1785 1862
14 渡辺崋山 1793 1841
15 高久靄厓 1796 1843
16 帆足杏雨 1810 1884
17 森寛斎 1814 1894
18 田能村直入 1814 1907
19 中林竹渓 1816 1867
20 真清水蔵六 1822 1877
21 長三州 1833 1895
22 菅原白龍 1833 1895
23 富岡鉄斎 1837 1924
24 奥原晴湖 1837 1913
25 伊藤博文 1841 1909
26 下條桂谷 1842 1920
27 幸野楳嶺 1844 1907
28 今尾景年 1845 1924
29 森川曽文 1847 1902
30 野口小蘋 1847 1917
31 田近竹邨 1864 1922
32 竹内栖鳳 1864 1942
33 下村為山 1865 1949
34 黒木欽堂 1866 1923
35 中村不折 1866 1943
36 夏目漱石 1867 1916
37 武藤山治 1867 1934
38 板谷波山 1872 1963
39 川合玉堂 1873 1957
40 菱田春草 1874 1911
41 小室翠雲 1874 1945
42 高浜虚子 1874 1959
43 吉川霊華 1875 1929
44 木村武山 1876 1942
45 平福百穂 1877 1933
46 木島桜谷 1877 1938
47 結城豊太郎 1877 1947
48 八木岡春山 1879 1941
49 西山翠嶂 1879 1958
50 小杉未醒 1881 1964
51 斎藤茂吉 1882 1953
52 橋本関雪 1883 1945
53 高村光太郎 1883 1945
54 川端龍子 1885 1966
55 山村耕花 1886 1942
56 河合卯之助 1889 1969
57 長谷川橘庵 1889 1967
58 飯塚琅玕斎 1890 1958
59 田中以知庵 1893 1958
60 中川一政 1893 1991

作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。八歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保三年(一八三二)四十歳で年寄り役に至っている。十三歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保十年(一八三九)四十七歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年一月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保十二年、四十九歳で自刃した。

高久靄厓 寛政8年(1796年) - 天保14年4月8日(1843年5月7日)

江戸時代後期の文人画家。
下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。諱は徴、字は遠々のちに子遠、通称秋輔。号は靄厓のほかに石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史、学梅斎、晩成山房など。
文政6年(1823年)27歳のとき江戸に出ると、鹿沼の支援者たちの縁戚にあたる菊池淡雅から惜しみない援助を得られた。淡雅とは豪商佐野屋のことで、文雅を好み、書画の大コレクターで、谷文晁・立原杏所・渡辺崋山・巻菱湖・大窪詩仏らと交友し、江戸の文人のパトロンとして聞こえていた。
江戸では画家として評判が高かったが、気位が高く、儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。淡雅のはからいで谷文晁の画塾写山楼の門下となった。天保8年(1837年)42歳のとき、それまで鹿沼に拠点をもって行き来を繰り返したが、江戸に永住を決意する。同門の渡辺崋山が蛮社の獄で投獄されたとき、椿椿山らとともに救出に尽力したという。

島田元旦 安永7年(1778年) - 天保11年6月13日(1840年7月11日)

江戸時代後期の日本の絵師であり鳥取藩士。谷文晁の実弟。しばしば谷元旦とも紹介される。名は元旦(もとかつ)、号を元旦(げんたん)、別号に後素軒、嘯月、斎香、雪軒など。字を文啓、朝陽。通称は季充のちに寛輔と称した。漢詩人谷麓谷の次男として江戸で生まれる。15歳離れた文晁に絵を習ったと推測される。17歳の元旦に描いた「秋江独釣図」の画中には、「於写山楼席画」とあり、元旦が文晁の画塾に参加していたことが分かる。享和元年(1801年)に鳥取藩士 島田図書の養子となりその娘を妻として島田姓となる。幼少の頃から画技に長じており、池田侯に命ぜられて揮毫することもたびたびあった。家禄500石。江戸留守居役の要職を務め、河川の土木事業にも従事して治績を遺している。島田家の家督を継いだのは養父が没した文政2年(1819年)で、晩年は江戸詰めを解かれ鳥取で過ごした。

板谷波山 1872年4月10日(明治5年3月3日) - 1963年(昭和38年)10月10日)

明治〜昭和期の日本の陶芸家。日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、瀬戸、美濃、伊賀などの茶器、朝鮮半島の影響を受けて始まった伊万里、鍋島の磁器のように、芸術品として高い評価を得ている作品さえも、ほとんどが無名の陶工の手になるものである。近世には京焼の野々村仁清のように個人名の残る陶工もいるが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。板谷波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。

富岡鉄斎 1837年1月25日(天保7年12月19日)- 1924年12月31日)

明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。
耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学んだ。
文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を開設。藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊した。
維新後の30歳から40代半まで大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を勤めた。この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。
座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。
30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年(1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。
教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。明治26年(1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。
大正13年(1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて没する。

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