開催日 | : | 平成23年11月12日(土)〜平成23年12月25日(日) | |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) | → 役者絵作品リストはこちら |
会場 | : | 企画展示室1、企画展示室2 |
当館所蔵作品に、芝村義邦氏寄贈の浮世絵があります。浮世とは戦国時代が終わり、平和となった現世を意味します。それまでの戦いが続いた憂世から、現世を楽しもうとする考え方が芽生えました。17世紀後半、それが近世絵画の世界にも投影されて、浮世を画題とした浮世絵が成立しました。
浮世絵は、美人画、役者絵、風景画、花鳥画、相撲絵などありますが、今回は役者絵、相撲絵をご覧いただきます。
企画展示室1 | |||||
No. | 作品名 | 作者名(または款記) | 制作年 | 西暦 | 備考(最高位・初土俵-最終場所) |
533 | 朝日嶽鶴之助 大泉 | 一曜斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | 大関・万延元年10月〜明治11年6月 |
534 | 一力長五郎 沼田 | 国輝 | 慶応3年 | 1867 | 前頭筆頭・天保8年10月〜安政6年1月 |
535 | 綾瀬川山左衛門 高知 | 一曜斎国輝 | 慶応3年 | 1867 | 大関・文久元年10月〜明治9年4月 |
536 | 小柳常吉 徳嶋 | 一曜斎国輝 | 元治元年 | 1864 | 大関・天保6年1月〜安政3年1月 |
537 | 増位山大四郎 | 一雄斎国輝 | 明治2年 | 1869 | |
539 | 増位山大四郎 尾洲 | 一雄斎国輝 | 明治3年 | 1870 | |
540 | 武者ヶ崎倉吉 姫路 | 国輝 | 明治3年 | 1870 | |
542 | 象ヶ鼻平助 丸亀 | 国輝 | 大関・安政6年11月〜明治5年4月 | ||
543 | 象ヶ鼻平助 丸亀 | 国輝 | |||
544 | 両國梶之助 高知 | 一雄斎国輝 | 元治元年 | 1864 | 関脇・嘉永6年2月〜明治5年11月 |
545 | 両國梶之助 土州 | 一雄斎国輝 | 元治2年 | 1865 | 関脇・嘉永6年2月〜明治5年11月 |
546 | 荒馬大五郎 桑名 | 一雄斎国輝 | |||
547 | 荒馬大五郎 盛岡 | 一雄斎国輝 | |||
548 | 雷電震右衛門 姫路 | 一雄斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | 大関・元治元年4月〜明治14年5月 |
550 | 西尾 山脇萬吉 | 一曜斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | 前頭6・安政5年1月〜明治5年11月 |
551 | 高見山大五郎 姫路 | 一雄斎国輝 | |||
552 | 玉ノ戸弘之助 平戸 | 一雄斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | |
553 | 堺川浪右衛門 尾州 | 一曜斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | 大関=横綱免許・安政4年11月〜明治14年1月 |
554 | 高砂浦五郎 姫路 | 一曜斎国輝 | 元治元年 | 1864 | 前頭筆頭・文久3年7月〜明治6年12月 |
555 | 達ヶ関森右衛門 大坂 | 国輝 | 元治元年 | 1864 | |
556 | 若嶋久三郎 | 一曜斎国輝 | 元治元年 | 1864 | 大関・文久2年3月〜明治17年5月 |
557 | 兜山和助 姫路 | 一雄斎国輝 | 元治元年 | 1864 | |
558 | 勝山芳蔵 因州 | 一曜斎国輝 | 明治2年 | 1869 | 前頭5・元治元年10月〜明治10年6月 |
559 | 鬼ヶ崎網之助 勝山 | 一雄斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | 前頭2・万延2年2月〜明治9年1月 |
560 | 小柳常吉 徳嶋 | 一曜斎国輝 | 慶応3年 | 1867 | 関脇・安政5年1月〜明治10年6月 |
561 | 小柳春吉 阿州 | 一雄斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | |
562 | 朝日嶽鶴之助 庄内 | 一雄斎国輝 | 慶応2年 | 1866 | 大関・万延元年10月〜明治11年6月 |
563 | 大纒長吉 | 一雄斎国輝 | 元治元年 | 1864 | 関脇・安政4年11月〜明治16年5月 |
564 | 相生松五郎 姫路 | 一雄斎国輝 | 前頭2・文政9年4月〜弘化2年3月 | ||
565 | 綾瀬川山左衛門 高知 | 一曜斎国輝 | 明治2年 | 1869 | 大関・文久元年10月〜明治9年4月 |
566 | 式守伊之助 呼出し苺之原 | 一曜斎国輝 | 境川兜山・綾瀬川小柳 | ||
567 | 勧進大相撲土俵入之図 | 一雄斎国輝 | 3枚組のうち右 | ||
569 | 西之方 絵番付 | 一曜斎国輝 | |||
570 | 絵番付 | 一曜斎国輝 | 上の二段 上の口 | ||
571 | 東京大相撲見物蔵之図 深谷氏 | 国輝 | 安政4年 | 1857 | |
608 | 相撲一覧図画 | 一惠斎芳幾 | 万延元年 | 1860 | 2枚組 |
609 | 相撲一覧図画 | 芳幾 | 万延元年 | 1860 | 2枚組 |
610 | 田子ノ浦鶴吉 柳川 | 芳幾画 | 明治元年 | 1868 | |
644 | 勧進大相撲取組之図 西ノ方 | ┐一猛斎芳虎 | 弘化元年 | 1844 | 3枚組 |
645 | 勧進大相撲取組之図 | │芳虎 | 弘化元年 | 1844 | |
646 | 勧進大相撲取組之図 東之方 | ┘芳虎 | 弘化元年 | 1844 | |
647 | 堺川浪右衛門 | 錦朝楼芳虎 | 安政元年 | 1854 | 大関・天保14年10月〜文久元年10月 |
648 | 松ヶ枝喜三郎 | 錦朝楼芳虎 | 慶応3年 | 1867 | |
649 | 鬼面山谷五郎 | 錦朝楼芳虎 | 安政6年 | 1859 | 大関=横綱免許・安政4年11月〜明治12年6月 |
650 | 猪王山森右衛門 | 錦朝楼芳虎 | 安政6年 | 1859 | 大関・天保10年11月〜安政7年2月 |
651 | 荒馬大五郎 | 錦朝楼芳虎 | |||
652 | 陣幕久五郎 | 錦朝楼芳虎 | 元治元年 | 1864 | 大関・嘉永3年11月〜慶応3年11月 |
653 | 響灘五郎吉 | 錦朝楼芳虎 | 元治元年 | 1864 | 関脇・天保15年10月〜文久2年11月 |
654 | 堺川浪右衛門 | 錦朝楼芳虎 | 元治元年 | 1864 | 大関・天保14年10月〜文久元年10月 |
766 | 舞鶴駒吉 | 一宝斎国久 | 安政6年 | 1859 | 駿洲冨士郡柏原村之産 当年八才目方拾六貫目 |
768 | 雲龍久吉 横綱土俵入之図 | 国久 | 文久元年 | 1861 | 大関=横綱免許・弘化4年11月〜元治2年2月 |
777 | 逆鉾与治郎 鹿児嶋 | 春斉筆 | 明治30年 | 1897 | 関脇・明治26年1月〜明治40年5月 |
778 | 朝汐太郎 伊豫 | 玉波画 | 大関・明治23年1月〜明治41年1月 | ||
779 | 小錦八十吉 千葉 | 玉波画 | 明治31年 | 1898 | 横綱・明治16年5月〜明治34年1月 |
784 | 大鳴門 一ノ矢 | 井上探景 | 明治23年 | 1890 | 大関・明治12年1月〜明治24年1月 |
785 | 大鳴門 一ノ矢 | 井上探景 | 明治22年 | 1889 | 大関・明治12年1月〜明治24年1月 |
786 | 相撲風景 | ┐菱川春宣 | 明治24年 | 1891 | 3枚組 |
787 | 相撲風景 | │春宣 | 明治24年 | 1891 | |
788 | 東共同稽古場之図 | ┘? | 明治24年 | 1891 | |
794 | 天覧角觝図 | 国明 | 明治17年 | 1884 | |
796 | 東西土俵入之図 | 国輝 | 慶応2年 | 1866 | |
831 | 墨板版木 | (表)国輝 (裏)国明 |
※作品の展示順とは異なります。
※No.は芝村義邦コレクションの整理番号
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。
● 横綱
現代の大相撲では、横綱は第69代の白鵬1人であるが、いつから横綱がいたのか、江戸時代にはいくつかの異説がある。実質的には、四代の谷風梶之助からと考えられている。「横綱」とは、腰に締めることを許される白麻製の綱のことを指す。
● 改印(あらためいん)
江戸時代後期、幕府の指導により浮世絵の内容を検閲する制度ができました。検閲された証(あかし)として版下絵に捺されるのが改印で、そのまま版木(はんぎ)に彫られて摺りに出されました。
改印はどこに捺すということも決まっていないが、時代によって形や捺される内容が変わります。うっとおしい制度だったろうが、浮世絵研究においては、改印によって制作年代がはっきりとわかる場合もあり、重要な考証材料となります。
● 歌川国輝 天保元年(1830)〜明治7年(1874)
二代目歌川国輝。三代歌川豊国の門人。姓は山田、名は金次郎または国次郎。一雄斎、一曜斎、曜斎と号す。天保末頃、役者絵などで活躍し、慶応元年(一八六五)の『末広五十三次』に参加した。明治に入り、「東京名所図絵」や「東京名勝」シリーズなどの開化絵でも知られた。
● 歌川芳虎 生没年不詳
歌川国芳(1798〜1861)の門人。姓は永島、名は辰五郎、あるいは辰之助、辰三郎ともいう。一孟斎、孟斎、錦朝楼などと号した。天保頃から作画を始めている。美人画や相撲絵、横浜絵、版本挿絵などで活躍。パリ万博に貞秀との合作を出品し、明治維新前後は人気絵師であった。晩年、国芳と不和となってしまい、師に破門されてしまった。鉄道物の錦絵、洋風建築を描き、文明開化に関心を寄せ続けた。没年は不明であるが明治21年(1888)頃死去したと考えられる。