企画展示室2 | |||||
No. | 作品名 | 制作年 | 形状材質 | 作者 | 寄贈・寄託 |
1 | 風雨行旅図 | 天保7年(1836) | 紙本着色軸装 | 渡辺崋山 | 寄託 |
2 | 蒙古来楽府 | 文政10年(1827) | 紙本墨書軸装 | 頼山陽 | 寄託 |
3 | 天草灘名詩 | 江戸時代後期 | 絹本墨書軸装 | 頼山陽 | 寄託 |
4 | 兵学書 | 安政元年(1854) | 絹本墨書軸装 | 高島秋帆 | 寄託 |
5 | 花鳥之図 | 江戸時代後期 | 絹本着色軸装 | 金子金陵 | 寄託 |
6 | 四季山水図(四幅対) | 江戸時代後期 | 紙本淡彩軸装 | 高久靄 | 寄贈 |
8 | 寒林暮靄図 | 絹本墨画淡彩軸装 | 高村右暁 | 寄贈 | |
9 | 渡辺小華先生外大家合作 | 明治時代前期 | 紙本墨書軸装 | 渡辺小華ほか | 寄贈 |
10 | 仙媒(茶合)山水 | 一峯山人 | 寄託 | ||
11 | 仙媒(茶合)葉形 | 寄託 | |||
12 | 仙媒(茶合)草花 | 寄託 | |||
13 | 鴨水十五景詩画冊 | 弘化年間 | 冊子 | 篠崎小竹・小田海僊・山本梅逸・浦上春琴・沖澹 | 寄託 |
14 | 隷書七絶 | 江戸時代後期 | 扇子 | 立原杏所 | 寄託 |
15 | 画帖 | 江戸時代後期〜明治時代 | 冊子 | 購入 |
※展示替のため、本目録に掲載の作品が展示されていない場合があります。
渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄役に至っている。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。
頼山陽 [らいさんよう] 安永9年(1781)〜天保3年(1832)
江戸時代後期の儒者。名は襄(のぼる)、字は子成。頼春水の子として大坂に生まれる。生後間もなく安芸藩藩儒となった父に伴われて広島に移る。18歳で江戸に出、尾藤二洲(1745〜1813)に経学、国史を学んだ。脱藩の罪に問われたこともある。のち京都東三本木通に書斎“山紫水明處”を構え、煎茶会などを通して蘭医の小石元瑞、新宮涼庭、文人の浦上春琴、田能村竹田、北条霞亭(1780〜1823)、武元登登庵らと交友を結んだ。とくに書では名高く、また、画・篆刻、水石をはじめ、書画鑑識にも通じ、関西における文人墨客の指導的地位にあった。さらにその歴史論は幕末尊攘派の志士に大きく影響した。著書は『日本外史』『日本政記』『山陽詩鈔』など。
高島秋帆 [たかしましゅうはん] 寛政10年(1798)〜慶応2年(1866)
江戸時代後期の砲術家。諱は茂敦、字は舜臣、通称は四郎太夫、秋帆はその号である。寛政10年(1798)長崎町年寄高四郎兵衛の三男として長崎に生まれる。父のあとをつぎ、のち長崎会所調役頭取となった。長崎港の防備を担当した関係で、はじめ荻野流砲術を学んだが、のち出島の蘭人から西洋砲術を学び、これを高島流砲術とよんだ。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。伝存する『高島流砲術秘伝書』は、オランダの砲術入門書の翻訳である。天保11年(1840)9月、秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言した。翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原で秋帆所持の輸入砲四挺の実射と歩騎兵の演練を行なった。そのため名声がおおいに挙がり、幕府は高島流砲術を採用することとして、前記の輸入砲をすべて買い上げ、あわせて代官江川英龍(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じた。すでにこれ以前に佐賀藩および薩摩藩が高島流砲術を採用しているが、幕府についで諸藩がひろく高島流砲術を採用するのは、これ以来である。秋帆の在府中にかなりの門人があり、ほぼ確認できる数をあげると、幕臣(陪臣を含む)は11人、諸藩士は13藩にわたり、30人である。さらに長州藩では、秋帆の帰国後、藩士を派遣して入門させているが、他藩でも同様の例がみられる。しかし、他方、高島流砲術の隆盛は、幕府内部の守旧派の忌むところとなり、当時町奉行の鳥居耀蔵(甲斐守忠耀)が長崎奉行伊沢政義と組んで秋帆を罪におとしいれようとした。そのため天保13年10月に秋帆は逮捕されて江戸に送られ、町奉行鳥居の手で取調べをうけ、のち評定所で再吟味が行なわれ、弘化3年(1846)7月に中追放の判決をうけて、武州岡部藩に預けられた。嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航に伴い、江川英龍の進言により赦免されて、通称を喜平と改め、江川のもとで鋳砲に従事し、のち講武所砲術師範にあげられて、幕府の軍事の近代化に寄与した。
金子金陵 [かねこきんりょう] ?〜文化14年(1817)
江戸時代中〜後期の画家。名は允圭、字は君璋、号は日南亭。江戸の人。谷文晁に学んで沈南蘋風の花鳥画を得意とした。渡辺崋山、椿椿山の師として有名。代表作に『芙蓉白鷺図』(三島、佐野美術館)がある。
高久靄p [たかくあいがい] 寛政8年(1796)〜天保14年(1843)
江戸時代後期の文人画家。下野(栃木県)の人、江戸で歿。名は徴、字は子遠、別号は疎林外史、如樵、石巣など。初め郷里の画家に学び、池大雅、伊孚九にも私淑した。のち谷文晁に師事したが、その影響を受けることは少なかった。京都に遊学して南画を研究し、江戸に戻って渡辺崋山、立原杏所らと交際しながら画を描いた。代表作『歳寒三友図』屏風(宇都宮、栃木県立美術館)など。
高村右暁 [たかむらゆうきょう] 慶応3年(1867)〜昭和29年(1954)
金沢市金屋町(現・東山二丁目)の加賀藩細工所出任狩野派絵師の家に生まれた。幼時祖父玄佳に絵筆の運び方を教えられ、明治18年20歳のとき、文麟派の飛騨の人垣内右リンの門に入り、専ら四条派の画法を学んだ。十余年の研鑽の後、中央を始め各地の共進会展にも出品し、多くの褒状を受けて、北陸地方画壇屈指の作家になった。その間展覧会出品画など3回にわたる宮内省御用を受けた。子弟の教育にも情熱を傾け、門下生百余名を数えるなど北陸画壇の向上発展に大きく貢献した。作風は山水花鳥を描き、日本画正統派の良さを伝えているし、生涯花鳥風月を友とし、画風は精神修養の深さとあいまって冴えた芸術の域に到達し、作品は一段と高尚な枯淡な雅味を加えて賞讃を博した。余技として俳諧、作陶などにも造詣深く、茶道をも嗜み、二果軒、十後斎と号した。俳句は北陸俳壇暮柳舎一派との交際が深く、また鳶の家の渡辺萎文とも親交があった。発句集『いなご集』『四時の緑』などの著作が遺っている。
渡辺小華 [わたなべ しょうか] 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が二十五歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
立原杏所 [たちはら きょうしょ] 天明5年(1785)〜天保11年(1840)
水戸藩の彰孝館総裁立原翠軒(1744〜1823)の子として、水戸に生まれる。名は任、字を子遠、甚太郎(のち任太郎)と称し、東軒、杏所、香案外史などと号した。19歳で家督を継ぎ、小姓頭にすすんで禄250石を給せられた。有能な藩士として徳川斉昭(烈公1800〜1860)の信任が篤かった。父翠軒は学者として名を成し、『大日本史』編纂の大事業にあたった、その父について幼少から学を修めた。また翠軒は、水戸における文化的側面の中心的存在、学者、文人との交流も深く、杏所にも大きな影響を与えた。画は林十江(1777〜1813)に学んだのち谷文晁(1763〜1840)に師事した。花鳥画、山水画ともに優れ、画風は平明で瀟洒なその高潔な人となりをあらわす作品が多い。そのいっぽうで自由奔放に筆をふるった「葡萄図」(重要文化財)のような作品もある。また篆刻、画の鑑識に長じていた。渡辺崋山、椿椿山(1801〜54)と親しく、崋山の入牢・蟄居の際、椿山とともに救援活動の中心として活躍した。
仙媒(せんばい)
茶量(ちゃりょう)と言われ、煎茶道で使用される道具の一つ。茶合、茶則、茶計とも言われる。お茶の葉の量をはかり、急須に入れるために使用する。素材は主に竹や木で、象牙や銀製のものもある。仙媒は日本起源の道具で、江戸時代中期、売茶翁(ばいさおう)が茶葉の量と入れる時の便宜のために考案したと言われる。その後、文人趣味から、裏面に漢詩を書いたり、中国風の彫刻を施したりするのが流行した。