自筆狂歌草稿 渡辺崋山

展示期間 2007年7月5日(木)〜平成19年8月26日(日)
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恥柿本の人悪る

ほのほのとあかしの
油これきりに
しまかくれ行
機おしそ思ふ
蘇生法師

見渡せハ大根菜
の葉をこきませて
志ワきやつこそ二食
なりけり
大馬鹿富年寄

にくまれて娑婆
ふさげなる虚ッぱち
つくともつきし君
がよはひハ
気のつら行

桜色ほろ酔い顔ハ
さむからで内にしられぬ
火そふりにける

山辺のバカ人

馬鹿なやつ汐満チ
くれハあぶないに
芦辺(を)さして網打わたる

吉田にて更に女郎
のなかりせは春の
こゝろハのとけからまし
義理悪太夫

遠近のたつきもしらぬ
人なれとおぼつかなくも
かりにゆかなん

いっそ金かしてくれ
ねはなかなかに人
をも身をもうらミ
さらまし

皆本乃金高朝臣

行やらて畑にくらしつ
くそ柄杓今
ひと培糞の
きかまほしさに
切レ鞋の年雪

大晦日目にはさや
かに見えねとも我かけ
とりにおどろかれぬる

物言の重之

我いため人うちけん
くわ仲立ちにくたけて
物をおもふころかな


やかすともかゝは
もえなん女郎買


行列もよし田の宿の
だて道具ふり行くものハ
我身なりけり
常盤なる松にならへる
梅漬は今一塩の
色まさりけり
たゝ友達にまかせ
たらなん
金仏の光りなれはや水のミ
もワがたつそまに黒染
の袖
まんちうを買ひたる
銭を数ふれハこれ
こそ中ハ最中なりけり
下女いたミ蕎麦もる皿
ハおのれのミくたきて
ものをおもふころかな
かりそめの博奕にまけた
くやしさにふるさと寒く
衣うつなり
たれをかもしる人に
せん頼母子のむ
かしハ今の事ならなくに
帷子は小川の水になか
れけんミそきそ夏の
しるしなりけり
離縁状おとしに遣たこの
あまめあまのおふねのつなて
か(な)しも
ちとせまてかきれる
我の無信心君に
ひかれて善光寺
五月雨にお客さひしき
うなき屋はやくやもしほ
の身もこかれつゝ
 
同時開催
渡辺崋山と斎藤香玉 (特別展示室)
 初公開―崋山の閨秀(けいしゅう)画家の粉本、崋山が香玉に与えたと伝えられる四季山水画冊ほかを展示します。

作者紹介
斎藤香玉 [さいとう こうぎょく] 文化11年(1814)〜明治3年(1870)
 上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。

次回予告
企画展 没後10年 写実と抽象の融合大場厚展 (企画展示室)
平成19年8月31日(金)〜9月30日(日)
 明治41年、渥美郡田原町大久保(現田原市大久保町)に生まれた大場厚は、昭和5年(1930)岡崎師範学校専攻科を卒業し、昭和15年二科展に初入選します。同年正宗徳三郎・向井潤吉に師事。昭和20年より成章中学校美術教諭となり、同21年、向井潤吉の誘いを受けて、行動美術協会結成に参加、会友となります。翌年、東海行動美術協会を結成。昭和30年、行動美術協会会員となり、以後審査員。昭和34年、向井潤吉・田中阿喜良とともに渡仏。昭和37年に教職を退き、パリス工芸株式会社を設立し、行動美術展を中心に活躍するかたわら、東三在野美術協会などのグループに参加。平成9年逝去、同18年、行動展出品作品を中心とする作品の多くが田原市博物館に寄贈されました。
 本年は没後、10年にあたり、寄贈された作品を中心に展示し、「街かど」(1964)・「家群A」(1965)などの半抽象的な作品を中心とした時期と1979年からはじまるカモメとコバルトブルー空間の「飛」シリーズを代表とする写実的な描写を取り込んだ後半期までの流れを回顧する企画となります。

※8月28日(火)〜30日(木)は展示替のため臨時休館

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田原市博物館
TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp

田原市教育委員会 http://www.city.tahara.aichi.jp/section/kyoiku/ こちらもご覧ください。