渡辺崋山の書

展示期間 2007年7月5日(木)〜平成19年8月26日(日)
自律狂歌草稿の詳細はこちら

崋山の書は若い時期には中国の先人の書を見習っていたようだが、達筆とは必ずしもいえない。蔵書には中国の書論・書評も多い。書も次第に上達し、文人画精神をよく反映している。特に田原蟄居中の書は、江戸の政治から離れて、穏やかな気持ちと自決を決意した清みきった気持ちからか文字に力がある。

展示作品リスト
田原市博物館(特別展示室)
指定 作 品 名 作者名 年 代 備 考
  信長判じ絵
(のぶながはんえ)
渡辺崋山 天保年間  
  織田信長座右銘某宛書簡
(おだのぶながざゆうのめいぼうあてしょかん)
渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
重文 自筆墓表(不忠不孝渡邉登)
(じひつぼひょう - ふちゅうふこうわたなべのぼり)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
  辛丑元旦詠詩二首
(かのとうしがんたんえいしにしゅ)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
  東銘屏風(とうめいびょうぶ) 渡辺崋山 天保年間  
  西銘屏風(せいめいびょうぶ) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  雷金製法(らいきんせいほう) 渡辺崋山 天保年間  
  崋山先生数字書(かざんせんせいすうじしょ) 渡辺崋山 天保年間  
  耐煩二大字額(たいはんにだいじがく) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  中秋歩月五言律詩(ちゅうしゅうほげつごごんりっし) 渡辺崋山 文政2年(1819)  
重文 自筆遺書(渡辺立宛)
(じひついしょ - わたなべたつあて)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 自筆渡海願書(じひつとかいがんしょ) 渡辺崋山 天保8年(1837)  
重文 自筆助郷書類
(じひつすけごうしょるい)
渡辺崋山 天保9年(1838)  
重文 自筆狂歌草稿
(じひつきょうかそうこう)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 渡辺崋山印
(わたなべかざんいん)
     
  曲亭馬琴宛書状
(きょくていばきんあてしょじょう)
渡辺崋山 文政12年(1829)  
重文 自筆遺書(椿椿山宛)
(じひついしょ - つばきちんざんあて)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 自筆扁額(報民倉)
(じひつへんがく - ほうみんそう)
  天保7年(1836) 常設展示室に展示

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

作者の略歴
渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役(おとぎやく)を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄役となる。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋(なんぴん)画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山(つばきちんざん)、福田半香(ふくだはんこう)、平井顕斎(ひらいけんさい)などがいる。蘭学にも精通したが、天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入(あがりやい)りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。
作品の見どころ
渡辺崋山印
 渡辺崋山の使用した印で、総数は22ある。両面使用できるものも2個あり、印面の数としては24ある。印材は江戸時代に一般的に使用されていたもので、刻者の判明しているものもあり、当時、白文のてん刻にすぐれた細川林谷(ほそかわりんこく)(1782〜1842)、後に江戸のてん刻界の二大流派となる精緻で優美な作風の浄碧居派と称される益田勤斎(ますだきんさい)(1764〜1833)、その他毛鳳(もうほう)、佐藤晋斎(さとうしんさい)、蓬堂(ほうどう)(渋谷か?)によるものがある。また、印をおす時に、位置を決め、印影のゆがまないように用いる曲尺形(かねじゃくがた)の定規である印矩(いんく)3個と印が収められる箱が付属する。

自筆遺書(渡辺立宛)
 渡辺立は、崋山の長男で、崋山が自決した翌年にあたる天保13年(1842)2月に11歳で、五人扶持で田原藩に召抱えられた。嘉永2年(1849)謙太郎(けんたろう)と改名し、納戸役となった。その後も刀番、学問所素読(そどく)世話方に任命され、嘉永6年に一学(いちがく)と改名する。安政3年(1856)側用人になったが、江戸で亡くなった。 「倅(せがれ)へ(封書の表) 御祖母様御存中ハ何卆 御機嫌能(よく)孝行ヲ尽へし其方母不幸 之もの又孝行尽(つくす)へし 飢死るとも二君に仕ふ可(べ)からす  月 日 不忠不孝之父 登 渡邉立との 姉弟之事ハ存寄次第」封書の表と遺書本文は「全楽堂記」「邉氏−立印」で割印され、巻物に仕立てられている。

自筆狂歌草稿 渡辺崋山 『崋山会報』第9号から第18号に連載
この巻物には、次のような添書がある。末尾にある「華国」とは田原藩士鏑木轍の長男鏑木華国のことで、渡辺小華の画弟子で、崋山会の設立と『渡辺崋山遺墨帖』発行に尽力した。(最終ページに本文の読みを掲載)
蔵王山麓熊野社 蔵王山麓の熊野社
毎祭祀社頭献燈 毎に祭祀の社頭に燈を献じ、
題狂歌勝畫時 狂歌を題し畫を勝(かざ)る。時に
天保十二年辛丑夏 天保十二年辛丑夏
藩中青年請之先生 藩中の青年之を先生に請ふ。
先生苦笑稍久即夜戯 先生苦笑し稍(や)や久しくして即ち夜戯れに
口吟狂体百人一首 狂体百人一首を口吟す。
録以授之云惜哉 以て録し之を授けて云ふ。惜しい哉、
散佚不完僅存 散佚(さんいつ)して、完からず。僅かに
四十六首耶 四十六首を存するのみと。
大正二年春三月  
三州田原華国木知識  

自筆渡海願書 渡辺崋山
代官羽倉外記(はぐらげき)が幕府の命により伊豆諸島を巡察する。その一行に加わりたいと考えた崋山が田原藩に伊豆諸島への渡航願を提出するための下書きで、日付は12月25日となっている。

中秋歩月五言律詩 渡辺崋山
「俗吏難與意。孤行却自憐。松林黒于墨。江水白於天。樓遠唯看燭。城高半帯雲。不知今夜月。偏照綺羅莚。 中秋歩月 于時在和田倉官舎 登」とある。読みは、「俗吏意を與(とも)にし難く。孤行却って自ら憐れむ。松林は墨より黒く。江水は天よりも白し。樓は遠く唯燭を看る。城は高く半ば雲を帯ぶ。知らず今夜の月。偏(ひとえ)に綺羅(きら)の莚(むしろ)を照らすを。 中秋の月に歩む 時に和田倉官舎に在り 登」である。 文政2年(1819)田原藩に江戸城和田倉門(現在の東京駅丸の内口正面にあたる)の改築加役が命ぜられた。中秋の名月、当時は十一代将軍家斉の時世で、江戸城では夜には宴を催し、ろうそくの光が夜空を染めていた。崋山は和田倉門改築の監督を六月から勤め、八月に官舎で読んだものである。工事は文政6年まで続けられ、田原藩でも改築費用捻出のため、借金と藩士の引米をしていた。意味は、「眼前の仕事に汲々としている官吏たちは天下国家のことを思うことはむずかしい。自分は下級武士として身のあわれさを思う。中秋の名月が照る下で、江戸城をめぐる堀端の松林は墨よりも黒い。堀の水が月の光を映して天空の色よりも明るく輝いている。望み見る江戸城の高楼には、長夜の宴に明るく耀く燈火が見え、城は半ば雲を帯びて高く、将軍は藩の下級武士の苦労や悩みなどは知らぬように、遠く高く雲の上の人である、月はただ綺羅を尽くして、高楼の宴席だけを明るく照らしていることを将軍や宴席にいる者は知らない」と表現をぼかしてはいるが、幕藩体制への憤りを詠み込んでいる。

西銘屏風・東銘屏風 渡辺崋山
宋の学者張載(ちょうさい)(1020〜77)が書いた戒(いまし)めの言葉。書斎の東窓に東銘、西窓に西銘を掲げていた。東銘には人間の言動をつつしむべきことが述べられ、西銘には人間の仁道について書かれている。

辛丑元旦詠詩二首 渡辺崋山
「辛丑(かのとうし)」は、天保12年で、崋山最晩年の作である。「49年も奉公して少しも役に立たなかった。今までの不始末も改めず、衛の伯玉(えいきょはくぎょく)(49歳にして、悟り、前非を改めた)にも恥ずかしい。楽しみは70歳になる母(萱堂)と数々の書物があって私は人一倍楽しい」との意。
萬甍烟裏海暾紅 投刺飛轎/西又東 滾々馬声皆酔夢 今/朝真個迎春風
四十九年官道樗/ 昨非不改耻衛 無之難里只知/楽 七十萱堂数架書 随安居士

自筆墓表(不忠不孝渡邉登) 渡辺崋山
絵を描くための絹地に認めたもの。「不忠不孝渡邉登」の左には、小さな字で「罪人石碑相成(ざいにんせきひあいなら)ざるべし、因(よって)、自書」とある。前日の十日に自殺をしようとしていたが、母親の監視が厳しくその日にはできず、天保十二年十月十一日の昼下がりに崋山は自決することとなる。前年十一月三日の椿椿山に宛てた手紙の中で、「僕今幸に親ノ在スアリ。親在ス老ヲ称サズ礼也。然トモ老少不定、旦(あした)ヲ料(はか)ルヘカラス。モシ杏翁ノ如キニ逢(あわ)バ、必カク願候。不忠不孝姓名墓、半香ニモ話シ置候。唯訴ル所ハ尊兄ノミ。自不称(みずからしょうさず)トモ人皆可知(しるべし)。然トモ僕カ存スル所以(ゆえん)ハ、天下ノ御慈仁也。或ハ僕カ如(かくの)此(ごとき)ハ、衆ニ御示シナルヘケレハ、身後モ又人可知也。自ラ以(おも)フニ、善ヲ鳴(まま)ナラス、固可(もとよりたる)足様無之(べきようこれなく)、悪ヲ鳴スモ亦可足者ニ非。唯一郷一村ニ草木ト腐朽致セハ、石ハ廃壊シ易キヲ望ム也。」(重要文化財『絵事御返事』渡辺崋山関係資料のうち・田原市蔵)と記し、死ぬ時は「不忠不孝」の墓名を願っている。崋山は宋の忠臣鄭所南(思肖)を尊敬していた。彼は元に滅ぼされる宋のために野に下った。彼は死に臨み、友人に自らの碑を書かせ、「大宋不忠不孝鄭思肖」と言った。国を憂え、幕府の鎖国体制の非を糾弾したのも、この思想にもとづくものであった。この書が母の目に留まるのを恐れ、急いで巻き納めたため、乾ききっていない墨が所々に付いたと伝えられている。

報民倉
崋山は、気候不順が続いた天保年間前半に、諸国の様子を参考に飢饉を見通して、領民救済に備える備蓄倉庫の建設を藩主に願い出て、この許しが出たことから、天保6年(1835年)田原城の東南外濠沿いに建設が行われた。『報民倉』という名は建てる以前からつけられていて、領民達は自らを救う穀倉であるということに感激して、奉仕を願い出る者が連日後を絶たなかったと言われる。建設に際しては、身分・年齢・性別に関係なく領民の勤労奉仕によって進められ、官民一体となって取り組んだ飢饉対策事業となった。総日数66日、4,534人工で2棟60坪の建物が完成した。田原藩は、この報民倉により、天保の飢饉(天保7・8年)において一人の餓死者、流亡者(りゅうぼうしゃ:故郷を離れて方々をさまよう人)を出すことなく、幕府から全国で唯一表彰を受けた。建物は後に2棟が建ち、4棟となった。明治末年頃まで建物が現存し、取り壊された際に、扁額のみが保存された。

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田原市博物館
TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp

田原市教育委員会 http://www.city.tahara.aichi.jp/section/kyoiku/ こちらもご覧ください。