渡辺崋山とその時代〜蘭学の友
展示期間 平成18年7月27日(木)〜平成18年9月10日(日)
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作品紹介
●客坐掌記 天保8年
 崋山の末弟如山こと五郎が亡くなった年の手控画冊である。外国船と思われる帆船のスケッチに「南風強相来砌、マキルノ図、風に向ヒ去ル」と書かれる。カタカナの書込みに外国名の表記もあり、海外知識の受容が見て取れる。
●崋山先生略伝補
 三宅友信が74歳で記した崋山生前の思い出をまとめたもの。表紙には小華夫人須磨により、「三宅友信老公之書」とある。下総国香取郡佐原の名主清宮秀堅(1809〜1879)が著した幕末の画人の伝記をまとめた『雲烟略伝』の増補の意味である。崋山会報第2号から3号に口語体で連載されている。
●医原枢要 内編
 日本最初の西洋生理学の体系的紹介書で、長英が心血を注いで刊行したと伝えられる。内篇5巻、外篇7巻からなるが、内篇1冊のみが刊行された。
●避疫要法
 長英著で、上毛中之条の蘭法医で長英の江戸での塾、大観堂の塾頭を務めた高橋景作が校訂。逃亡中の長英をかくまった人物の一人とされる。
●二物考
 長英著作で、崋山が挿絵を描いている。原本は天保7年(1836)で、天保の飢饉にあたって庶民の窮乏を救うため、馬鈴薯(じゃがいも)と早蕎麦の栽培を勧めている。これは明治の版のものである。
●夢物語
 モリソン号打払いの幕府対外政策を批判した長英の著作で、問答体で、蘭書の訳解と長崎での伝聞に加えて、長英の意見が述べられている。幕政批判を問われないように、夢の中の集会で見聞きした形式を取っている。
●那波列翁伝
 小関三英はナポレオン伝の翻訳も手掛けたが、本人存命中は出版されることは無く、没後18年を経て、田原の松岡次郎により刊行された。
●ゑびす国の船じるし
 ロシアとイギリスの船に付けられる旗を天保8年に版木で印刷し、藩内沿岸の村へ分け与えたもので、昭和時代に復刻したもの。
●風説書
 鎖国時代に長崎来航のオランダ船によりもたらされた当時の海外情報を阿蘭陀通詞によって翻訳、清書され幕府へ提出された書類である。本来、幕府の限られた関係者しか閲覧できないものであるが、幕末時には人づてで写伝され、広まった。
●陰文竹
 陰文とは白文のことである。背景が暗く、図と題詩が白く抜けている。白文は「鄭老畫蘭不畫土 有為者必有不為 酔来寫竹似蘆葉 不為作鴎葉無節枝 己亥薄月崋山外史登」。朱文は「有威儀而無文字曰無字碑予曰面有文華而背暗當曰逡巡碑臨題自書耳呵々登又題」。
●新訳和蘭国全図
 鷹見泉石がまとめた当時唯一のオランダ国の地図。縮尺は144万分の1。泉石は世界地理・歴史に詳しかった箕作阮甫に朱入を依頼したが、その朱が刷り込まれていないもの。識語にオランダのヨーロッパにおける地理的位置、歴史を記述している。
●鷹見泉石像(複製)
 図中に「天保鶏年槐夏望日寫 崋山渡邉登」とある。鷹見泉石(1785〜1858)は古河藩(現在の茨城県古河市)の江戸詰家老で、崋山にとっての蘭学の先輩にあたる。『鷹見泉石日記』によれば、天保8年4月頃は大塩平八郎の乱事後処理のため、大坂に滞在していた。また、画稿の存在が知られていないことはミステリーである。
  顔の輪郭線は濃淡の差と肥痩のある線を短く使い、目立たせず、岱赭と微妙な墨の陰影で立体感を表現する。顔の光が当たる部分に、明るい色使いを、側面と首部にはやや茶色がかった濃い肌色を使用することにより、顔の立体感を描き出す。眼には瞳孔に円形の塗り残しがある。顔部分の毛書きに対し、烏帽子の黒紐はかすれた線で、また、衣線は恣意的に太く描き、袖から下を消える線で表現することにより、人物が浮き上がるような感じを見る者に与えている。脇差の鍔の立体感も違和感なく描かれ、西洋画から取り入れた陰影を軽やかに体現することで、東洋的な肖像画の気品を漂わせることに成功した崋山肖像画を代表する傑作である。
●高野長英像(複製)
 この作品は、高野家と姻戚関係にあったかつての東京市長であった後藤新平が一時手元に置いていた。後藤新平の書簡によれば、かつては愛知県豊橋に残され、崋山の息子渡辺小華による箱書がある。煖エ一によれば、大槻文彦が『高野長英行状逸話』に、「此椿山ノ筆ハ渡辺崋山ノ粉本中ニ長英ノ顔ノミ画キテアリシニ拠リシモノト云。」と書いていることを紹介している。崋山が縮図冊に記録しておいたものを元に椿山が描いたと伝えられるが、詳細は不明である。
●蘭書目録
 友信の所蔵した蘭書のうち兵書に関する88種の目録である。
●花鳥図
 毅斎と款している。丙戌は文政9年にあたり、友信21歳であった。
●ヲ林必携
 上田亮章著と記されるが、三宅友信の著作。校閲したのは幕末の砲術家・兵学者として知られる下曾根信敦(金三郎)である。
●兵学小識
 プロシア人ブラントの原著をミュルケンが蘭訳した書物を訳述したもの。巻1〜7の内容は総論・養兵学・練兵学・製器学である。高野長英の『三兵答古知幾(さんぺいたくちいき)』は『兵学小識』の戦闘部門として訳されていたものを訂正加筆したものと言われている。
●環海異聞
 寛政5年にアリューシャン列島に漂流し、文化元年にレザノフによって日本に送還された仙台藩領石巻の回船若宮丸乗組員からの聞き書きにもとづくロシア事情等を記した書物。後に田原藩の軍船順応丸の水主として雇われた白井勝蔵が漂流した聞き取りにもこの書物から転用された図が多くある。
●三兵答古知幾
 ドイツのブラントの戦術書を訳したもの。嘉永3年(1850)潜伏中の宇和島で翻訳を完了した。当時は歩兵教練や砲術書が中心であり、「タクチキ」に対応する訳語が無く、戦略理論を論じた書として貴重である。
●三兵活法
 ドイツのブラントの原書をオランダのミュルケンが訳し、さらに日本の鈴木春山が翻訳した兵書。歩兵・騎兵・砲兵の三兵に関した近代式兵術のさきがけとなった。
 
作品紹介

※赤文字は今回の展示資料です

渡辺崋山[わたなべ かざん]
寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

高野長英[たかの ちょうえい]
文化元年(1804)生まれ、嘉永3年(1850)に没す。
 名は譲、瑞皐と号し、はじめ卿斎と称し、後長英と改めた。仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。幼時に父と死別し、母と共に実家に戻り、伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同8年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同3年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保9年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。

小関三英[こせき さんえい]
天明7年(1787)生まれ、天保10年(1839)に没す。
 出羽国の庄内藩・鶴岡出身の医者・蘭学者。名は好義、号は篤斎・鶴洲、はじめ三栄、後に三英と号した。江戸に出て、蘭法医吉田長淑に蘭医学と蘭語を学んだ。文政6年(1823)仙台藩に招かれ、蘭医学を教えた。同10年に再び江戸に出た。天保年間に渡辺崋山・高野長英と交流し、蘭書の研究にいそしんだ。天保3年から岸和田藩に召し抱えられ、天保6年には幕府天文台蘭書翻訳方を拝命された。蛮社の獄で崋山・長英の入牢を聞き、岸和田藩邸内で自害した。西洋史にも興味を持
三宅友信[みやけ とものぶ]
文化3年(1806)生まれ、明治19年(1886)に没す。
 三宅友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の子として生まれ、9代康和・10代康明は異母兄にあたる。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住していたが、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)には従四位を贈られた。
ち、日本にナポレオン・ボナパルトを紹介。著書に『西医原病略』『泰西内科集成』『那波列翁伝』などがある。

江川坦庵[えがわ たんあん]
享和元年(1801)生まれ、安政2年(1855)に没す。
 江川英毅(1770〜1834)の子として生まれ、天保6年(1835)、父の死後、伊豆韮山代官職と36代太郎左衛門を継ぐ。字は九淵、号を坦庵と称す。所領は武蔵・相模・伊豆・駿河、のちに甲斐の幕領も加わった。優秀な人材を登用し、民政を施し、「世直し大明神」と呼ばれた。種痘奨励、パンの製造でも知られる。 渡辺崋山と交遊し、海防のため高島秋帆(1798〜1866)に砲術を学び、佐久間象山(1811〜1864)、木戸孝允(1833〜1877)らに教授した。嘉永6年(1853)のペリー来航の時、勘定吟味役格となり、品川沖に砲台の台場を築造、また、韮山に砲身鋳造のための反射炉(国指定史跡)建造に着手したが、完成(1857)を見ずに没した。

鷹見泉石[たかみ せんせき]
天明5年(1785)生まれ、安政5年(1858) に没す。
 泉石は名を忠常、通称を十郎左衛門、字を伯直と称した。泉石のほかに楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)と号す。ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。古河藩士の家に生まれ、寛政8年(1796)、12歳で江戸詰となり、藩主に近侍、天保2年(1831)、41歳で家老職に就く。 譜代大名として、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中など幕府要職を歴任した土井利厚・土井利位に仕えている。土井家の重臣という立場から早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努め、また、川路聖謨、江川坦庵などの幕府要人、渡辺崋山、桂川甫周などの蘭学者、箕作省吾 などの地理学者、谷文晁ら画家、砲術家高島秋帆ら和蘭通詞、オランダ商館長など、当時の政治、文化、外交の中枢にある人々と広く交流を持ち、幕政にあたる藩主の職務に貢献したことはもとより、洋学界にも大きく寄与した。

鈴木春山[すずき しゅんさん]
享和元年(1801)生まれ、弘化3年(1846)に没す。
 江戸末期の蘭医・兵学者。田原藩医。名は強、童浦と号した。文化11年(1814)岡崎の医師浅井朝山について医術を学び、のち江戸に出て、朝川善庵の門に入り漢学を修めた。長崎で西洋医学を修め、また西洋兵学を研究し、文政7年再び江戸に出て、渡辺崋山・高野長英らと交わる。兵学書を多く著し、国防の急務を説いた。著『三兵活法』『海上攻守略説』『兵学小識』など。

村上範致[むらかみ のりむね]
文化5年(1808)生まれ、明治5年(1808)に没す。
 江戸時代末期の砲術家で、田原藩家老である。田原に生まれ、通称は定平(さだへい)のち財右衛門、号は清谷(せいこく)。高島秋帆に洋式砲術を学び、各地の藩士に指導を行って日本における洋式砲術の普及に貢献した。また、田原藩の重役として海防事業や産業振興に従事した。村上家はもと三河国加茂郡挙母(現豊田市)の出身で医師をしており、のち田原藩領内赤羽根(現在の田原市赤羽根町域)に移住、正徳年間(1711年〜1715年)に田原藩に仕えたと伝えられる。
 範致の生まれた頃の家は代官職17俵二人扶持と出身身分は低かったが、範致の卓越した武芸と意志の強さが評価され、藩隠居三宅友信の近習となった。江戸家老であった渡辺崋山の目に留まり、彼の薫陶と引き立てを受けるようになる。その際に崋山の影響を受けて蘭癖であった友信の膨大な蘭学書を読む機会があり、範致は銃砲術に強い関心を抱くようになった。また、江戸在府中に幕臣の江川英龍や下曽根金三郎の知遇を受け、ともに砲術の研究をするようになった。その中で優れた西洋流砲術家として高島秋帆の存在を知ることとなった。また、一方では斎藤弥九郎から神道無念流を学び、免許皆伝を得た後、田原に戻って同流を広めた。
 天保年間、範致は江川らとともに高島秋帆に入門、西洋流砲術を学び、同12年5月に行われた 徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)で行われた演習に参加している。これに先立って崋山は蛮社の獄のため、田原に蟄居していたが、範致の入門を心から喜んでいる旨の書簡が残っている。この時は数ヶ月教授を受けて田原に戻ったが、翌1842年夏には長崎にあった高島秋帆を訪ねて再び師事している。同年冬に帰国して田原で鉄身の大砲と砲弾を鋳造、翌年正月には藩主三宅康直の前で高島流砲術を披露し、その後田原藩の砲術に高島流を導入していくとともに、藩校成章館で多くの藩士を教育した。またこの間、師の高島秋帆が幕府江戸町奉行鳥居耀蔵の起こした疑獄事件により蟄居の身となったこともあり、範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。大垣藩など、これが大きな理由となって幕末に武備を充実させた藩も多い。さらに嘉永3年(1850)には田原藩軍制を西洋式に変更、農兵部隊を組織した。
 安政3年(1856)には西洋式帆船順応丸の建造に着手し、江川英敏(英龍の子)や先行して建造していた長州藩などの協力の下、翌々年に竣工させた。文久2年(1862)には幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。
 安政5年 (1858)、範致は田原藩の家老に就任、イリコ・淡菜などの海産物の生産を奨励し、これを西国に輸送することで収入を得ようとした。まもなく幕末騒乱期となり、明治維新となるが、範致は要職にあって藩をよく支えた。明治2年(1869)、新政府から藩大参事を任命され、続けて藩政に当たった。3年後に病死し、墓は田原市の蔵王霊園にある。また、明治30年(1897)、勝海舟題額・細川潤次郎撰文による碑が田原城跡三ノ丸に建立された。
 
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