渡辺崋山 (わたなべかざん) 寛政5年(1793) 〜 天保12年(1841) |
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。 |
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白井永川 (しらいえいせん) 明治17年(1884) 〜 昭和17年(1942) |
渥美郡花田町大塚(現在の豊橋市西羽田町)に農業を営む白井勝平の長男として生まれ、名は儀三郎、字は義人、永川と号した。18歳頃、渡辺小華の弟子で、牟呂八幡宮の神主であった森田緑雲について南画と国学の教えを受けた。緑雲の勧めで、神職を志し、明治42年に25歳で花田町素盞神社、飯村熊野神社、大村八所神社ほか数社の社掌を拝命した。神職と画の勉強以外に、蜜柑園を耕作し、家の周りがミカン畑であったので、この頃の堂号を甘林園と号した。
大正6年(1917)、師の緑雲没後、東三河南画界の若手として活躍していた永川は弟子たちと豊橋南宗画会を創立し、後進を育成し、南画の興隆に努めた。従兄弟の白井烟_が大正9年の第2回帝展に初入選すると、出身地の豊橋でも南画の機運は大いに高まり、画家を目指す若手は東京や京都へと居を移した。大正11年には、永川は牟呂八幡宮の社司となった。牟呂八幡宮の境内は檜、杉、椎などの大木が茂り、昼も暗いため、社務所の一室を霊雲深處と号し、画室とした。永川は宗偏流の茶道を修め、霊雲深處に来客があると、抹茶を点てていた。大正末期には、永川は豊橋画壇の中心となったが、豊橋南宗画会はその機能を失い、展覧会を催すことはなかった。昭和8年(1933)に、豊橋南宗画会は南画団体の墨友会と合同で、豊橋日本画協会を発足させ活動を再開した。さらに、洋画家も加え、豊橋美術協会となり、豊橋美術展が開催されるようになった。
昭和15年(1940)に脳出血で倒れる前には、写生を基調とした花鳥画を製作し続けていた。倒れてのちは、残念ながら筆をとることはできず、昭和17年に再発し、帰らぬ人となった。
若い頃には、松坂眠石に篆刻を学び、大正12年の関東大震災で烟の友人らが画印を焼失すると、印を刻して贈った。烟には「存其心養其性」と朱文で刻した遊印を贈り、烟はこれを終世愛用した。
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