開催日 | : | 平成30年12月15日(土)〜平成31年2月3日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
野口幽谷は、嘉永3年(1850)に椿椿山に入門し、花鳥画を学んだ。幽谷は、安政初年頃から画に専念し、明治5年(1872)のウィーン万博にも出品。明治10年第1回内国勧業博覧会で褒状。明治26年帝室技芸員。日本美術協会展覧会に「溪流水仙図」を出品し銀牌を受け、宮内省御用品となった。渡辺小華(1835〜1887)は、崋山の二男で、椿椿山の画塾に入門し、花鳥画の技法を習得。田原藩家老を勤め、明治維新後、田原・豊橋で画家として活躍しました。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
花禽十二帖 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
桃家春帖 | 太白堂編 渡辺小華挿絵 |
嘉永6年(1853) 安政2年(1855) 江戸時代後期 |
版本 |
渡辺小華印顆 | 田原市指定文化財 | ||
唯仁 | 明治26年(1893) | 野口幽谷書 | |
過眼縮図 | 椿二山 | 明治時代中期 | |
水墨画帖 | 野口幽谷 | 明治18年(1885) | |
第三回内国勧業博覧会審査官メダル | 明治23年(1890) | ||
水指 公子図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
松図屏風 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
双雁図屏風 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
天香玉兎図 | 渡辺小華 | 安政4年(1857) | |
受天柏禄図 | 渡辺小華 | 嘉永5年(1852) | |
花鳥画屏風 | 渡辺小華 | 明治14年(1881) | |
天中麗景之図 | 渡辺小華 | 文久2年(1862) | |
野口幽谷之像 | 椿二山 | 明治時代前期 | |
野口幽谷之像画稿五図 | 椿二山 | 明治時代前期 | |
野口幽谷翁塑像 | 青山泰石 | 明治時代後期 | 個人蔵 |
桃季山猿図 | 野口幽谷 | 明治11年(1878) | |
渡辺崋山模写猛虎図 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
海鶴蟠桃図 | 野口幽谷 | 明治22年(1889) | |
溪上水仙花図 | 野口幽谷 | 明治26年(1893) | |
竹林群雀図 | 野口幽谷 | 明治31年(1898) | 3幅対 |
竹に_ | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
花篭四友之図 | 渡辺小華 | 明治8年(1875) | |
芙蓉双鷺図 | 渡辺小華 | 明治10年代 | |
蓮池翡翠図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 太白堂孤月 寛政元年(1789)〜明治5年(1872)
五代太白堂、山口桃隣の弟子。姓は江口、文政4年(1821)、太白堂を継ぐ。天保2年(1831)9月、相州厚木に赴くにあたり、崋山は青山に住む太白堂孤月を訪ねている。10月毛武へ旅立つ際には、孤月の紹介状をもらって行く。崋山の挿画による「桃家春帖」の刊行を長く続けた。挿画は崋山が蛮社の獄で捕えられると、椿椿山に、椿山が亡くなると渡辺小華に引き継がれた。
● 野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸飯田町中坂生まれ。幼時に天然痘にかかり、生家の仕事であった大工の仕事につけず、当時著名であった神田小柳町の宮大工鉄砲弥八に入門し、製図を学んだ。嘉永3年3月19日に椿椿山に入門し、花鳥画を学ぶ。漢学を大黒梅隠に学んだ。椿山晩年の安政初年頃から画に専念し、寺子屋も開いた。明治5年ウィーン万博に出品。明治10年第1回内国勧業博覧会で褒状を得る。生涯清貧を貫き、明治中期以降の文人画衰微の折りにも、画を請われた。宮中の御用画もつとめ、明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。名は続、通称は巳之助、和楽堂と号した。作品に「竹石図」「菊鶏図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)など。門下に松林桂月(1876〜1963)、益頭峻南(1851〜1916)などがいる。
● 椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展覧会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
● 渡辺小華 花禽十二帖
小華の題字と十二図、さらに箱書もある。ヲ南田風の没骨、着彩を駆使している。牡丹、桃、山茶花、梅と小禽、枯木、秋海棠に鶉、金木犀、蓮、朝顔にキリギリス、果実など花鳥画モチーフのスタンダードが盛り込まれている。跋文に雲単鶴在主人の求めによって描くと記されるが、誰かは不明。
● 桃家春帖
『桃家春帖』への崋椿系の画家からの挿画提供は、文政4年(1821)から幕末期まで毎年続く。崋山は、二十代から俳諧師五世太白堂加藤萊石と、また萊石没後は、六世江口孤月とも親交があった。崋山も約20年にわたって版本の俳画挿絵を提供している。崋山から、天保11年に椿椿山、そして椿山没後、小華へと引き継がれている。いずれの年も速筆で、多数の原画を提供している。
● 椿二山 過眼縮図
二山は椿山の孫にあたり、崋山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。この『過眼縮図』は4冊からなり、第一冊目の表紙には「椿愛古」と書き付けがあり、椿家の家系で、「愛」が付く名の人は椿山の四子で、諱を「愛」と称した和吉とも考えられる。内容は12枚の縮図である。第二冊は一丁目に「過眼縮図」と書き、その左に「椿隆」と書かれ、二丁目に「明治廿八年 縮図 椿隆」とある。内容は師幽谷、小華、崋山、椿山の縮図があり、44丁からなり、中には自分か使用している印が捺されている。第三冊はタイトルは無く、幽谷画塾の風景と思われるスケッチが続く。「野口幽谷先生」の図や「椿隆君」、後に松林桂月の妻となる雪貞女史、天野仙霞、山高紫山などが描かれる。「椿隆君」と書いているので、二山以外の他の塾生が描いている可能性もある。23丁からなり、幽谷の絵の指導風景なども記録されている。第四冊は前冊に続き、幽谷画塾の人々(桂月、益頭峻南、大田南岳、樋口翠雨など)と日々の風景が記録される。最後近くには病床の幽谷や診療風景も描かれ、明治期の東京における絵画塾を知るための資料としても貴重である。
● 野口幽谷 双雁図屏風
没骨法で二羽の雁を描き、右と左下からはたらし込みの技法を使用した葦葉、左下には淡いピンクに胡粉の白を上乗せした海棠が眼を引く。左樹上から雁を見下ろす雀は、その眼線をたどることで画面としての方形が効果的に感じられる。画面左に「村情山趣」の印が捺される。師である椿山の若い時期のやや硬さを感じさせる花鳥画に影響をうけた作風で、大正時代までの桂月作品にもつながるものである。
● 渡辺小華 受天柏禄図
壬子は嘉永5年で、琢華堂は椿山の画塾を指し、椿山に入門した習画時代の作である。鹿が同じ構図で描かれる椿椿山筆「蝠鹿蜂猴図」(静嘉堂文庫美術館蔵)や平井顕斎の作品もあり、椿山周辺に共有されるモチーフで、椿山塾で没骨法学習に励んでいた様子がわかる。小崋落款を使用している。線描は固く、画技はまだまだであるが、謹直に師の作品を写そうとする姿勢がうかがわれる。
● 渡辺小華 天中麗景之図
天中は天の真ん中で、この時期は「小崋道人」落款を使用する。道人は道を求めて修行している、という意味で使用したのであろう。俗世間を逃れた人という意味もあるが、若き日の文人画家としては前者であろう。
● 椿二山 野口幽谷像画稿
渡辺崋山・椿椿山の肖像画では、多くの稿本の存在が知られる。顔の部分は、何度も描き直しをし、崋椿系画家が踏襲している肖像画技法を研究する上で貴重な稿本である。明治を迎えても丁髷姿を続けていた幽谷の姿を知ることができる。椿二山は椿山の孫にあたり、幽谷の画塾で学び、日本美術協会美術展覧会でも、褒状一等を受賞し、松林桂月とは同門であった。
● 野口幽谷 桃李山猿図
手を伸ばし桃をとろうとしている猿の図。やわらかで墨を多く含んだ筆法は、師椿椿山に似た点がある。落款は「戊寅春日寫 幽谷生」。明治11年の春に描かれた作品である。
● 野口幽谷 渡辺崋山模写猛虎図
松の枝に鳥がとまり、下の様子をうかがっている。その先には、笹の陰に目を見開いた虎が描かれている。「華山外史登」と落款が模写されていることから、草冠をつかう「華」で崋山の若い頃の作品の模写であろう。
● 野口幽谷 海鶴蟠桃図
呂紀の海鶴蟠桃を写したものである。背景や波の表現はアレンジされているが、谷文晁や椿椿山も描いている。画題としては、長寿の象徴として描かれる。蟠桃は、西王母の住む崑崙山にある桃で、三千年に一度だけ実を結ぶとされ、食すと不老長生が得られるという。この年、日本美術協会展覧会出品審査員を委嘱され、瀧和亭などの有志と青年絵画共進会を開設した。現宮内庁所蔵の智仁勇図三幅対揮毫を命ぜられた。この画題で、桂月も昭和11年(1936)発行の『桜雲洞画譜』に載せている。
● 野口幽谷 溪上水仙花図
9月に帝室技芸員を拝命し、翌10月にこの作品を日本美術協会展覧会に出品し、銀牌を受け、宮内省御用品となった。霞の流れを全体に漂わせ、水の流れを画面中の左から右へ、また右から左へと動きを連続させると同時に、画面奥から手前に少しずつ大きさが変化する水仙、下側に黄色と白色の密集した水仙を配することで、奥行感を演出している。交差させることで見る者の目線をコントロールしている。花鳥画家として一流の評価を得ていた作家の代表作と言えよう。
● 野口幽谷 竹林群雀図
款記に「戊戌春三月朔一日写於和楽堂中幽谷生」とあり、この年六月に亡くなるので、最晩年の作品である。画面上側に青々とした竹とその下に梅の木を描き、十五羽の雀を配す。添幅として墨画の蘭と菊があり、文人好みの四君子を意識したものであろう。
(添幅)
寒燸素烹雲而甘茶茗之味無絃和清風西愛蘭蕙之芳 幽谷生写
墨池西風一夜起染出東籬片之秋 幽谷
● 渡辺小華 芙蓉双鷺図
昭和17年に田原で開催された小華先生遺墨展覧会に出品されたものである。明治10年よりやや早い時期から似た構図の絵を描く。