崋椿系の画人が描く水

開催日 平成30年7月14日(土)〜9月2日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は江戸時代後期を代表する文人画家として知られています。田原藩が領していた渥美半島は奥郡とも呼ばれ、三方を海に囲まれていますが、常に渇水に悩まされ、赤土の荒野が広がる地域でした。水があることは、人々の生活に潤いを与えます。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  耕織図 渡辺崋山 天保年間  
市文 四季山水画冊 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  游鯉(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
重文 四州真景図(複) 渡辺崋山 文政8年(1825) 原本は個人蔵
  秋景山水図(倣藍瑛山水図) 渡辺崋山 文政年間  
  樹陰避雨図 渡辺崋山 文政年間  
市文 翠渓亭路之図 渡辺崋山 文政年間  
  臨模仇英洗硯之図 渡辺崋山 文政2年(1819)  
  三亀之図 渡辺崋山 天保年間  
  吉田橋真景図 渡辺崋山 天保4年(1833)  
  三河畠村沖螺捕図 渡辺崋山 天保4年(1833)  
市文 秋山瀑布図 渡辺崋山 文政5年(1822)  
重文 千山万水図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841)  
市文 林和靖養鶴之図 渡辺崋山 天保6年(1835)  
市文 両国橋納涼之図 渡辺崋山 江戸時代後期  
  相模川沙灘漁之図(複) 渡辺崋山 天保2年(1831) 原本は個人蔵
市文 晴風萬里図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
市文 蘭亭契会図 谷文晁 文化2年(1805)  
  田植図 山本_谷 文久3年(1863)  
  飛瀑之図 山本_谷 江戸時代後期  
  一品當朝図 鈴木鵞湖 安政5年(1858)  
  両国橋納涼之図 鈴木鵞湖 元治元年(1864)  
  千山万水図 渡辺小華 明治時代前期  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

鈴木鵞湖 文化13年(1816)〜明治3年(1870)

下総金堀村(現千葉県)のの農家に生まれた。名は雄、字は雄飛。はじめ一鶯、晩年に鵞湖と称した。天保七・八年頃、江戸に出て初め松月の門で画を学び、のち晩年の谷文晁(1763〜1840)に師事した。嘉永年間(1838〜)以降は日光・妙義山・京都・北越などを旅行しながら写生、画幅の縮写に努めた。故事人物画を得意とした。日本画家石井鼎湖(1848〜1897)は彼の次男、洋画家石井柏亭(1882〜1958)、彫刻家石井鶴三(1887〜1973)兄弟は鼎湖の子にあたる。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

↑ページTOPへ

作品解説

渡辺崋山 四季山水画冊

図の中には年記が記されていないが、付属する書付に「鶏年」との年記があり、天保8年の作品であることがわかる。群馬県緑野村の代官斎藤市之進の娘で、10歳で崋山の画弟子となった斎藤香玉(1814〜70)に与えたものと伝えられている。女性に与えた手本らしく瑞々しく広々とした画面構成の作品である。香玉は崋山の画法を忠実に守って描いた山水画は男性のような力強さを見せる。

渡辺崋山 四州真景図

文政8年(1825)6月29日から7月上旬にわたり、33歳の崋山が武蔵・下総・常陸・上総の四か国を旅した時のスケッチで、全四巻から成る。一巻は行程記録、二巻は行徳・釜原など10図、三巻は潮来・銚子など11図が載せられている。日本比較文学研究の第一人者である芳賀徹氏は、「第三巻巻頭の「潮来花柳」は、いかにもそのような風流唄がひびいて聞こえてきそうな、鄙びてのびやかな雰囲気をたたえた傑作である。黒い杉皮葺きの屋根のある棟や、白い石を並べて屋根を押えた棟等が、複雑に入り組み連なって立つ妓楼は、風よけのためか黒塗りの板壁が多くて、たしかにどこか秘密めいた享楽の翳りをも宿している。だが、それは大門前の右手に描かれた大きな藁屋根の茶店ほどにも重々しくない。崋山のたしかでやわらかな渇筆の線の走るがままに、あるいは柱の線がゆがみ、あるいは屋根の線がかすかにふくらんで、家屋全体がゆるやかに人間臭い息をしているようにさえ感じられる。すでに見た中川御番所や、十里の集落や、このあとの銚子大手の街頭写生などでもそうなのだが、崋山はこのような木造家屋やその集落が、その土地の風土とそこに住う人の生活に応じていつのまにか帯びる独特の表情をとらえるのが、実に巧みなのである。つまり彼は、家屋や集落の外貌を描きながらその内部の生活の空間まで示唆しているのであり、それは集落の肖像画、家屋の肖像画とさえ呼んでもよいものなのであった。」と評価している。元は墨線のみで描かれていたが、天保11年(1840)の日記『守困日歴』7月23日の条に「游相図着色」とあり、田原蟄居中に着色された。旅人としての崋山の視線が活かされ、自然、人の営みまでも感じさせる崋山真景図の代表作である。

渡辺崋山 秋景山水図(倣藍瑛山水図)

画面右上に「倣藍瑛法王蒙図 華山静」とある。明末期の画家藍瑛(1585〜1664?)が王蒙(1308〜1385、元末明初の画家で、元末四大家の一人。王維・董源・巨然ら古名家の法を学び、構成力のある独自の山水画を作る。)の筆法に法って描いた山水図を崋山が写して描いたものである。藍瑛の描いた秋景山水図としては静嘉堂文庫美術館に現存している重要文化財がよく知られている。この作品の谷文晁による摸本も同美術館に所蔵されている。藍瑛は明代に盛んになった折派を統合し、さらに過去の諸大家の筆法を整理した。18世紀以降の谷文晁一派にこれらの藍瑛作品は積極的に受容されている。原本を見ることはかなわぬが、荒々しく感じられるこの作品も若き日の崋山が自らの感じたままを眼前の紙本に力強く表現した勢いを見る者に感じさせてくれる。

渡辺崋山 樹陰避雨図

右幅に「渡邊登筆」と款記がある。崋山の縮図冊には文人画の先達ばかりでなく、狩野派や土佐派などあらゆる分野の縮図が記録される。江戸の都市風俗を描いた英一蝶などを意識したものか。突然のにわか雨に雨宿りに集まった人々を右幅に、一本の傘に寄り添う三人を左幅に描く。下を向いて飛ぶ燕や三人に付き添う足の犬もかわいらしい。崋山が得意とした動きのある風俗画である。

渡辺崋山 翠渓亭路之図

左上賛詩の五言絶句「翆色晴来迎、長亭路去遥、無人抗煙 、落日払溪橋 崋山渡邉登寫」。
天空に翆峰聳え、山峽の亭楼に初秋の気訪れんとす、渓流に沿ひて登る、亭路を進む二老と従者あり。指差す人物の「あちらへまいろうか」と言う声が聞こえてきそうである。

渡辺崋山 臨模仇英洗硯之図

文政2年春崋山27歳の作品。山の周りを瑞雲がたなびき、下り落ちる溪水は流れて池を作る。松の下に机を置き、小憩する王羲之とその側で扇を持つ侍童、池畔で硯を洗う童子が描かれている。この画は『太平寰記』に出てくる故事を描いたものである。浙江省会稽の蕺山の下で王羲之が硯を洗い、この池を洗硯池と称した。この原画は明の仇英の作品で田原藩御納戸文庫にあったものを、文政元年に藩公のお供で崋山が田原に来た折に摸写し、江戸へ帰ってから翌年、需要に応じて揮毫した作品である。繊細な筆致に崋山の若き日の研鑚ぶりがうかがわれる。

渡辺崋山 三亀之図

崋山から弟子の高木梧庵に絵手本として与えられたものと伝えられている。梧庵は、名島氏の出生で北村・高木の二姓を名乗り、通称は真吉・秦吉・晋吉といい、のち縫殿之介と称した。号を梧庵・愛葵・香遠・鴨青・水壺・南梧里・鴨川志摩丸・雲錦亭等を名乗る。天保5年3月20日に崋山から梧庵へ京都の季鷹流狂歌の宗匠山本家へ養子となったことの祝い状があり、この頃に京都へ移ったようである。加茂の社に仕えて雑掌・執事を勤めた。天保2年の9月崋山が相州厚木に旅行した時と、同年10月桐生・足利に旅行した時、梧庵が随行したことが『遊相日記』『毛武游記』に見える。また、梧庵は蛮社の獄後、田原へ幽居した崋山を訪ね、田原龍泉寺に宿泊した。画学に関する手紙の往復も見られ、天保五年までは崋山と非常に近い関係にあった人物である。

渡辺崋山 吉田橋真景図

画面右に「吉田橋 癸己四月全楽堂記」と書かれている。吉田橋は東海道にかかる橋で、現在の豊橋市今橋町・関屋町と下地町を結ぶ位置にあった。現在の吉田大橋の位置と考えられる。江戸幕府直轄の橋として管理された。橋のたもとには、吉田神社と思われる建物がある。
 天保4年4月15日から記録された『参海雑志』では4月19日と考えられる頁に描かれる。前日の18日に畠村(現田原市福江町)と三河湾内の佐久島または幡豆海岸、19日と考えられる頁には、吉良の茶臼山・華蔵寺・横須賀、西尾市の八ツ面山、豊川市音羽町にあたる萩・長沢、同一宮町の本宮山の次に旅したと考えられる吉田が描かれている。この年1月18日、江戸を出発し、田原到着までを『全楽堂日録』の後半に「已下征参録」として田原到着まで、続く『客参録』として2月1日から22日まで、それに続くのが『参海雑志』である。

渡辺崋山 三河畠村沖螺補図

『参海雑志』の4月18日に記録される「ハシタ(現蒲郡市西浦町の橋田の鼻)」「弁天シマ(弁天島は現西尾市幡豆町東幡豆)」「カチシマ(現西尾市吉良町)は梶島」「幡豆ノ諸山」「宮崎(現西尾市吉良町宮崎)の幡豆郡宮崎村」の三河湾の風景と「畠村螺ヲ捕ル」の図を上下に組み合わせて描いたもの。螺とは、この地では「にし」と呼ばれる食用の貝のことを指す。

渡辺崋山 千山万水図

図上に「千山萬水図 丁酉六月朔五日 迎快風寫之子安」と書し、「模古」の印を捺し、他の山水画の摸写と考えられるが、崋山のイメージの中にある風景を透視遠近法的に鳥瞰的に表現している。山の緑と平地の褐色、海の青が織り成すコントラストは、田原へ来て、半年余、奉行所での取調べ後の体調が戻ったためか、明るい色調は見る者に雄大さを感じさせる。近景には高さのある瀑布、その流れの先には集落と人々が描かれる。さらに中景・遠景にも複雑な海岸線の間に多くの集落が描かれ、構図から三浦半島とする説もある。また、「千山万水」という言葉も、天保三年刊行の『画本唐詩選』「宋之問・吟第二図」とその蟄居中の心境も含めた関連性も指摘され、天保八年のアメリカ商船が追い返されるモリソン号事件から一部の船は外国船として描いたと考えられている。鎖国日本の行く末を予感させる。「丁酉」は天保8年であるが、年記を遡及した田原蟄居中の作品と考えられる。

渡辺崋山 林和靖養鶴之図

林和靖(967〜1028)は、浙江省の出身。早くに父を亡くし、独学で、西湖の孤山に住み、杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。妻子をもたず、庭に梅を植え、鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といっていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない。本図は天保6年閏7月28日に描かれる。

渡辺崋山 両国橋納涼之図

両国橋は隅田川に架かる橋で、現在の東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡する。寛文元年(1662)完成。現在の長さ162メートル。江戸時代から川開きの花火の名所。「崋山」の号を使用しており、30歳代後半の作品と考えられる。「一掃百態図」「両国橋図稿」から続く俳画風の作品で、人物描写により円熟味が出ている。

渡辺崋山 晴風万里図

落款に「丁酉六月朔五日迎快風寫之子安」とあり、朱文方形印の「渡邉登印」と白文方形印の「崋山樵者」を捺す。近景にあたる庵の中に人物を描き、はるか遠くからS字に下ってくる川の流れに悠久の時を感じさせる。明るい色遣いが暖かみとなっている。

谷文晁 蘭亭契会図

蘭亭の会は、晋の時代である永和9年(353)3月に、謝安(320〜385)・王羲之(307?〜365?)ら名士41人が蘭亭に会し禊をし、曲水に觴(さかずき)を流して詩を賦したことを指す。画面中央の庵の中で机上揮毫しているのが王羲之である。 後半生では、需要があったのか、更に濃彩な青緑山水図が多くなってくる文晁であるが、文化年間前半ではまだ青緑、朱紅等のあでやかな色を淡く使い、周景との調和を保とうという意識が感じられ、画面に気品が漂う。

山本琹谷 田植図

作品名は「田植」となっているが、田の中にいる農夫たちは、いずれも頭に笠をかぶっている。川と田の間には、田に水を引き入れている作業風景も描かれている。「夏耕之図」に比べれば、細密感は薄れ、あっさりと描かれている。特に遠景には、霞とともに、煙るような初夏の米点で表現された山が描かれる。

鈴木鵞湖 一品當朝図

画中に「一品當朝図」とある。「一品當朝」とは、鶴が波の打ち寄せる岩に立つ画題で、「當(当)朝」とは朝廷で一品の位に昇進するという意味があり、吉祥画題となる。「後藤雅」という人の長寿と昇進を祝うために描かれたもので、霊芝も描かれる。

鈴木鵞湖 両国橋納涼之図

渡辺崋山の模写である。鵞湖49歳の時の作である。落款を見ると「水雲山房」とあり、谷文晁が使っていたアトリエの名を譲り受けたものかもしれない。老若男女、あらゆる社会層の人々を描いた画である。『一掃百態図』(重要文化財・田原市博物館蔵)に似て人物がいきいきと描かれている。夕涼みの楽しさがあふれている。
 両国橋は日本橋と両国を結ぶ橋で、江戸文化の中心として、花火・舟遊びをはじめとして浮世絵や落語の舞台としても有名。橋の両側は江戸最大の盛り場としてにぎわった。

↑ページTOPへ