開催日 | : | 平成30年5月19日(土)〜7月8日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
椿山は画を、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門であった渡辺崋山に17歳で入門した。崋山の弟子の中で、肖像画法を最も引き継ぐことのできた画家。また、崋山の指導による画論では、写生を踏まえた清逸で高い精神性に裏付けされたもので、これらを技法として、指導し、受け継がせている。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
寓目縮写 | 渡辺崋山 | 文政9年(1826) | ||
水墨花卉画冊 | 椿椿山 | 嘉永2年(1849) | ||
琢華堂画譜 | 椿椿山 | 天保14年(1843) | ||
竹渓六逸之図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | ||
秋景游賞図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
甘草蟷螂之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
市文 | 商山四皓 | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
老猿図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
関羽図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 個人蔵 | |
蘭竹図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
重美 | 牡丹図(複) | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | |
椿椿山画稿 | 椿華谷 | 江戸時代後期 | ||
江山漁楽図 | 椿椿山 | 天保10年(1839) | ||
重文 | 冉雍(仲弓)像 | 椿椿山 筒井政憲賛 |
嘉永元年(1848) | |
重文 | 小集図録及び書簡 | 椿椿山 | 天保11年(1840) | |
吉村貞斎像 | 椿椿山 | 天保3年(1832) | ||
平山子龍像 | 椿椿山 | 天保4年(1833) | ||
重文 | 高野長英像(複) | 椿椿山 | 天保年間 | 原本は高野長英記念館蔵 |
柳枝魚影之図 | 椿椿山 | 弘化3年(1846) | ||
伯夷像 | 椿椿山 椿蓼村賛 |
嘉永元年(1848) | ||
老女像稿 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
五瑞図 | 椿椿山 椿華谷 小田莆川 |
天保12年(1841) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。惲南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 渡辺崋山 寓目縮写
文政9年の手控画冊の題としては『寓目録』が一般的である。表紙に「丙戌春二月第二」「丙戌孟夏第三」「丙戌孟秋第四」「丙戌第七及丁亥」と記された4冊が知られ、いずれも『寓目録』と題される。その間を埋めるもので、表紙に「寓目縮寫 丙戌仲秋第六」とある。作品の摸写も多いが、鮎や犬の顔のスケッチなどもあり、崋山の観察対象は古画作品にとどまらない。
● 椿椿山 水墨花卉画冊
各10図を2冊に仕立てたもので、各図に詩が添えられている。白文連印の「椿山」、白文方印「琢華」、朱文方印「弼」、朱文長方印「平弼」、朱文円印「弼」、白文長方印「椿山山人」などが捺される。最後の図に「己酉秋七月」と完成した年月を記す。水墨のにじみを巧みに利用している。
● 椿椿山 琢華堂画譜
虫、鳥、草花、果実にいたるまで多種多様なものを画材にしている。どちらかというと写意的な表現で味のある作品であるが、特に注目したいのは色使いである。微妙な色による質感の表現は絶妙である。しかし、残念なことに印が後押しされている。「癸卯霜月竣於休庵」の落款がある図には、朱文円印「椿」白文方印「□印」(判読不能)が捺される。
● 渡辺崋山 竹渓六逸之図
付属の箱書に崋山の画弟子として知られる椿椿山(1801〜54)の直筆で「趙松雪竹渓六逸 護持院什物崋山先生模」とあり、「椿山椿弼鑒蔵図書」の印が押される。趙松雪は、宋の太宗の血を引き、詩文に優れ、元朝に仕え、馬を巧みに描く画家としても聞こえた趙子昂(一二五四〜一三二二)の作品を摸写したものであることがわかる。作品の摸写としては、非常に精緻なもので、画面の虫食いまでも写し取っている。崋山の当時の画力が相当な力量であることがうかがえる。
● 渡辺崋山 商山四皓
付属の箱書によれば、元は掛川城居間の小襖絵であったと伝えられるものである。「商山四皓」とは、秦の時代に乱世を避け、陝西省の商山に隠れ住んだ東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公の四老人のことである。漢の高祖が太子を廃位しようとしたとき、張良の招きにより太子を補佐したため、高祖は廃位をあきらめた。ひげも眉もみな白かったので、四皓という。崋山が仕えた田原藩では文政十年十月に本来の血統である友信を廃し、姫路から養子を迎えた。この画題には、藩主の養子受け入れに反対した崋山の思いが感じられる。元になる作品の存在も感じられるが、その人物表現には見る者に既に非凡さの片鱗を感じさせる。
● 渡辺崋山 蘭竹図
一行目に大きな字で、「東山月生光。照我庵中竹。道人發清嘯。獨愛此?々。」と記し、その左に「梅華道人画竹天下絶無也。而欲?之者、為甚於瞽者之形象矣。椿山兄深画理、而漫然画之以應求。嗚呼般門弄斧之譏、豈能免乎。登頓首。」と記す。椿山に贈られたもので、元末四大家に数えられる梅道人呉鎮(一二八〇〜一三五四)に倣ったものである。椿山が梅道人に倣った竹図を人の依頼に応じ、たやすく与えていることに対し、戒めている。崋山の筆勢には一瞬の迷いも無い。
● 渡辺崋山 牡丹図
蛮社の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日々を送る身となった。崋山の画弟子福田半香(1804〜64)らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうと考えた。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保十二年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、後に「腹切り牡丹」と称されたものである。
陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として評価される崋山であるが、この図は、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す没骨法で描かれており、東洋画の技法もよく研究している様子が窺われる。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富に受容できるのは、武士の教養としての儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる 臙脂を著し、聊か以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々としたべに色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところか。残念ながら、崋山が描いた当時の色はあせてしまっているが、当時の評判が色鮮やかな牡丹を見る者に想像させる。
● 椿華谷 椿椿山画稿
縦に2枚の絵が並び、表装される。上には、笙を傍らに机の前に座す椿椿山のラフなスケッチ画が描かれる。作者は息子椿華谷(1825〜50)である。右に、「三尺巾絹」とあり、本図の存在を窺わせる。笙(しょう)は雅楽の管楽器の一つで、木製椀型の壺の周縁に長短17本の竹管を環状に立て、うち2本は無音で、他の15本にはそれぞれの管の外側または内側に指孔、管の脚端に金属製の簧(した)がある。壺にある吹口から吹いたり吸ったりして鳴らした。椿山は笙笛の名手であったと伝えられている。椿山の顔の部分は、上の画の完成した部分であると考えられる。絹本に描かれているが、破れ等の破損が著しかったためか、切り取ったものと思われる。花鳥画の評価が高い華谷であるが、崋山から椿山に引き継がれた肖像画法をよく学び取っていたことがわかる。
● 椿椿山 江山漁楽図
漁と樵は自然と共に生きる文人の隠匿の理想とするもので、の作品に描かれる情景はまさにそれである。夕暮れ時、近景には船上に暮らす人々の様子を描くが、酒を酌み交わし、釣り糸をたらし、衣服を干す。中景には鵜飼の船が見える。ありきたりの山水画よりなんと中国臭いことか。
中央の樹木はいかにも惲南田の影響を感じる。椿山の描く山水図は少ないが、文晁・崋山のそれよりいずれも温かみを感じる。頼りなく思える線描は、むしろほのぼのとした風景の表現にぴったりである。緻密な描写はみられないものの、紙本に染みる墨、藍、代赭系の色彩、全体の画趣はやはり田能村竹田に通ずるものがある。
本図には、小野湖山はじめ4名が寄せる添巻1巻が付属する。
● 椿椿山 冉雍像(孔門十哲像のうち) 嘉永元年(1848)
「戊申冬十月椿弼敬寫」とあり、南町奉行であった筒井憲こと筒井政憲(1778〜1859)の賛が添えられる。蛮社の獄の際に、町奉行の常番であったが、嫌疑をかけられた下曽根金三郎は筒井の次男であったため、非番だった大草安房守と交替した。冉雍(前522〜?)は孔子門下の十哲に数えられ、仲弓といい、魯の大夫・季氏の宰(長官)を勤めた。父の身分は卑しかったが、孔子は本人次第と励ましている。孔門十哲像はその描かれた人物と共通点がある学者・画家に作品を依頼したと伝えられる。
賢無気類犂牛育騂/奉敬恕教希仁禮成/簡口墨重厚不躁不軽/許南面度然大簡評/聖門哲弟以徳行名
● 椿椿山 小集図録及び書簡
渡辺崋山にゆかりある画人たち(当日、椿山に入門した者もいるが)が集まって画会を楽しむ様子が伝わってくる作品である。この作品には、福田半香宛の書簡が付属している。椿山は福田半香を通じて、この作品を崋山に届けさせ、落款の意見を求めている。意見を求めつつ、蟄居中の崋山に近況報告をして励ましたかったのだろう。
描かれた人物(右端から) | 備考 | 描かれた人物 | 備考 |
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椿 和吉 | (椿山四子) | 斎藤 香玉女 | (崋山弟子) |
請地 ヤ二良 | 鈴木 鱸香 | ||
大凹 培生 | (茂八?) | 石原 恒山 | (滝太郎) |
村上 湘帆 | 一木 翠涯 | (平蔵、浦賀奉行の用人) | |
椿 好三 | (椿山末子) | 山本 琴谷 | (崋山弟子、津和野藩士) |
早川 貞橘 | (舟平倅) | 小田 莆川 | (崋山弟子、旗本戸川氏家臣) |
齋藤 新太 | (新太郎) | 高喬 益女 | |
高喬 直二 | 金田 星岳 | (織之助) | |
神村 愛山 | (九十郎) | 高久 靄厓 | (崋山友人) |
高喬 志淵 | 大凹 翠音 | (茂八?) | |
庵原 忠寛 | (田舎之助?) | 長谷川 寿山 | (崋山弟子、のちの永村茜山) |
椿 恒吉 | (椿山長男) | 荻埜 絳雪 | (金太郎縁者?) |
鈴木 以保女 | (市郎右衛門娘?) | 山内 芳馨 | (庄助縁者?) |
小森谷 栗斎 | (宗五良) | 椿 篤莆 | (崋山弟子、椿山) |
● 椿椿山 吉村貞斎像
題賛に「謂不肖吾ニ是親 鏡中真影匪他人 肖哉真也毫端妙 永世相傳舎精神 天保癸巳春貞斎吉村球題肖像之圖賦且書」とあり、別紙に「戒眷屬云 はらたゝずわがまゝいはず むつましく たがひにふしやう するが世の中 辭世云 身の後のことを おもへばかぎりなし かぎりある身ハ いまかおさらハ、臨終正念南无阿弥陀佛 南無妙法蓮華經」とある。図中に「壬辰小春椿山平弼寫」とある。五三桐紋に総髪の姿を考えれば、名のある医家と考えられるが、吉村貞斎という人物の詳細は不明である。
● 椿椿山 平山子龍像
平山子龍(1741〜1828)は兵学者で武術家であったが、文政11年12月24日に亡くなった。平山子龍は、江戸時代中期の武道家・海防論者で、行蔵と称する。清宮秀堅著『雲煙略伝』によれば椿山は子龍に長沼流兵学を学んだとされる。「癸已秋日椿山人寫」とあり、亡き師への追善に描かれたということになろうか。
像主は数珠を左手に持ち端座する。陰影を施した衣服表現もさることながら、一文字に結んだ口元、見据えた視線、顔の皺、眉毛の毛先方向にまで神経が行き届き、それは異様とも思える写実表現となる。椿山のあくなき対象への観察眼がうかがわれ、崋山が創出した対看写照の肖像画様式を着実に取り入れている。椿山三十三歳の初期の肖像画作例として、貴重なものである。
● 椿椿山 高野長英像
高野長英(1804〜1850)は仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同8年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同3年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保9年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。
この画は、高野家と姻戚関係にあったかつての東京市長であった後藤新平が一時手元に置いていた。後藤新平の書簡によれば、かつては愛知県豊橋に残され、崋山の息子渡辺小華による箱書がある。高橋磌一によれば、大槻文彦が『高野長英行状逸話』に、「此椿山ノ筆ハ渡辺崋山ノ粉本中ニ長英ノ顔ノミ画キテアリシニ拠リシモノト云。」と書いていることを紹介している。崋山が縮図冊に記録しておいたものを元に椿山が描いたと伝えられるが、詳細は不明である。
● 椿椿山筆・椿蓼村賛 伯夷像 嘉永元年(1848)
伯夷は、古代中国殷の時代、孤竹国の王子で、儒教では聖人とされる。名は允・字は公信。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位につくことを良しとせず、兄に位を継がそうとした。そこで、伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。兄弟は、周の文王の評判を聞き、周へ向かうが、この頃、既に文王は亡くなっていた。文王の息子、武王が殷の王を討とうと、進軍する最中であった。父の死後、間もないのに、主君である殷の王を討つのは、不忠であると、説いたが、聞き入られなかった。この後、二人は、周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、武王が新王朝を立てたときは首陽山に隠れ、山菜を食べていたが、最後には餓死した。
賛を書いた椿蓼村(1806〜1853)は、書家として知られた。通称は亮左衛門。蓼村の娘は椿山の長男、華谷(1825〜1850)に嫁ぎ、一女をもうけた。
● 椿椿山 老女像稿
渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、発見時には同一の袋に入っていた。伏目がちにおとなしい老婆の上半身が描かれる。付属として、顔部の陰影が強調された部分図が貼られている。