開催日 | : | 平成30年4月7日(土)〜5月13日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山と椿椿山は師弟の関係にあります。この二人につき、影響を強く受けた画家達は「崋椿系」と称されます。また、崋山に直接、画の指導を受けた弟子たちを「崋山十哲」と呼び、十哲以外にも崋山の弟、椿山の子も弟子になります。多くは江戸に住む武士やその子でした。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
梅果図扇面 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | |
丁亥画稿縮図 | 渡辺崋山 | 文政10年(1828) | |
雲煙過眼 | 椿椿山 | 文政4年(1822) | 個人蔵 |
日光八勝図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | |
亀図扇面 | 椿華谷 | 天保14年(1843) | |
過眼録 二十七 | 椿椿山 | 天保10年(1839) | |
過眼録 二十八 | 椿椿山 | 天保11年(1840) | |
過眼録 二十九 | 椿椿山 | 天保11年(1840) | |
韓信漂母図 | 渡辺崋山 | 文政10年(1827) | |
関羽帝之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
呉竹之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
放生図 | 椿椿山 椿華谷 |
天保13年(1842) | |
桃に蘭図 | 小田_川 | 江戸時代後期 | |
月次風俗図屏風 | 山本_谷 | 慶応3年(1867) | |
于公高門図 | 井上竹逸 | 安政5年(1858) | |
秋景山水之図 | 斎藤香玉 | 江戸時代後期 | |
于公高門図 | 永村茜山 | 江戸時代後期 | |
七夕図 | 永村茜山 | 江戸時代後期 | |
仙境十六羅漢之図 | 永村茜山 | 文久2年(1862) | |
柳枝小禽図 | 渡辺如山 | 天保年間 | 個人蔵 |
摸崋山芦雁(雪芦孤雁図) | 椿華谷 | 天保12年(1841) | |
楊柳海棠双雀之図 | 椿華谷 | 嘉永元年(1848) | |
帰去来 | 椿華谷 | 弘化元年(1844) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 小田莆川
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 井上竹逸 文化11年(1814)〜明治19年(1886)
名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保10年(1839)から12年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(1798〜1866)に学んだ。天保12年5月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(1763〜1840)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。経史を大黒梅隠(大黒屋光太夫の長男、1797〜1851)に学ぶ。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年(1864)には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。天保年間の日記が神戸市立博物館に所蔵されている。
● 斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)
上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。
● 永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)
永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。
● 渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。
● 梅花図扇面 渡辺崋山
落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みすみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。
● 梅花図扇面 渡辺崋山
落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みすみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。
● 丁亥画稿縮図 渡辺崋山
表紙に「二号 丁亥画稿縮図 全楽堂」と書かれている。21丁からなるが、後半は、後から縮図を描こうと思ったものか、枠のみを描く頁もある。1丁目裏から2丁目表にかけての見開きには「三月廿九日」と書かれている。次の頁の見開きには「文政丁亥嘉平月」とあり、「嘉平月」は12月である。この頁はいずれも見開きでひとつの図を描いているので頁の交錯ではなく、最初から続けて3月と12月という離れた時期に描いている。少し後には2月17日の依頼画の控が記録される。後世整理したものか、または写しの可能性もある。
● 関羽帝之図 渡辺崋山
関羽は三国時代の蜀の名将であり、劉備に仕え勇名を馳せたが、呉の孫権に殺された。後世、国民的英雄と崇められ、関帝廟に祭られている。作品を見るとまず太く濃い墨の輪郭が目に入る。ルオーのステンドグラス職人時代に学んだ黒く太い線を思い起こさせる。画を描くことに対する視点が似通っているのであろう。又、関羽の顔には、まぶた、鼻筋、あごの辺りが他の肌色よりも白く配色されている。そのことにより立体感ある顔立ちとなっている。落款は「崋山外史登」。
● 呉竹之図 渡辺崋山
呉竹が左下から左上へと大きく曲がる。枝葉は画面一杯に拡がり、青緑、朱を以って奔放に彩色されている。崋山四十歳頃の作。落款は「全楽堂崋山樵邉登」。
● 月次風俗図屏風 山本琹谷
「月次絵」は、1年間の行事や風物を順に描いた絵で、右隻から1月、2月と順に描いている。2月にあたる節分の絵として、鬼打豆をまいている図の中に落款が「丁卯嘉平月寫 琹谷」とあり、慶応3年12月に描かれた作品であることがわかる。各図には、必ず複数の人が描かれ、その軽妙さと軽いタッチが見ている者にほのぼのと伝わってくる。こういう作品の需要がどういうところに求められたものか不明であるが、幕末と明治という時代の狭間で、当時の風俗画としても貴重である。
● 于公高門図 井上竹逸
重要文化財に指定された渡辺崋山の「于公高門図」を安政5年に写したものである。崋山の落款の「于公高門図 邊伯登製」という隷書体の文字と印記も忠実に写し取っている。その左に「安政五戊午秋七月上旬 末門竹逸井令徳模」と記している。于公高門の故事は「獄吏であった于公は、裁判をする際に公平で、人々から尊敬されていた。ある時、屋敷の門が壊れ、新築することになった。そこで、門を四頭立ての馬車が通ることのできるくらいの高い門にしたところ、子孫の代までその家は繁栄した」というもので、崋山は蛮社の獄で捕えられた際に、公正な裁きをした北町奉行所の与力中島嘉右衛門にこの作品を贈ったとされている。絹本と紙本の違いはあるが、細部までよく観察され、努力の様子が窺われる。
● 秋景山水之図 斎藤香玉
葉に薄い朱が入っていることから紅葉の季節、秋の山水図である。近景になるにつれ濃墨となりその効果で画面に奥行きが生まれている。
● 于公高門図 永村茜山
茜山は二十歳代の作品も知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(一八四八)二十九歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。金谷宿の組頭として活躍した三十歳代は特に作品が少ない。
作品の細部を見ていくと、崋山の「于公高門図」とは異なる部分も多い。遠景の岩は描かれずに、中洲と川の対岸の竹林が描かれる。画面左側に位置する松は、崋山より松葉を多くし、門左側の梅も若松に置き換えられている。門扉は閉められ、門の壇上にいた犬数頭は歩を進め、石畳の上に移動している。さらに下へ目を移すと、モッコを担ぐ二人組と肩に木を担いだ人の位置関係も前後が逆転している。衣裳の色も各人物で微妙に異なる。茜山の作品に年記はないが、井上竹逸の「于公高門図」とそう離れていない時期の作であろう。
● 七夕図 永村茜山
七夕は五節句の一つで、陰暦七月七日の夜、牽牛、織女の二星が天の川をわたって、年に一度会うという伝説に基づき、それをまつり、女子が技芸の上達をいのる行事である。
● 柳枝小禽図 渡辺如山
絖本に描かれる。落款の「如山固」は如山と本名の定固を組み合わせたものである。小画面であるが、小禽の眼差しは虫に注がれ、その緊張感を感じさせる。
● 摸崋山芦雁(雪芦孤雁図) 椿華谷
左に天保八年の渡辺崋山の落款が写し取られ、崋山作品の模写であることがわかる。雁は写実的で丁寧に描かれる。十七歳の画技としては完成度が高い。