開催日 | : | 平成30年2月3日(土)〜4月1日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山と椿椿山は師弟の関係にあります。この二人につき、影響を強く受けた画家達は「崋椿系」と称されます。明治時代の中頃まで椿山からその画系は直接伝わり、野口幽谷から松林桂月につながっています。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
三組盃 | 渡辺崋山 | 文政年間 | ||
萬里長江巻 | 井上竹逸 | 明治11年(1878) | ||
燕語春風扇面 | 長尾華陽 | 明治43年(1910) | ||
神釆帖 | 大橋翠石 | 明治40年(1907) | ||
花卉冊 | 野口幽谷 | 明治18年(1885) | ||
唐織 雪輪青海水仙文様 胴箔地 | 山口能装束研究所 復原 | 平成 | 浅井能楽資料館 佐藤芳彦記念 山口能装束研究所 寄贈 | |
市文 | 換鵞図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
墨蘭図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
桃花図 | 椿椿山 | 天保4年(1833) | 個人蔵 | |
春江山水図 | 福田半香 | 安政5年(1858) | ||
野蔬七福図 | 福田半香 | 天保11年(1840) | 個人蔵 | |
旭日鳳凰之図 | 平井顕斎 | 嘉永2年(1849) | ||
闔家全慶図 | 小田_川 | 弘化元年(1844) | ||
松鶴之図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | ||
雪景山水図 | 斎藤香玉 | 天保9年(1838) | ||
漁夫図扇面 | 永村茜山 | 文久元年(1861) | ||
消夏三友図 | 渡辺如山 | 天保年間 | ||
榴枝図 | 椿華谷 | 弘化3年(1846) | ||
牡丹子母猫図 | 椿華谷 | 嘉永2年(1849) | ||
藤花図 | 松林雪貞 | 昭和29年(1954) | ||
小休(松林雪貞像) | 松井英次郎 | 明治43年(1910) | 松林明氏寄贈 | |
黄粱一炊図 | 渡辺小華 | 明治15年(1882) | ||
花卉図 | 渡辺華石 | 昭和時代前期 | ||
野ばら双鴨之図 | 椿二山 | 明治27年(1894) | ||
牡丹之図 | 松林桂月 | 昭和時代前期 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 井上竹逸 文化11年(1814)〜明治19年(1886)
名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保10年(1839)から12年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(1798〜1866)に学んだ。天保12年5月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(1763〜1840)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。経史を大黒梅隠(大黒屋光太夫の長男、1797〜1851)に学ぶ。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年(1864)には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。天保年間の日記が神戸市立博物館に所蔵されている。
● 長尾華陽 文政7年(1824)〜大正2年(1913)
浜名郡篠原村馬群に代官藤田権十郎の三男として生まれ、名を正名、字を拙庵、華陽・不休庵と号した。江戸に出て漢学を大橋訥庵に、書を巻菱湖に、画を弘化元年(1844)から椿椿山画塾琢華堂で学ぶ。実兄は代官勤務をしながら、画もし、松湖と号した。江戸から戻り、吉田(現豊橋市)の呉服商奈良屋の長尾家をつぎ、作兵衛を襲名した。廃藩時は士族に列せられ、明治維新後、家業を子に譲り、茶道・画道を主とした生活であった。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会に出品、明治30年頃、神官となり、湊町神明社には20年奉仕した。
● 野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。
● 大橋翠石 慶応元年(1865)〜昭和20年(1945)
翠石は、その独特の虎の絵により「虎の翠石」として知られ、その晩年には中央の画壇と何ら関係を持たなかったにも関わらず高い画名を誇った画家。岐阜、大垣に生まれ、幼児から絵を好み、地元の南画家、戸田葆堂について絵の手ほどきを受け、18歳の時に京都に出て一時期椿椿山に師事した天野方壷(1824〜1895)に師事し、のち崋山の二男であった渡辺小華(1835〜1887)に東京で師事して山水花鳥の基礎を身につける。1895年、第4回内国勧業博覧会に「虎図」を出品し、初出品ながら褒状・銀牌を獲得したのを皮切りに、各種展覧会で受賞を重ねている。明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に「猛虎図」を出品し、数多の画家を抑えて日本人画家としてただ1人優賞金牌を受賞。続けてセントルイス万国博覧会(1904)で優賞金牌、日英博覧会(1910)でも金牌を受けるなど、内外の博覧会で受賞を重ねた。 昭和5年(1930)の『日本画家評価見立便覧』(日本絵画研究会)では「特別動物大家」として横山大観・竹内栖鳳に並ぶ評価を受けている。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
● 平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)
遠江国榛原郡に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。
● 小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)
上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。
● 永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)
永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。
● 渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 渡辺華石 嘉永5年(1852)〜昭和5年(1930)
名古屋に生まれ、名は小川静雄、雪香、菘園と号した。明治10年(1877)頃、渥美郡役所に書記として在任。画を渡辺小華に師事しました。明治15年、小華が上京すると、官職を辞し、東京に出ました。明治17年、第2回内国絵画共進会に出品。明治20年、小華の没後、渡辺姓を名乗り、華石を号し、崋椿系の鑑定をよくした。
● 椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展蘭会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
● 松林桂月 明治9年(1876)〜昭和38年(1963)
松林桂月は、山口県・萩市に生まれ、東京に出て渡辺崋山の孫弟子にあたる野口幽谷に師事、精緻で格調高い表現を学びました。日本美術協会展、文展に出品。帝展の審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員となりました。戦後、日本美術協会理事長。漢詩の教養を活かし、詩・書・画の全てが優れているという境地を目指す文人画−南画を描き、水墨画においては、その独特の叙情的な作風が高く評価され、昭和33年(1958)、文化勲章受賞。旧姓は伊藤。本名は篤。代表作に「春宵花影」など。
● 松林雪貞 明治11年(1878)〜昭和44年(1969)
旧白河藩主松林高風の娘として東京に生まれた。松林桂月の妻。名は孝子。野口幽谷に師事し、花鳥画を得意とした。雪貞は幽谷の画塾で同門であった桂月と明治34年(1901)結婚。幽谷についた期間は約2年であったが、崋椿系の描法を後々まで伝えた。結婚後は、展覧会への出品もほとんどせずに、桂月の支援に尽力した。
● 渡辺崋山 三組盃
日本画家である下村観山(1873〜1930)旧蔵品である。三組の盃と台座から成る。盃には崋山の画が桜(小)モクレン(中)芍薬(大)が内側に描かれている。台座は観山製作である。箱書には「銀座役人の依頼」とある。
● 井上竹逸 萬里長江巻
「萬里長江 戊寅夏日 竹逸琴士寫」とあり、朱文方形印の「竹逸」を捺す。
「萬里」とは極めて遠い距離のことである。『漢書終軍伝』には「今天下為一、万里同風」とあり、天下が統一され、極めて遠い所までも、同じ風俗になるという意味がある。「万里」という言葉には、徳川幕府体制から明治時代に入り、世の中が安定し、泰平であることを表したものであろうか。竹逸が家臣としてついた旗本戸川氏は幕臣であり、明治維新後、徳川家が駿府・遠州に転封されたことにより、江戸を離れた。戸川氏の窮乏を救った竹逸には、徳川から明治の時代に変わり行く世の中を心象風景として描きたかったのであろう。手前の陸地を表す木々と対岸の連山へ向かう船は「武士」への郷愁か。
● 長尾華陽 燕語春風扇面
扇面の山折り谷折りの凹凸部分に絵具が不自然に着色されたとろがあり、既に骨を入れられた扇子に直接筆を入れたものであろう。「燕語春風 己亥五陽月 華陽山人」とあり、紅梅の枝にとまる燕を中心に柳の葉色を微妙に変更し、巧みに使い分けている。
● 大橋翠石 神釆帖
8図よりなる水墨を基調とした画帖である。花や枇杷の実に淡く着色するが、枝葉は全て墨の濃淡で立体感を表現している。細密な毛描きの虎を得意としていた翠石であったが、基本的な水墨表現を充分にマスターしていることがわかる。画帖の題字と跋文は、明治10年代の若い頃に画を学んだ大垣の戸田葆堂(1851〜1908)である。
● 野口幽谷 花卉冊
最終図の落款に「乙酉春日写為東閣雅君 幽谷生」と記す。題字「心和得天真」を書いた杉聴雨(1835〜1920)は元山口藩士で、維新後は宮内省に勤め、書家としても活躍し、子爵となる。現代風に読めば、「心和すれば、天真を得る」で、原点は李白の「清漳の明府姪の聿に贈る」という題の漢詩の一節です。心が和らげば、人間本来の自然な姿でいられる、という意味である。幽谷は明治15年と17年に開催された第1回・第2回の内国絵画共進会の審査官を務め、画力を認められた時代の作品である。牡丹、蘭に霊芝、鯛と桜、藤に燕、伊勢海老とサザエ・アサリ、蓮に蝉、蟹とハマグリ・ツブ貝、鶉と菊、菊、雀、椿と柚子、雪中梅に雀、梅に水仙の12図の小品であるが、崋椿系の花鳥画家らしい潤い感のある作品に仕上げられている。
● 唐織 雪輪青海海波に水仙文様 胴箔地
豊に平金箔糸(ひらきんぱくし)を織り入れた。重々しい役の装束。経糸をメ切って段替りとするところからいわゆる胴箔の雪青海海波が、金の色二種に見せる。雪輪の青海波としたが、しかし意匠の考案の時には、ただ春の雪の一面に降り積んだ様を表現しようとしたのであろう。少し高く土坡のあたり雪をわけて清楚な水仙が。花や葉のおざなりでない処理に注目される。
● 渡辺崋山 換鵞図
晋の王羲之は鵞を好んだ。山陰にて道者の飼う鵞を見て買おうと思った。道者は王羲之に言った。「道徳経を書いてくだされば、この鵞と交換いたしましょう」と。王羲之は喜んで書を書いて与え、鵞を得た。この図はその故事(王羲之伝)の場面を描いたものである。上段、机の後ろに座るのは王羲之、下段、鵞を見ているのは道者である。落款は草冠の華山であり、27、8歳の頃の作品と思われる。
● 渡辺崋山 墨蘭図
詩に「倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満沅湘」、落款は「随安敬」とあり、朱文亀甲印の「登」印を捺す。読みは「石に倚って疎花痩せ、風を帯て細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は戦国時代の楚の人で、屈原(前343頃〜前277頃)の字である。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが、妬まれて失脚、沅水のほとりで蘭を取って身に付け、汨羅(べきら)に投身した。その高潔な屈原のことを蘭に添えたものである。天保10年(1839)にやはりこの詩を添えた作品「蘭竹双清」がある。
● 平井顕斎 旭日鳳凰之図
鳳凰は古来中国で、麒麟・亀・龍と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥である。形は、前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、嘴は鶏に似、五色絢爛、雄を鳳、雌を凰という。旭日は朝陽のことで、いずれも吉兆画題である。波は谷文晁(1763〜1840)・椿椿山(1801〜54)にも類例が見られ、鳳凰も含めて「図取り」と考えられるが、その筆致は丁寧で、細密描写に顕斎の画力の充実ぶりが窺える。落款には「己酉肇秋寫 顕斎忱」とあり、嘉永2年7月の完成であることがわかる。天保12年の書簡で、崋山が顕斎について次のように述べている。「文人画に尤も長じ、其外何にても出来申さずもの無し」四十歳で既にどのような主題、筆法にも対応できたようで、幕末へ向けて多くの依頼画として描いた作品のひとつであろう。
● 立原春沙 松鶴之図
松は樹齢が長く葉の色を変えないところから、節操・長寿などの象徴とされる。また、鶴は姿、鳴き声ともに気高く、千年の長寿を保つ鳥として尊ばれる。
● 斎藤香玉 雪景山水図
静かな空気を感じる画である。背景を墨で塗ることで、冬の雪の日が寒々と伝わってくる。前景を左下角に寄せ、右上を開放して遠山をみせる構図は、北宗画の絵画に近いであろう。
落款は「戊戌仲夏香玉女寫」とあり、5月に描かれた。
● 永村茜山 漁夫図扇面
早く筆を走らせた線である。落款は「辛酉秋日茜山寫意」。文久元年(1861)、亡くなる1年前の作品である。
● 渡辺如山 消夏三友図
17、8歳頃の作品と思われる。百日紅、蓮、蘭の夏季の花を描く。白くて大きな花、蓮を中心にして、上下左右に植物が配置されている。
● 椿華谷 牡丹子母猫図
亡くなる前年の作で、著名なコレクター説田家の蔵品であった。猫は墨の塗り残しの中に体を毛書きし、柔らかさを表現している。
● 渡辺小華 黄粱一炊図
父崋山の絶筆である図を基に描いたものが多くある。父崋山の「登」「崋山」印を捺している。その左に小華の落款「家蔵黄粱一夢図為家翁絶筆為此多庵主人高萬之時壬午新歳朔五日也邉諧」が記される。図中賛は、崋山の絶筆と伝えられる作品から忠実に写し、「呂公経邯鄲 邨中遇盧生貧困 授以枕 生夢登高科歴台閣 子孫以列顕任 年余八十 及寤呂公仕 初黄粱猶未熟 載在異聞録 其事雖近妄誕 警世也深矣 故富貴者能知之 則不溺驕栄袪欲之習 而恐懼循理之道 亦当易従 貧賤者能知之則 不生卑屈憐求之念 而奮励自守士操 亦当易為 若認得惟一炊之夢 便眼空一世 不得不萌妄動妄想 画竣而懼 因記之 子安」とある。絵の構図では、崋山作品の下半分を切り取ったように構成し、背後にそそり立つ崖や険しい山、中心に立つ樹木などは、父崋山の切り裂くような緊張感を避けたものか、描かれていない。
● 椿二山 野ばら双鴨之図
岩上にたたずむ鴨とその陰にもう一羽の鴨を描く。画面左に「甲辰夏日寫 椿二山」と落款がある。日本美術協会美術展覧会で連続して褒状を受賞する実力を感じさせる。近景である手前の白い野ばらと岩陰から上に伸びる竹の遠近感の奥行表現の演出は祖父椿山を思い起こさせる。
● 松林雪貞 藤花図
上から下へ垂れ下がる藤の花を描く。画面下には余白を取って空間の広がりを演出している。前年11月には、防府松崎小学校行動に夫桂月の「富士」と雪貞の「八仙花」を掲げ、昭和30(1955)年には田原町(現田原市)の崋山霊牌堂の天井画として、桂月の「墨竹」、雪貞の「牡丹」を寄進している。雪貞は展覧会出品は控えていたが、この頃は夫妻で作品を並べて展示することが多くあったのであろう。