開催日 | : | 平成29年10月24日(火)〜12月10日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
花鳥画は、日本でも昔から愛された画題です。渡辺崋山・椿椿山の画系は崋山の弟子であった椿椿山をはじめとした「崋椿系」と呼ばれました。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
桜人参図扇面 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
躑躅和歌 | 渡辺崋山 | 文政年間 | ||
一覧縮図 | 椿椿山 | 文政2・3年(1819・20) | ||
市文 | 花卉鳥虫蔬果画冊 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | |
重美 | 客坐掌記 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | |
花卉画巻 | 渡辺如山 | 文政12年(1829) | ||
重文 | 馬図(絵馬) | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | |
松芍薬ニ孔雀図屏風 | 平井顕斎 | 天保7年(1836) | ||
闔家全慶図 | 渡辺崋山 | 文政9年(1826) | ||
翡翠扇面図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | ||
仙桃図扇面 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | ||
藤花雀蜂図 | 渡辺崋山 | 天保10年(1839) | ||
紅葉小禽図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
八百延年図 | 椿椿山 | 天保14年(1843) | ||
蔬果之図 | 椿椿山 | 嘉永2年(1849) | ||
丹頂鶴図 | 椿椿山 | 嘉永2年(1849) | 個人蔵 | |
名花十友図 | 椿椿山 | 嘉永7年(1854) | 個人蔵 | |
柳蝉之図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
歳寒図 | 山本_谷 | 天保13年(1842) | ||
花鳥図 | 小田_川 | 弘化元年(1844) | ||
紅梅鴛鴦 | 小田_川 | 江戸時代後期 | ||
水墨松に孔雀図 | 小田_川 | 江戸時代後期 | ||
野菊図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | ||
四愛図 | 椿華谷 | 弘化3年(1846) | 個人蔵 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。
● 平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)
遠江国榛原郡に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 渡辺崋山 躑躅和歌
わが女が、父のなぐさにと、思ひかぞへて、この花を、ねほりたるを、あるうしの、みたまひて うすからぬ君のこゝろの 岩つゝじいはねど しるき花のいろかなとありければ、おもほへず いはつゝじいはねはあらじ この袖をぬらすは君が ことのはのつゆ わたのへの翁」
「わが女」は崋山の妻、たかであろう。病床にあった崋山の父、定通(〜文政7年(1824)60歳で没)のために、妻が枕元に持って行こうとした岩つつじを見て、父のために詠んだ歌を記したもので、文政年代のものと思われる。
● 椿椿山 一覧縮図
表紙に「文政録 二番 一覧縮図 椿山藏二」、裏には「英一蝶 筆一 茶家 画家 名家 過眼録 卯至辰」と墨書で記される。文政2から3年、つまり椿山19歳から20歳にかかる、現存最古の資料である。その名の示すとおり展覧会に見た作品、什物の縮図及び写生を描きとめた備忘禄である。谷文晁、渡辺崋山をはじめとする関東の文人画家はそれぞれ膨大な数の備忘録を残している。
● 渡辺崋山 花卉鳥虫蔬果画冊
最終頁の落款に「癸巳人日小酌之餘寫 崋山外史」とあり、天保4年の正月7日に飲酒した後に描いたものであることがわかる。草花・虫・鳥・果実の12図を描く。輪郭線(骨法)を描かずに濃い彩色で対象物を埋め尽くすように描き表した没骨技法で描かれている。原本となる作品の存在も感じさせるが、部分的には生活の日々で目にした写生を使用していると感じられる。小さな画面であるが、崋山が修得した技術を楽しむことができる。
● 渡辺崋山 馬図(絵馬)
板面裏書によれば、「奉納 願主山田甚左衛門・同重五郎・同重左衛門・同六治郎・同安右衛門・同久右衛門・小林傳右衛門」と田原藩領にある片浜村の7人が願主となり、片浜観音堂に奉納したものである。片浜観音堂は文化8年(1811)に建立された。片浜村の小林庄助が西国三十三観音(現在の和歌山・大坂・奈良・京都・滋賀・兵庫・岐阜)巡拝の際、勧請され、本尊は十一面観世音菩薩である。天保10年(1839)三十三観音像、弘法大師像、地蔵菩薩庚申等を安置した。観音堂の敷地内には、天保11年5月の銘が記される田原藩第十一代藩主の三宅康直寄進の灯籠一基が現存する。本堂は、昭和5年(1930)と平成時代に入ってからの2回、建て替えられている。奉納願主名以外に、「天保十二載丑花月吉辰 諸願成就」「田原御城内 渡邉登様筆」「大工御城内鈴木四郎兵衛様」とあり、天保12年3月に崋山に依頼したものと考えられる。はやり立つ馬が左右二本の杭に繋がれ、後ろ足をまさに蹴り上げようとする様を描く。あたかも田原蟄居中の崋山自身の心境を表しているようである。この構図は両杭繋ぎ馬と呼ばれるもので、平将門が反乱を起こした時に神から黒馬を賜ったという故事に基づき、平将門や将門の子孫である相馬家が戦の陣幕や家紋に用いている。国指定の重要無形民俗文化財となっている福島県の相馬の野馬追いは有名である。平将門を祀る築土神社は、現在の千代田区九段北にあり、江戸にいた崋山も見ることができたであろう。また、つながれた馬を描くことは、馬の動きを封じ、人の願い言を聞くようになることに通じるとも言われる。材質は、桐材で、絵馬額に仕立てられている。馬の後ろ足下に「崋山戯墨」の朱文長方印が捺されるが、重要文化財に指定される印とは異なり、文字が太く感じられる。崋山の板画は、類例が少なく、崋山晩年の作であることが裏書きで特定でき、地元に残る珍しい作例と言える。
● 平井顕斎 松芍薬ニ孔雀図屏風
前年の天保6年、34歳の時に江戸へ上ったおり、福田半香(1804〜64)を介して渡辺崋山に入門したとされる。同年椿椿山(1801〜54)とも知り合ったとされる。孔雀部分の草稿と思われる資料が、昭和55年(1980)に常葉美術館で開催された「崋山の弟子―半香・顕斎・茜山」で紹介(出品番号35双孔雀図(草稿))された。この草稿は孔雀部分のみであるが、大きさから考えてもこの屏風を完成させる際の下書きと考えてもよいほどそっくりである。孔雀はほとんど淡墨で表現されているが、松上の足は細密で見事な出来栄えである。芍薬は崋山・椿山が目標としたヲ南田(1633〜90)風の没骨法で描かれ、花鳥画にも優れていたことがわかる。弘化年間(1844〜48)を中心にこの様式による花卉図を多く描いたが、椿山台頭後はあまり見られなくなる。他作品の一部を借り構成する「図取り」も多く見受けられる顕斎であり、この作品もそうでる。
● 渡辺崋山 闔家全慶図
「闔家全慶」とは、雌雄の鶏が雛とともに群れ遊ぶ意味で、向かって右側に雌雄の鶏、左に二羽の雛が描かれる。他の作品には見られない「抱壅」と読める落款を使用している。襖の引手部分の補修が明らかで、かつて田原城の小襖絵であったとの言い伝えがある。濃彩な着色は襖に使用されることを意識したものであろう。
● 渡辺崋山 翡翠扇面
落款に「丁酉秋七月朔五日寫 崋山外史」とあり、没骨法で描かれているが、柔らかな柳の枝と翡翠のバランスが絶妙である。
● 渡辺崋山 藤花雀蜂図
款記に「己亥三月十四日夜秉燭稿図翌十五日暁竣之 故m々不経意 不工甚 崋山外史登」とあり、蛮社の獄で北町奉行所に召還される二月前の作品である。没骨表現で雀を描いている。
● 椿椿山 紅葉小禽図
なんと近代的な作品であろうか。落款を隠せば近代の円山四条派の作品と見まごうばかりである。しかしつぶさに観察すると随所に椿山らしさが見られる。ひとつひとつのモティーフを分解すると様々な要素があることに気づく。楓の色彩については琳派を意識し、三羽の文鳥の筆法、また機知的な配置はまさしく長崎派の影響を看取できる。没骨法による楓木の葉の曖昧な輪郭、及びたらしこみ風の質感表現、そして木肌の筆法は、椿山の得意とするもので、ヲ南田の影響による。椿山の琳派への意識は、喜多川相説の粉本、また「七草図」などの実作品の存在から大いに窺われるが、花鳥画家としての多様性を示すものである。近代を予感させる雰囲気は、荒削りだが天保年間の椿山の旺盛な創作意欲を感じ取れる。全体のモティーフバランスは右に寄っており、落款の位置も単体の作品としては不自然なことから、あるいは対幅の可能性も考えられる。「弼」朱文瓢印は天保年間の作品の指標であり、署名の書体もかっちりとしており、すべてにおいて椿山のこの時期の基準作とできる秀作である。署名及び「寫」の書体から、天保10年から11年にかかる作品と考えられる。
● 椿椿山 八百延年図
柏(ヒノキ、サワラなどの常緑樹)樹、菊、奇岩そして叭々鳥(ははちょう)を五羽を配する。叭々鳥は日本には存在せず、中国大陸から画題とともに飼鳥として輸入された。叭々鳥の「八」、柏樹の「柏」を「百」の字になぞらえ、八百の長寿を表わす吉祥画題である。複雑に屈曲する柏樹、奇岩はモティーフの持つ生命力を表現する。しかし、菊の清らかな姿は、奇異な形態の岩の「アク」の強さを、適度に柔らかくする。この菊も絵手本である「芥子園画伝」あたりからの図取りであろう。
● 椿椿山 蔬果之図
麦・人参・菱、枇杷、筍、蓮根、梅、慈姑、赤蕪、葡萄、しめじ、桃、百合根、花托、栗、茄子、豆が逆S字に配置される。綿密な構成と慎重な筆遣いで表現される。画面上部は遠くに位置するように、下部は手前に位置するように描かれ、得意とした没骨法は水をたっぷり含ませた淡い色と濃い色の対比がバランスよく描かれる。崋山に比べ、清の花鳥画の大家、南田風な作品をよく消化し、椿山の門人であった浅野梅堂が「其神妙ノ所ハ、嘉永己酉ヨリ癸丑マデニアリ」(寒檠璅綴)と語るように、まさにこの時期が画風変遷の転機となる。「己酉新正寫椿山生」と款し、朱文円印「椿」、白文方印「椿山」と遊印として白文長方印「怡顔」を使用する。
● 立原春沙 野菊図
可憐な野菊の下を三匹のアユが泳いでいる。気品がありながら、慎ましやかな優しさも感じられる。それは、崋山の画の鋭さを反映しつつ、女性の画家であるからではなかろうか。また、色使いから谷文晁(1763〜1840)や椿椿山(1801〜54)の影響を受けているであろう。 春沙は絵に生涯を捧げることを決心し、縁談を断わった、と言われている。また、月琴にも長じていたようである。きっと芯のある奥ゆかしい日本女性であっただろう。