平常展 渡辺崋山〜夏を描く

開催日 平成29年7月15日(土)〜9月3日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は江戸時代後期を代表する文人画家として知られています。夏は春と秋の間ですが、江戸時代では、陰暦で、4月から6月でした。夏を描く場合は海や水が思い浮かびますが、緑濃い山も夏を感じさせてくれます。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  漁夫扇面図(扇面画帖のうち) 渡辺崋山 天保5年(1834)  
  崋山所用便面 渡辺崋山 天保年間  
  耕織図 渡辺崋山 天保年間  
  山水画稿帖 渡辺崋山 江戸時代後期  
  高士渡水(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  杜若蜻蛉(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  雙鴨悠遊(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保3年(1832)  
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  目黒詣図(複) 渡辺崋山 大正12年(1923) 原本は文政12年(1829)
  漁村図屏風 山本_谷 江戸時代後期  
  翠陰消夏図 渡辺崋山 文政3年(1820)  
  陶弘景聴松風図 渡辺崋山 文政年間 個人蔵
  夏山欲雨図 渡辺崋山 文政3年(1820)  
  水郷驟雨之図 渡辺崋山 文政9年(1826)  
  昇天龍 渡辺崋山 天保4年(1833)  
  神島渡海之図 渡辺崋山 天保4年(1833)  
  蓑笠画賛 渡辺崋山 天保4年(1833)  
市文 両国橋納涼之図 渡辺崋山 江戸時代後期  
  信長判じ絵 渡辺崋山 天保年間  
  旭日浴波図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  夏冬山水 渡辺崋山 天保2年(1831) 新収蔵 笠井喜美子氏寄贈
  月下芦雁之図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  高士観瀑図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  風雨行旅図 渡辺崋山 天保7年(1836) 個人蔵
市文 陰文竹 渡辺崋山 天保10年(1839)  
重文 芸妓図(複) 渡辺崋山 天保9年(1838) 原本は静嘉堂文庫美術館蔵
重美 黄粱一炊図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本は個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

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作品解説

渡辺崋山 崋山所用便面

付属する箱の表書によれば、「崋山翁所用便面」とあり、崋山が使用したものと伝えられる。赤の墨流しを背景に扇面の表裏両面に絵が描かれている。風景が描かれた面の左端には渥美半島の地名である「亀山堀切中山小塩津日出保美」(現渥美町)やカタカナで「イラゴ」との記述が見られる。崋山が渥美半島のこれらの村を通過したのは、天保四年の『参海雑志』の田原から伊勢湾に浮かぶ神島を訪ねたとき以外にはなく、この年の作である可能性が高い。また、もう片方の面にはトンボが飛ぶ姿を描く。崋山は扇面に虫を描く機会も多く見受けられる。

渡辺崋山 客坐掌記

表紙に、「客坐掌記 天保壬辰全楽堂」とあり、「辰一 計七冊」とある。友松・探幽・守景・応挙・大雅・竹田の縮図が見られる。鳥類のアカヒゲ(現在では、南西諸島と男女群島のみに生息が確認されている日本固有種で,国の天然記念物に指定されている)や蜘蛛、狐面の写生がある。また、洋書挿絵の写しと考えられる西洋人物の肖像、「エジュアルド ブリグト EDUARD BRIGHT」や動物の頭骨図、洋式鵬洋剣を写し、法量も書き留めている。「マレースフック天竺志」「ヒューラント度逸人ヨウルナアルと云ふ書あり」などの洋書名の記述もある。
 「勧進能舞台図 六月二十六日」と書かれた勧進能の舞台を囲む群集をスケッチした場面から始まる十二図がある。能の「桜川」「安宅」「小鍛冶」「七騎落」「野守」「山姥」と狂言の「入間川」の一場面を描く。図中に「催馬楽むしろ田、中川侯羽田野蘆谷名重輝」とあり、琴を奏でる人物の姿が描かれる。

渡辺崋山 客坐掌記

表紙に「客坐掌記 戊戌孟夏 全楽堂 第十四」とあり、図中には雪舟(1420〜1506)・尾形光琳(1658〜1716)・池大雅(1723〜1776)・伊藤若冲(1716〜1800)・伊孚九などの古画の縮図が見られ、特に大雅の山水縮図が多く描かれ、中には指頭画(指さきで描く画で、長く伸ばした小指の爪に墨を含ませて描き、時には指や掌の面も用いた。中国から伝来し、指画とも言われる。)の写しも見られる。天保8年の『客坐掌記』の表紙に「第十三計七冊」と書かれたものがあり、それに続くものと考えられる。魚介類や猿、風景のスケッチもあり、末尾には蘭書の書名がカタカナで列記されている。「十寸見藤八 一寸ふしをかたる」と書込のあるスケッチには単なる写実にとらわれない崋山肖像素描の特徴をよく示す。

渡辺崋山 目黒詣図(複)

文政12年10月14日に田原藩江戸詰の鷹見定美、崋山、上田正平、鈴木修賢の四人に郊外散策の許可があり、目黒不動詣に出かけた。大正12年のコロタイプ印刷による複製本である。

渡辺崋山 翠陰消夏図

北宗画的な山水図である。文政年間の縮図冊にも、室町幕府の御用絵師として活躍した画僧、周文(生没年未詳)や池大雅(1723〜1776)らの山水図が多く見られる。款記に「法李青蓮」とあり、唐代の詩人李白(701〜762)の作品にならったものと考えられる。巧みに連続配置された遠山から中景の霞を経た遠近感と近景のリズミカルな並木越しの庵とのバランス感覚は素晴らしい。  近景から中景にかけての奥行に広がりのある雄大な構図、繊細な筆致で描かれた屏立した山水の景は深遠である。木々の葉、並木の間の小道、高士が見える川に突き出た庵、川に向かって落ちる瀑布、その全てが画面全体に統一感を与える重要なモティーフとなっている。

渡辺崋山 夏山欲雨図

夏の山を墨点で表現した典型的な山水図である。この画題も文人画家から非常に好まれたものである。「米襄陽の筆意に法る、時に総房の快風を迎え、全楽堂に於いて竣ゆ」とある。米襄陽即ち宋代に活躍した米元章(1051〜1107)の筆法に法り、緑の深い瑞々しい夏山を米点をダイナミックに積み重ねることで表現したものである。簡略な筆で静寂な雰囲気を醸し出すことに成功している。若き日の崋山の勢いを見ている者に感じさせる作品である。

渡辺崋山 昇天龍

天保4年、田原留宿中の作である。墨を画面全体に飛ばし、生き生きと勢いよく描かれている。落款は「癸巳春三月寫時風雨激怒客舎如蹈行巨艦此日撥欝大酌爛醉餘就暗窓竣之 登」。

渡辺崋山 神島渡海之図

渡辺崋山は天保4年4月15日に田原を出発、赤羽根村を経て、渥美半島の太平洋側を西に進み、堀切村から伊良湖村へ出て、神島に渡った。この旅は『参海雑志』(原本は関東大震災で焼失)に記録されていた。17日に神島へ1泊している。

渡辺崋山 蓑笠画賛

天保4年春田原に行き、4月15日田原を出発、伊勢の神島に渡る。この図はその神島での印象を俳画風に作ったもの。天保4年以降のものである。『参海雑誌』で、激しい波風で大変であったことがわかるが、画賛の二首は、その難航途上の心境を詠んだのであろう。「伊勢の國神島といふところにやどりて 世の中や人の上より波のうへ ひとをたのむ身をもたのむやのみしらみ」。

渡辺崋山 両国橋納涼之図

両国橋は隅田川に架かる橋で、現在の東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡する。寛文元年(1662)完成。現在の長さ162メートル。江戸時代から川開きの花火の名所。「崋山」の号を使用しており、30歳代後半の作品と考えられる。「一掃百態図」「両国橋図稿」から続く俳画風の作品で、人物描写により円熟味が出ている。

渡辺崋山 信長判じ絵

「判じ絵」とは、文字・人・物などを他のものにまぎらしてかきこみ、それを探させる趣向の絵である。近江国安土総見寺の仏殿の絵馬は、男が左手で棒を突き、右手に箕を持ち上げ、その傍らにヘラを捨て置き、向うへは蚊帳をつりたる図を狩野永徳(1543〜1590)が描いたもので、これは信長の考えた判じ絵で、「気(木)を直ぐに箆(ヘツライ)をすてて、かせげば(蚊を防ぐ)身(箕)を持つ」という意味がある。崋山が描いたこの判じ絵の男性は、まさしく信長でたくましい胸板や太い腕とそのポーズのアンバランスがこの作品の妙である。

渡辺崋山 旭日欲波図

この図、明治十九年五月、東京新富座にて九代目團十郎が、左團次と共に崋山長英を主人公とした芝居「夢物語 生容画」を演じた際、團十郎の申出で、毎日その舞台裏に掲げた。そして、毎日、この図に向かい、扇子を二本づつ描いたと言われている。波は荒く描かれている。

渡辺崋山 夏冬山水

夏の図には「崋山外史」、冬の図には「辛卯五月寫於全楽堂中 崋山登」と落款がある。点景人物として、夏は橋上に竿を担ぐ人、冬は船上に雪から身を守る蓑笠を付けた人物が描かれる。夏は米点と湿潤な霞で温度感を表現し、冬は樹上や船上に積もる雪で季節感を表現している。夏は近景から遠方にかすむ山までの遠近感を縦方向に取り、冬は中景を省略し、横に掃くように描くことで、空気の静けさを感じさせる。  箱書は、崋山の二男小華によるもので、「崋山翁山水双福」と題される。「戦前の展覧会では春夏秋冬の四幅対のとされているが、明治19年に小華が見た段階で既に対幅であった。

渡辺崋山 月下芦雁之図

この作品は天保8年正月、崋山45歳の時のものである。
 月に照らされた河岸に芦の葉が生い茂り芦の根を啄ばむ二羽の雁が描かれている。芦の葉は没骨法を使い粗放で騒然たる様が描かれ、波紋のなかで二羽の雁が動く様が静寂な夜の世界の中でクローズアップされている。

渡辺崋山 高士観瀑図

この作品は崋山四十六歳の時のものである。秋林の中、滝を眺めている高士二人と童子一人がいる。雲煙がたちこめ、そのはるか上には高楼が半ば隠れつつ見える。雲煙により山が途切れているにもかかわらず、全体の構図は崩れていない。秋深き渓谷に清らかで涼しげな気配が感じ取れる画である。この画を賛美する詩を付す。「山上の浮雲は天に幾重、秋高く華は王芙蓉に散る、好みて謝朓の人を驚かす語を携え、酔裡に落雁峰に登り来る」。

渡辺崋山 陰文竹

陰文とは白文のことである。背景が暗く、図と題詩が白く抜けている。竹と漢詩は崋山得意のもの、それを石刻を想像させる表現で行っている。白文は「鄭老畫蘭不畫土 有為者必有不為 酔来寫竹似藘葉 不為作鴎葉無節技 己亥薄月崋山外史登」。朱文は「有威儀而無文字曰無字碑予曰面有文華而背暗當曰逡巡碑臨題自書耳呵々登又題」。

渡辺崋山 芸妓図

図中に「与可之竹 思肖之蘭 華光之梅 皆寫所愛。自撥抒性情 兼以贈人也。然人之好悪不一。王衍/忌泉 欧陽公憎蠅 眉山翁悪棋。雖欲与我同好得哉。予有六如老蓮之癖 佐酒非盻々不楽 同夢/非蓮香不眠 故情所鍾能発揮其所思。夫人生而無飲啄牝牡之欲者非人也。是以予所好者天下公/道 而予可思翁之所愛一人私俶(ママ)(淑) 也。因寫予愛妓 寄顕斎。顕斎与予同好也否。時天下禁者 我妓徹玉/梳金釵 素面軽羅 如雨後 萏。是天保戊戌六月朔十日 崋山外史戯画又記」とある。崋山は画中の女性を評して、髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣をまとって、あたかも雨後の蓮を見るようだと讃えている。「萏」とは蓮の花で、「校書図」とも呼ばれる作品で、内箱蓋表に「華山渡邊先生所歡校書圖」とあり、「校書」とは本来、秘書を校する官の名であったが、唐の詩人元稹に文才豊かな芸妓薛濤が侍して校書の任をよく果たしたという故事に基づき、芸妓の異称とされている。崋山の門人平井顕斎(1802〜1856)に贈ったものとして知られる。
 左手を後ろ手に右手に持った団扇を歯で噛むという姿。櫛には朱と金泥、胡粉、顔には女性らしく白い胡粉と淡い朱、着物には淡い藍に紅、藍、黄の暈しで絞り文様を、淡墨と濃墨を重ねた帯には「清風高節」の金文字が書かれる。品川宿の孝行妓お竹を描いたと伝えられ、江戸時代においては珍しいポーズを取らせて描いた女性の肖像画と考えられるものである。崋山の肖像画における「公」の部分を『鷹見泉石像』や『市河米庵像』とすれば、文人の自娯という「私」の部分を表す代表作がこの作品と言えるだろう。

渡辺崋山 黄粱一炊図

図中賛に「呂公経邯鄲 邨中遇盧生貧困 授以枕 生夢登高科歴台閣 子孫以列顕任 年余八十 及寤呂公在 初黄粱猶未熟 載在異聞録 其事雖近妄誕 警世也深矣 故富貴者能知之 則不溺驕栄袪欲之習 而恐懼循理之道 亦当易従 貧賤者能知之 則不生卑屈憐求之念 而奮励自守士操 亦当易為 若認得惟一炊之夢 便眼空一世 不得不萌妄動妄想 画竣而懼 因記之 子安」とある。唐の時代に盧生という人物が邯鄲という田舎の宿で、道者の呂公に会い、身の不遇を嘆いたところ、呂公は枕を取り出し、これによれば栄華も思いのままと説いた。そこで、宿の主人が黄粱を蒸す間に、その枕で休むと盧生は官吏試験に合格し、宰相の地位にのぼり、子孫は繫栄し、80歳になったところで目が覚めるが、まだ黄粱も蒸し終えていないことに気付く。呂公は人の一生もまたこの「黄粱一炊」の夢と同じだと盧生に諭した。
 崋山の絶筆と伝えられる作品で、宿の建物の中には、横たわる盧生とそれを見守る呂公、黄粱を蒸す宿の亭主、外では休む馬が描かれる。その盧生は崋山の妻、呂公は崋山亭主は崋山の母を投影しているとも考えられる。自刃する前日に完成させたと伝えられる。明の画家朱端の原画によった模成作品と考えられるが、死を前にした崋山の緊張感ある線が見る者に殺気を感じさせる。庵や人物の配置構成は、背後にそそり立つ崖や険しい山、中心に立つ馬が繋がれている樹木には、崋山独特の切り裂くような緊張感が見られ、自刃を前にした荒涼感で、よりうらぶれた寒村の雰囲気と崋山自身の殺気を感じさせる。

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