開催日 | : | 平成29年5月20日(土)〜7月9日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺小華(1835〜1887)は、崋山の二男で、椿椿山の画塾に入門し、花鳥画の技法を習得。田原藩家老を勤め、明治維新後、田原・豊橋で画家として活躍しました。初公開の作品も多く展示します。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
水指 公子図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
牡丹図扇面 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
桃家春帖 | 太白堂編 渡辺小華挿絵 |
嘉永6年(1853) 安政2年(1855) |
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渡辺小華印顆 | 田原市指定文化財 | ||
扇面画 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
春秋山水図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 田原市指定文化財 |
痩馬図 | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | |
天中麗景之図 | 渡辺小華 | 文久2年(1862) | |
西園雅集之図 | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | |
瓶花図 | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | |
牡丹之図 | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | |
霜楓図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
四君子図双幅 | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | |
黄雀覗蜘蛛図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
瓶裏牡丹ニ果一菜之図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
白菜、花瓶に梅 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
百合、あじさい図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
梅柳杏花燕図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
草花之図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
秋色梅木之図 | 渡辺小華 伊藤鳳山 |
明治2年(1869) | |
紫薇宿禽図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
梅竹蓮 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
蓮蟹聯幅 | 渡辺小華 | 明治12年(1879) | |
芙蓉双鷺図 | 渡辺小華 | 明治10年代 | |
歳寒三友図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
芭蕉 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
柳香飛燕図 | 渡辺小華 | 明治17年(1884) | |
千山万水図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
蓮池双鵞図 | 渡辺小華 | 明治20年(1887) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 太白堂孤月 寛政元年(1789)〜明治5年(1872)
五代太白堂、山口桃隣の弟子。姓は江口、文政4年(1821)、太白堂を継ぐ。天保2年(1831)9月、相州厚木に赴くにあたり、崋山は青山に住む太白堂孤月を訪ねている。10月毛武へ旅立つ際には、孤月の紹介状をもらって行く。崋山の挿画による「桃家春帖」の刊行を長く続けた。挿画は崋山が蛮社の獄で捕えられると、椿椿山に、椿山が亡くなると、渡辺小華に引き継がれた。
● 伊藤鳳山 文化3年(1806)〜明治3年(1870)
羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出る儒者となる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。2年にして辞し京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。
● 渡辺崋山 痩馬図
天保11年とは、蛮社の獄により田原池ノ原に蟄居中に描いた作品である。天保11年の夏までは体を壊していたので、回復して8月以降に描いたのであろう。普通の馬より肋骨が多い千里の馬(一日に千里を疾走する)を描いたものである。賛は『聖與痩馬の図を作り、自ら題して曰く、「一度雲霧より天關に降り。究め尽す先朝の十二閑。今日誰有って駿首を憐れむものぞ。夕陽沙岸影、山の如し。」と。經に曰く「馬肋は細きを貴しとす。而して凡そ馬僅に十許肋のみ。此を過ぐれば即ち駿足なり。惟千里の馬は十五許肋に至る」と假令肉中に首有るも、誰か能く十五肋を外に現はさしめん。痩に非れば、因りて此の相を成し、千里の異を表わす可らず。尫劣は諱むところに非ず。淮陰好んで此を作る。因てこれに倣う。天保庚子 登。』
● 渡辺崋山 春秋山水図
右幅にあたる青緑の春景と考えられる図の落款は「倣劉松年之意 崋山外史寫」とあり、左幅には「倣王雪谷之意 甲申小春上浣三日於寫全楽堂中 崋山外史」とある。「甲申」は文政7年(1824)にあたるが、落款の書体から見ると、天保年間の作と考えたい。 王石谷(1632〜1717)は王翬といい、清の時代の人で、惲南田(1633〜1690)とも親交を結び、歴代の画の長所を取り、南北二宗を集大成したとも言われる。劉松年(生没年不詳)は南宋の時代の人で、人物山水に巧みであった。右幅は近景左側に垂直に立ち上がった樹木を集中して描き、画面右からは切り立った山崖を描く。奥に向かって積み重ねるように描かれる遠山、そのモティーフはいずれも縦方向の画面構成である。それに対して左幅は横に広がった柳、ゆったりと流れる川、点在する家屋の屋根、門などは横線を基調にして描かれている。原本の存在があるのであろうか。崋山の隅々まで行き渡った緻密な筆使いは完成された構成力を感じさせる。
● 渡辺小華 天中麗景之図
天中は天の真ん中で、この時期は「小崋道人」落款を使用する。道人は道を求めて修行している、という意味で使用したのであろう。俗世間を逃れた人という意味もあるが、若き日の文人画家としては前者であろう。
● 渡辺小華 西園雅集之図
西園雅集とは中国の宋代、円通大師が当時の文人16人を西園に集めて、詩を作り、絵を描いたり、書を書いたりして、一日を過ごしたと伝えられている故事である。蘇東坡や円通大師などの人が、俗世を離れ高雅な遊びに興じたこの集いは、文人画家が好んで描き、憧れの情景であった。丹念な密画で、謹直な筆致の作風は画家としてよりも武士であることを追究している。「小崋道人」落款を使用している。
● 渡辺小華 瓶花図
即興で描く席画であろう。「小崋」落款を使用しているが、書体・印とも類例の見られないものである。
● 渡辺小華 霜楓図
彭城百川を思わせる俳画風作品である。大きくカーブしてたわむ楓の木は、霜によって紅葉している。この情景は杜甫の詩「耐雪梅花麗 経霜楓葉丹」から取材したものであろう。下がった枝の先端の葉が淡いのは霜の表現である。筆法は文人画でも楓という素材、色彩感覚は日本的情緒に溢れた佳作で、小華の画業の多様さを示している。作品の左下の「小華」の署名は独特の書体で、明治初期に限定的に使用されるものである。
● 渡辺小華 黄雀覗蜘蛛図
出光美術館所蔵の同画題・モティーフの崋山作品が知られている。竹には蜘蛛が巣をはり、ぶら下がっている。竹枝に止まる雀は羽を開いてバランスをとっているようにも見えるし、蜘蛛を狙うため飛び立とうとしているようにも見える。崋山作品を意識したのは間違いないが、崋山のそれが、緊張感に満ちた画面であるのに対し、小華のそれは軽妙洒脱でユーモラスに満ちた作品となる。小華の諧謔的な解釈によるもので、「小崋外史戯寫」の署名がそれを示す。なお小華の「華」が「崋」になっており、江戸時代に描かれた作品であることがわかる。
● 渡辺小華 四君子図双福
四君子とは、蘭・竹・菊・梅で、それぞれ蘭と竹、菊と梅を描いている。蘭と竹の落款は「小華生寫」、菊と梅の落款は「小華道人邉諧」であるが、「華」の字体は変えている。明治時代には、同時期に描かれる作品と考えられるもので、字体を変更している場合が見受けられる。印には、「小崋」を使用している。
● 渡辺小華 歳寒三友図
歳寒三友は、松竹梅か梅・水仙・竹である。この作品は、「歳寒三友図」として過去の展覧会に出品されているが、松・竹・蘭が描かれる。画面左下に添えられる五言絶句に「三友」「歳寒」の字が書かれており、その詩を参考に画題を付けられたものであろう。
● 渡辺小華 芙蓉双鷺図
昭和17年に田原で開催された小華先生遺墨展覧会に出品されたものである。明治10年よりやや早い時期から似た構図の絵を描く。
● 渡辺小華 千山万水図
本図は、昭和27年3月29日に重要文化財の絵画1217号に指定された父親、渡辺崋山の代表作 「千山万水図」を写した作品である。「千山万水」とは、多くの山、多くの海・川という意味もあるが、『大漢和辞典』によれば、中国で政権の交代によって悲惨な宿命を負った人々がとてつもない山の中に追いやられる例として紹介されている。崋山が亡くなった時には、わずかに7歳であったが、父の作品を模写する例は絶筆とされる「黄粱一炊図」などもあり、需用も多くあったのかもしれない。
● 渡辺小華関連略年譜
天保6年(1835) | 1月7日麹町の田原藩邸で崋山の二男として生まれる。 |
天保12年(1841) | 11月5日北町奉行与力、中島嘉右衛門ら5名、池ノ原にて崋山の検死を行う。 |
天保13年(1842) | 2月崋山長男立(たつ)、月俸五人扶持、母栄二人扶持、崋山の供養料として金1,000疋(ひき)を賜わる。 |
弘化元年(1844) | 8月28日祖母栄(73歳)亡くなる。 |
弘化2年(1845) | 2月24日姉の可津(かつ)(20歳)、田原藩士松岡次郎と結婚する。子がなく、約1年後離婚、渡辺家に復籍する。 |
弘化4年(1847) | 8月28日諧(かのう、後の小華)(13歳)、椿椿山へ弟子として入門する。 |
嘉永2年(1849) | 11月7日母たか、立、可津、池ノ原より田原城大手の平山屋敷へ移る。 |
嘉永4年(1851) | この頃、江戸田原藩邸に召出され、絵を描く。 |
嘉永6年(1853) | 10月椿椿山筆「渡辺崋山像」ができあがる。 |
安政2年(1855) | 諧(21歳)、舜治(しゅんじ)と改名する。藩主在府中のみ麹町の藩邸に雇われる。 |
安政3年(1856) | 6月26日兄一学(25歳)、側用人になったが、江戸にて病死する。/7月17日舜治(22歳)、家督を相続し、中小姓十五人扶持となる。 |
文久元年(1861) | 3月15日舜治(27歳)、椿椿山の養女須磨(すま)(23歳)と結婚する。 |
元治元年(1864) | 3月1日舜治(30歳)、家老に昇進、80石を賜る。 |
慶応元年(1865) | 5月藩主康保(やすよし)から老中へ、崋山の墓碑建立の内願書を提出。 |
明治元年(1868) | 3月15日幕府より崋山の罪科赦免おりる。/8月崋山の墓碑を建立する。 |
明治2年(1869) | 12月29日舜治、諧と改名する。 |
明治4年(1871) | 4月24日明治新政府は、崋山を忠孝の鏡として朝廷に推選するため、田原藩に事歴報告を依頼する。 |
明治4年(1871) | 5月25日母たか(65歳)、田原で病死する。 |
明治7年(1874) | 諧(かのう)、田原から豊橋へ移住する。 |
明治15年(1882) | 10月17日諧、豊橋から東京へ移住する。明治13年10月という記録もあり。 |
明治20年(1887) | 12月29日諧(53歳)、東京日本橋区浜町宅で亡くなる。 |
明治24年(1891) | 4月3日田原城三の丸跡に崋山の頌徳碑を建立する。/12月17日崋山に正四位が贈られる。 |
明治30年(1897) | 5月9日妻の須磨(59歳)、豊橋で亡くなる。 |
● 家族
父 登(1793−1841)田原藩家老 号崋山
母 たか(1807−1871)田原藩士和田伝の娘
姉 可津(1826−1883)
兄 立(たつ)(1832−1856)田原藩側用人
妻 須磨(1839−1897)椿椿山の養女