平常展 文人画の流れ

開催日 平成29年4月8日(土)〜5月14日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室1

尾張の文人画家、彭城百川・山本梅逸や崋椿系の画家として椿椿山・松林桂月・白井烟狽ワでの流れを概観します。

展示作品リスト

企画展示室1
指定 作品名 作者名 年代 備考
  子路負米図 中山高陽 江戸時代中期  
  花鳥図 彭城百川 延享4年(1747)  
  浅絳山水図 岡田米山人 文化11年(1814)  
重美 山水図 岡田半江 享和3年(1803)  
  南披楼雅集図 岡田半江
岡田米山人
篠崎小竹
江戸時代後期  
  榴花寿帯鳥図 浦上春琴 江戸時代後期  
  山水図 帆足杏雨 文政4年(1833) 個人蔵
  秋景山水図
(浅絳山水并題詩)
貫名海屋 嘉永5年(1852)  
  春景逸思図 釧 雲泉 文化5年(1808)  
  夏山聴雨図 釧 雲泉 文化5年(1808)  
  秋渓覓句図 釧 雲泉 文化5年(1808)  
  寒江独釣図 釧 雲泉 文化5年(1808)  
  山水図 中林竹洞
大倉笠山
今王路悠山
江戸時代後期  
  驟雨帰魚図 谷文晁 寛政8年(1796)  
  驟雨帰魚図添幅 中井蕉園 寛政8年(1796)  
  千山万水図 谷文晁 文化4年(1807)  
  滝山水図 亀田鵬斎 文化14年(1817)  
  溪山楼閣図 春木南湖 江戸時代後期  
  四季山水図 松林桂月 昭和11年(1936)  
  挋霜鶏鷔図 山本梅逸 江戸時代後期  
  豊川閣山門 白井烟嵓 昭和時代  
  田原城址 白井烟嵓 昭和時代  
  日出の石門 白井烟嵓 昭和時代  
  田口岩古谷山遠望 白井烟嵓 昭和時代  
  伊良湖岬 白井烟嵓 昭和時代  
  扇面貼込六曲屏風 谷文晁ほか 江戸時代後期  
  幽山孤村図屏風 松林桂月 大正13年(1924)  
  双雁図屏風 野口幽谷 明治時代前期  
  薩埵冨士図 中林竹洞 天明7年(1787) 個人蔵
  峡壁飛泉図 白井烟嵓 昭和23年(1948)  
  鴨水十五景詩画冊 篠崎小竹
小田海僊
山本梅逸ほか
江戸時代後期  
  花卉冊 岡田半江 江戸時代後期  
  花卉画巻 田能村竹田 江戸時代後期  
  客坐縮図 小田莆川 江戸時代後期 3冊
  過眼縮図 小田莆川 江戸時代後期 1冊
  莆川縮図 小田莆川 江戸時代後期 1冊
  過眼録 椿椿山 天保年間 7冊
  過眼掌記 椿椿山 天保年間 5冊

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

彭城百川 元禄10年(1697)〜宝暦2年(1752)

名は真淵、号を蓬洲、八僊堂と称す。名古屋の薬種商の八僊堂に生まれたとも、婿養子に入ったとも伝えらる。はじめ、俳句を志し、各務支考(1665〜1731)に師事するが、やがて支考と離れ、京都を拠点として北陸や長崎に遊び、48歳頃から絵を職業として元文年間(1736〜1741)には法橋位を得た。作風は元明の画を倣ったものや、南宗画と北宗画を折衷したもの、俳画風のものまであり、与謝蕪村(1716〜1783)に影響を与え、南画の先駆者のひとりに数えられる。

岡田米山人 延享元年(1744)〜文政3年(1820)

江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。名を国、字は士源、画号を米山人、米翁と称した。寒山寺裏長池(現大阪市北区曽根崎)で米屋を営んでいた。米臼をひきながら読書し、余技に書画をしたと言われ、中国文人画を中心に独学で画業を修得した。39歳の時、子 半江が生まれる。天明2年(1782)頃、伊勢国藤堂藩に仕え、藩の蔵屋敷内(現大阪市北区天満宮)に移った。家業の米屋も息子半江に引き継がせていた。蔵屋敷の居宅の一部を画室として「正帆」と命名し、ここで多くの文人墨客と交わった。65歳前後で職を辞し、70歳頃から飲酒と煎茶に親しんだ。75歳の時、妻を亡くし、それ以後、死を迎えるまで2年間に書画の創作活動はもっとも旺盛となった。

岡田半江 天明2(1782)年〜弘化3(1846)年

岡田米山人の子で、名を粛、字は子羽、画号をはじめ、小米、のちに半江、独松楼、寒山外史などと号した。通称は宇左衛門、父没後彦兵衛を襲名。画を父に習い、詩文にも長じていた。藤堂藩大坂蔵屋敷に仕えた。天保3年ごろ職を辞し、子の寸庵(彼も画人として活躍)に米穀商の家督を譲り、天満橋北に隠居所を構えたが、父米山人が残した膨大な量の書画や書籍が天保8年(1837年)に起きた大塩平八郎の乱の煽りで、焼けてしまった。半江が本格的に絵を描き始めたのは、この事件以降のことである。居を住吉に移し、父の知友であった篠崎小竹、田能村竹田など多くの文人と交流をした。弘化3年に65歳で没した。

帆足杏雨 文化7(1810)年〜明治17(1884)年

名は遠(えん)、字は致大、別号は聴秋、半農などがある。豊後戸次に生まれる。田能村竹田、次いで浦上春琴に学ぶ。また詩文を帆足萬里、広瀬淡窓、頼山陽らに学び一家を成す。特に山水を得意とし、画風には竹田の影響を強く残している。

貫名海屋 安永7年(1778)〜文久3年(1863)年

名は苞(しげる)。字は君茂・子善。号は海屋・海客、晩年に菘翁(すうおう)と称した。阿波藩の旧家で、小笠原流礼状指南役を勤めた吉井直吉の次男として生まれ、のち先祖の旧姓貫名に改姓した。17歳の頃より高野山に学び、さらに大阪の懐徳堂に入門。文化8年(1811)頃、京にて儒者として身をたてる。晋・唐の書を研究し、市河米庵・巻菱湖と並び幕末の三筆に数えられ書家として名が高い。頼山陽、田能村竹田、中林竹洞らと交流した。画は、はじめ狩野派に学び、その作品は保守的と評されてきたが、梅逸に比する技巧派としてみるべきものがあり、天保年間を中心に優品が多い。各地の風景の写生に励んだという逸話や、海屋が描いた「京師より伏見に抵」路上の真景に対する竹田の高い評価(『師友画録』)も注目される。

釧雲泉 宝暦9年(1759)〜文化8年(1811)年

備前島原(長崎)に生まれ、幼い頃、父と長崎へ行き、中国語と画を学ぶ。名は就、通称は文平。山水画を得意とした。寛政年間(1789〜1801)には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴した。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後、江戸に移り、亀田鵬斎(1752〜1826)・大窪詩佛(1767〜1837)などと交流。文化三年以降越後(新潟県)をたびたび訪ね、越後出雲崎で客死。

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。

亀田鵬斎 宝暦2年(1752)〜文政9年(1826)

江戸神田に日本橋馬喰町鼈甲商長問屋の通い番頭の子として生まれ、名は長興、字は図南・稺竜、通称文左衛門、鵬斎、善身堂などと号した。折衷学派の井上金蛾(1732〜84)に師事し、古文辞学を排撃した。同門の山本北山(1752〜1812)と親しく、江戸学界の五鬼に数えられた。寛政異学の禁で弾圧を受け、晩年は酒にひたった。門下からは巻菱湖・館柳湾ら優れた人材が多く出た。晩年下谷金杉に移り住み、酒井抱一・谷文晁・太田南畝ら多くの文人達と交友した。

春木南湖 宝暦9年(1759)〜天保10年(1839)

江戸に生まれ、本姓は結城、名は鯤、字は子魚、通称は門弥。別号に幽石亭、烟霞釣叟、呑墨翁などがある。詩文もよくし、当時の江戸画壇では谷文晁と並び称された。伊勢長島藩主増山雪斎に仕え、京阪・長崎に赴き、画の修行に励んだ。長崎遊学に赴いた際の日記『西游日簿』の執筆は、大坂で著名な好事家木村兼葭堂のもとを出立するところから始まり、岡山の浦上玉堂を訪ね、やはり長崎を目指していた司馬江漢とも同道した。文晁派が挿絵を提供している版本に南湖も提供している例があり、文晁やその門人達との親密な交流がうかがわれる。子の南溟や孫の南華も画人として名をなした。

松林桂月 明治9年(1876)〜昭和38年(1963)

松林桂月は、山口県・萩市に生まれ、東京に出て渡辺崋山の孫弟子にあたる野口幽谷に師事、精緻で格調高い表現を学びました。日本美術協会展、文展に出品。帝展の審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員となりました。戦後、日本美術協会理事長。漢詩の教養を活かし、詩・書・画の全てが優れているという境地を目指す文人画−南画を描き、水墨画においては、その独特の叙情的な作風が高く評価され、昭和33年(1958)、文化勲章受賞。旧姓は伊藤。本名は篤。代表作に「春宵花影」など。平成25年に没後50年「松林桂月」展が山口・愛知田原・東京練馬にて開催された。

山本梅逸 天明3年(1783)〜安政3年(1856)

名は親亮。字は明卿。号は春園・梅逸・玉禅居士などと称した。
名古屋に生まれ、実業家で書画の収集家であった神谷天遊より画の指導を受ける。享和2年(1802)20歳で上京、翌年より西国・北陸を遊歴。その後名古屋を本拠地とし、京都・江戸ほか各地で活躍。天保3年(1832)50歳のとき京都に移住、花鳥画と山水画を中心に充実した作画を行い、頼山陽・浦上春琴・貫名海屋らと交流した。精緻を極めた画風が特色である。煎茶にも造詣が深く、尾張を代表する文人画家として、中林竹洞(1776〜1853)と並び称される。

野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)

江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。

白井烟嵓 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)

愛知県豊橋市花田町に生まれ、本名を白井瀧司、字を龍と称します。16歳より、従兄の白井永川に南画を学びます。大正3年(1914)に上京、近衛連隊に入隊します。除隊後、大正6年に崋椿系の流れを受けた松林桂月(1876〜1963)に師事し、大正9年第2回帝展に初入選以後、帝展、新文展に出品しています。戦後は日展に出品し、第2回「雨後」第5回「雲行雨施」(特選)があり、翌年、無鑑査出品となります。以後、社団法人日展となってからも、昭和43年(1968)まで委嘱作家として活躍します。昭和35年、日本南画院創設に参加し、理事を務めます。昭和36年第1回南画院に出品した「秀孤松」は文部大臣賞を受けます。南画院、日本画会など多くの展覧会にも出品しました。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

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作品解説

滝山水図 文化14年(1817)亀田鵬斎

落款は「丁丑夏四月寫 鵬斎老人」とあり、白文方形印の「長興私印」と朱文方形印の「鵬斎間人」を捺す。「鵬斎老人」の落款は六十歳代から七十歳代のものであるが、この作品も六十六歳のものである。画としては谷文晁をはじめとして、交流した多くの画家達が精緻で優雅な色使いを駆使するのに対抗するように、自然や精神性を重んじて描き、本来の文人画を目指したものである。

溪山楼閣図 江戸時代後期 春木南湖

南湖が最も得意としていたのは山水で、墨を基調に軽妙瀟洒な画風と言える。墨の濃淡でみずみずしい緑豊かな山と軽やかな線で建物や橋を描いている。
長崎で来舶清人画家であった費晴湖に絵を学んでいるが、晴湖も淡墨で温雅な画風であり、当時の日本人の嗜好にあった。当時の『江戸當時諸家人名録』に、「南湖」の名の横に「画山水」と記され、多くの需要を抱えていたのであろう。

四季山水図 昭和11年(1936)松林桂月

濃彩な画風から余白や空間構成を意識するような作品へと移る過渡期の作品である。昭和11(1936)年発行の『桜雲洞画譜』に掲載された作品である。『桜雲洞画譜』には昭和11年11月19日付けの桂月自身の跋文と11月23日に展覧会場を訪問する東伏見宮妃殿下の巻頭写真が添えられているので、年末頃の発刊のものであろう。桜雲洞は松林桂月の画室名である。この年、前年から続く帝展改組の紛糾が続き、6月に小室翠雲、荒木十畝、松岡映岡とともに再改組の建議書を提出している。
春景【賛文・款記・印章】桃花洞裏有青山 身与雲中雞犬閑 知是道人高臥夢 不隨流水出人間 道人隆老仙 桂月山人篤并題於桜雲洞中。
夏景【賛文・款記・印章】林間日出鳥相和 一片帰雲向岫辺過 昨夜山中知有雨 前溪帯濁水声多 桂月山人并題
秋景【賛文・款記・印章】紅葉白雲好 天開活画奇 林間温酒処 溪上駐車時 笑倣香山興 行吟小杜詩 山留秋粉本 造化有余師 桂月山人并題
冬景【賛文・款記・印章】榾柮煙消寒俄浸 中庭老樹起栖禽 書窓一夜明如月 想見千山積雪深 昭和丙子六月下澣并題桂月山人篤

松林桂月 幽山孤村図屏風

大正8年(1919)から始まった帝展以後、桂月は六曲の大画面の屏風作品も多く手がけている。「幽山」とは、自然のままで、手つかずという意味で、孤村は、人里離れている村である。煙るような風景を横に広がる大画面に描いている。戦後の水墨基調作品を予兆させる作品である。
 賛に「江湖寄跡欲何期、野世漫然称画師、五十成家荘我拙、辛勤学古少人知、生難易楽奚依酒、死不休心豈独詩、自有春風吹得好、花天月地吮毫時」 甲子春日并題 

野口幽谷 双雁図屏風

没骨法で二羽の雁を描き、右と左下からはたらし込みの技法を使用した葦葉、左下には淡いピンクに胡粉の白を上乗せした海棠が眼を引く。左樹上から雁を見下ろす雀は、その眼線をたどることで画面としての方形が効果的に感じられる。画面左に「村情山趣」の印が捺される。師である椿山の若い時期のやや硬さを感じさせる花鳥画に影響をうけた作風で、大正時代までの桂月作品にもつながるものである。

白井烟嵓 峡壁飛泉

終戦を迎え戦災をのがれた東京都中野区野方の自宅に戻り、精力的に作品を描き始める。昭和21年の第1回から連続して日展に入選を続けている。画家としての評価も上がり、特選を取る前年の作品。戦後の日本画壇は日本風を排し、洋風画に傾倒するが、烟狽ヘ師の画風を継承し、水墨画を出品し続けている。

篠崎小竹・小田海僊・山本梅逸ほか 鴨水十五景詩画冊

弘化3年(1846)の篠崎小竹(1781〜1851)の題字に始まり、小田海僊(1785〜1862)、中林竹洞(1776〜1853)、山本梅逸(1783〜1856)、浦上春琴(1779〜1846)らの絵に小竹の絵を添えるという画帖である。鴨水は鴨川のことで、十景描かれていたものに五景を加えて完成させたようである。

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