平常展 渡辺崋山が仕えた田原藩主

開催日 平成29年4月8日(土)〜5月14日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は、若い頃から田原藩主の子供たちの勉強相手をつとめました。三宅家四代の藩主に仕えることになります。

展示作品リスト

特別展示室
資料名 作者名 年代 備考
領知目録   安政7年(1860) 三宅備後守(康保)宛
宣旨(三宅康直を土佐守に任ず)   文政12年(1829) 三宅康直宛
位記(三宅康直を従五位下に叙す)   文政12年(1829) 三宅康直宛
漂民聞書 村上範致・
渡辺小華挿図
安政2年(1855) 田原市指定文化財
高島流砲術伝書   江戸時代後期  
田原城二ノ丸櫓写真   明治時代前期撮影  
毛槍(御伊達道具)   江戸時代  
毛槍(御道中馬印)   江戸時代  
姫島馬図 三宅康明 江戸時代後期  
七字書 三宅康明 江戸時代後期  
高野長英像(複) 椿椿山 天保年間 原本は高野長英記念館蔵
三兵活法(写本)   安政4年(1857) 田原市指定文化財
夢物語(写本)      
高嶋流起證盟文   天保14年〜嘉永6年(1843〜1853) 村上範致旧蔵
高嶋流砲術中位傳授   嘉永5年(1852) 村上範致旧蔵、(陸奥国)真船忠蔵宛
(高嶋流)砲術起證文之事   元治元年〜慶応4年(1864〜1868) 村上範致旧蔵
墨竹図 村上定平宛書簡 渡辺崋山 天保12年(1841) 個人蔵
長興寺寺領安堵   文政11年(1828)  
長仙寺寺領安堵   文政11年(1828)  
花鳥図 三宅友信 文政9年(1816)  
竹之図 三宅友信 文政10年(1817)  
詩書 豊年楽事 三宅友信    
帰都日録 渡辺崋山 文政10年(1827)  
詩書 三宅康直 明治23年(1890) 個人蔵
詩書 三宅康直 明治時代前期 個人蔵
幽居記聞巻 伝渡辺崋山 天保11年(1840) 個人蔵
三宅裕斎千字文 三宅康保 江戸時代後期 15冊、市指定文化財御納戸406
三才図絵   江戸時代後期 116冊、市指定文化財、御納戸書籍68
孔門十哲像 以下、10幅対      
卜商(子夏) 依田竹谷 文化13年(1816) 重要文化財、糸井榕斎賛
言偃(子游) 文供 文化13年(1816) 重要文化財、菊池五山賛
端木賜(子貢) 林半水 文化14年(1817) 重要文化財、亀田鵬斎賛
宰予(子我) 文水 文化13年(1816) 重要文化財、竹村悔斎賛
仲由 (子路) 山本文承 江戸時代後期 重要文化財、冢田大峯賛
顔回(子淵) 喜多武清 文化13年(1816) 重要文化財、佐藤一斎賛
閔損(子騫) 浅尾大岳 江戸時代後期 重要文化財、三谷東奥賛
冉耕(伯牛) 小田_斎 江戸時代後期 重要文化財、松平定常賛
冉雍(仲弓) 椿椿山 嘉永元年(1848) 重要文化財、 筒井政憲賛
冉求(子有) 後藤光信 文化13年(1816) 重要文化財、大窪詩佛賛
利休一枚起請文 三宅友信 弘化元年(1844)  
利休百首和歌   天正15年(1587) 市指定文化財、御納戸書籍322
名物楽茶 利休形書   天保10年(1839) 市指定文化財、御納戸書籍325
利休茶湯秘巻   江戸時代 6冊、市指定文化財、御納戸書籍332

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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渡辺崋山が仕えた田原藩主
藩主名 (上)生年(下)没年 在藩主年 備考
9 三宅康和 1798 自 文化6年 1809 8代康友の二男
1823 至 文政6年 1823 従五位下対馬守
10 三宅康明 1800 自 文政6年 1823 康友の三男
1827 至 文政10年 1827 従五位下備前守
11 三宅康直 1811 自 文政10年 1827 酒井雅楽守忠実の六男
1893 至 嘉永3年 1850 従四位土佐守
12 三宅康保 1831 自 嘉永3年 1850 康友の庶子友信の長男
1895 至 明治2年 1869 従五位下備後守

作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

三宅康明 寛政12年(1800)〜文政10年(1827)

八代藩主康友の三男で、兄は九代藩主康和。江戸にて28歳で亡くなった。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

三宅友信 文化3年(1806)〜明治19年(1886)

三宅友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の子として生まれ、9代康和・10代康明は異母兄にあたる。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住していたが、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)には従四位を贈られた。

三宅康直 文化8年(1811)〜明治26年(1893)

姫路藩主酒井雅楽頭忠実(さかいうたのかみただみつ)の六男で、幼名を稲若と言う。文政10年に三宅家へ養子に入り、三宅家11代藩主となった。八代藩主康友の側室が産んだ友信がいたが、田原藩では病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、稲若を養子とした。嘉永3年(1850)友信の長男であった康保を養子とし、家督を譲り、隠居した。

三宅康保 天保2年(1831)〜明治28年(1895)

八代藩主康友の側室が産んだ友信の長男。天保3年6月に、その年3月に産まれたばかりの康直の娘於C(おけい)との婚約の願書が幕府に提出され、2日後に認可された。一時、康直夫人の願により、跡継ぎを外される恐れもあったが、用人真木定前の命を賭した願い入れにより、その難を免れた。明治2年(1869)の版籍奉還後には、田原藩知事に任命された。崋山が書の手本として「忠孝」を書いている。

依田竹谷 寛政2年(1790)〜天保14年(1843)

江戸に生まれ、谷文晁に学び、名は瑾、字は子長、叔年、別号に凌寒斎・三谷庵・盈科斎。碁・画・書、詩の順によくすると伝えられる。江戸四谷塩町長全寺に葬る。

喜多武清 安永五年(1776)〜安政3年(1856)

江戸に生まれ、名は武清、通称は栄之助、字は子慎、号は可庵、別に五清堂・一柳斎・鶴翁という。谷文晁の門人で、江戸八丁堀に住み、渡辺崋山とは二十歳代からの親友である。文化13年(1816)の渡辺崋山、24歳の日記『崋山先生謾録』にも名が記されている。狩野探幽(1602〜1674)を慕い、花鳥画、人物画を得意とし、古画の摸本を多く所蔵していた。文政12年(1829)江戸大火の時、崋山は武清宅に駆けつけ、彼の摸本類を避難させたが、上北八丁堀の桑名侯邸裏で火に囲まれ、九死に一生を得たと曲亭馬琴(1767〜1848)宛の手紙(田原市博物館蔵)に書いている。
大坂城落城の際の事実談を記録した『おあん物語』『おきく物語』には、それぞれ喜多武清と渡辺崋山が挿絵を提供している。山本北山(1752〜1812)の門人で、江戸で塾を開いていた儒学者朝川善庵(1781〜1849)が天保8年(1837)に跋文を書き、個別に版行され、後に合装された。読本の挿絵や美人画なども描き、古画の鑑定や摸写もすぐれ、作品としては、重要文化財である渡辺崋山関係資料の中に、田原藩校成章館に伝わった『孔門十哲像』の内、『顔回像』(文化13年)がある。この作品には佐藤一斎の賛が添えられている。また、無落款であるが、『山本北山画像』(東京国立博物館蔵)が知られる。鏝絵の名工として評価される入江長八(1815〜1889)が漆喰に絵画技法を取り入れるために学んだ師でもある。挿絵を提供した本に『萍の跡』『優曇華物語』『絵本勲功草』『可庵画叢』『近世奇跡考』などがある。

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作品解説

重要文化財 椿椿山 高野長英像 天保年間前半頃 高野長英記念館蔵

高野長英(1804〜1850)は仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同八年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同三年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保九年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。
この画は、高野家と姻戚関係にあったかつての東京市長であった後藤新平が一時手元に置いていた。後藤新平の書簡によれば、かつては愛知県豊橋に残され、崋山の息子渡辺小華による箱書がある。高橋磌一によれば、大槻文彦が『高野長英行状逸話』に、「此椿山ノ筆ハ渡辺崋山ノ粉本中ニ長英ノ顔ノミ画キテアリシニ拠リシモノト云。」と書いていることを紹介している。崋山が縮図冊に記録しておいたものを元に椿山が描いたと伝えられるが、詳細は不明である。

参河国田原城修復絵図 

江戸時代には、武家諸法度により城の災害等の破損修復でも、幕府に申請する必要があった。絵図と願書を提出して、審査を受け、許可を受けた後に着手される。これらの絵図は藩に控として残ったものである。
元禄13年は石垣修復、正徳5年は土居の修復である。

田原城二ノ丸櫓写真

田原城には、天守はなかったため、この櫓がそれにかわるものであった。廃藩時に解体されたときの記録では、大きさは3間×5間(約5m×9m)で、長方形であった。崋山が天保4年に描いたスケッチによると櫓の壁は黒い下見板が張られたつくりで、明治に撮られた写真を絵ハガキにしていたため、見ることができる。1層目には、入母屋の破風がついた出窓がつけられている。現在の建物は、昭和30年に、文化財収蔵庫のために建設されたもの。二の丸櫓の石垣、二の丸櫓の東面の石垣は、南半分と北半分で積み方が違い、南側の石垣は、水平に積まれているが、北半分は、小型の石をV字に斜めになるように積んでいる。なお、北側の石垣は、安政の大地震(1854)の時に崩れて積みなおされたものである。

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