平常展 渡辺崋山の弟子福田半香

開催日 平成29年3月1日(水)〜4月2日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 田原市博物館

半香は師の田原蟄居中の暮らしを援助しようと義会を開催しますが、そのうわさは、崋山への批判となり、崋山は自刃してしまいました。花鳥山水いずれも描きますが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残しました。

展示作品リスト

特別展示室
作品名 作者名 年代 備考
過眼録 椿椿山 文政4年(1821) 個人蔵
椿山先生草稿 椿椿山 江戸時代後期 個人蔵
琢華堂器具形摸 第七 椿椿山 江戸時代後期 個人蔵
興到筆随帖 福田半香
萩原秋巌
天保13年(1842)  
書簡 福田半香 江戸時代後期  
四季山水画冊 渡辺崋山 天保8年(1837) 田原市指定文化財
元高彦敬米法山水巻 椿椿山 江戸時代後期  
渓澗野雉図稿 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
秋山瀑布図 渡辺崋山 文政5年(1822) 田原市指定文化財
殿中迎春之図 渡辺崋山 天保年間  
福田半香肖像画稿 椿椿山 嘉永4年(1851) 田原市指定文化財
竹図 福田半香 江戸時代後期  
山水図 福田半香 江戸時代後期  
夏堂聴雨図 福田半香 弘化年間  
高砂浦之図 福田半香 江戸時代後期  
海辺宿船之図 福田半香 江戸時代後期 双幅
富貴木蓮図 福田半香 江戸時代後期  
菊花湖石図 福田半香 安政2年(1855)  
冬山水図 福田半香 安政5年(1858)  
怒濤之図    福田半香 万延元年(1860)  
渓谷山水図  福田半香 弘化3年(1846)  
青緑山水図(春江群禽図) 福田半香 天保6年(1835)  
小集図録及び書簡 椿椿山 天保11年(1840) 重要文化財
鶴山水図 福田半香
萩原秋巌
天保11年(1840) 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

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作品解説

福田半香 興到筆随帖

この書と画が5枚ずつ描かれた画帖は山水画を福田半香、漢詩の書を萩原秋巌(はぎわらしゅうがん・1803〜1878)が書いた作品である。秋巌は江戸時代後期の書家で、宋の徽宗皇帝(1082〜1135)の痩金書を好んだ。半香は崋山の門下生であった。天保4年(1833)に崋山と出会っている。そして翌年、、江戸へ行き、崋山門の扉を叩いた。崋山に入門した後、椿椿山(一八〇一〜五四)の花鳥画のすばらしさに目を見張り、自分は山水画に専念しようと決意をした。その中で半香は崋山を救うために開いた絵画会で逆に崋山を苦しめる事となってしまった。
崋山は天保12年(1841)、自害した。半香は失意のなか、自分を責めながらも、崋山や倪元璐(げいげんろ・1593〜1644)、費漢源など明清画人の作品から基本を学んだ。この画帖は、崋山自害の翌年、天保13年(1842)1月に描かれている。悲しみの後の静かな透明感に満ちた気持ちからか、柔らかで優しく、またおおらかさも感じさせる作品である。
この画帖は半香の門人、小栗松靄(おぐりしょうあい・1814〜94)のために描かれたものである。松靄の一家は文墨の士が多く、多くの文人墨客が旅の途次に小栗家を訪ねており、遠州で松靄を訪れずに過ぎることはなかったと言われている。この桃源郷の風景を描いたと思われる画帖を眺めながら、半香も10才年下の松靄と楽しく心温まるひとときを過ごしたのではないだろうか。

渡辺崋山 四季山水画冊

図の中には年記が記されていないが、付属する書付に「鶏年」との年記があり、天保8年の作品であることがわかる。群馬県緑野村の代官斎藤市之進の娘で、10歳で崋山の画弟子となった斎藤香玉(1814〜70)に与えたものと伝えられている。女性に与えた手本らしく瑞々しく広々とした画面構成の作品である。香玉は崋山の画法を忠実に守って描いた山水画は男性のような力強さを見せる。

椿椿山 福田半香肖像画稿

嘉永4年、半香48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。画稿であるゆえ、荒っぽさは否めないが、幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。

福田半香 夏堂聴雨図

山間より流れ落ちる滝、激しく斜めに降り注ぐ雨、流れてくる渓流の中、一人使いの者であろうか、庵に向かって傘をさし橋を渡ってくる者がいる。その先の庵にはこの家の主人が横たわりこの急に降り出した水音を心地よく聴いている。涼しさも感じ始めたのであろう、従者も団扇を止め主人の様子を窺っている。この図をみていると、見ている側も滝、雨、川のそれぞれが醸し出す水音と木々の豊かな葉々に、自然とすがすがしい気分になってゆくのではなかろうか。
この作品は、明代後期の呉派の文人画家である銭叔宝(1508〜72)の図を摸したものである。

福田半香 高砂浦之図

兵庫の播磨灘に臨む高砂神社の相生の松の下に老夫婦を描き、天下泰平、長寿祝福を表したおめでたい画である。山水花鳥の得意な半香が人物画を描いた珍しい作品である

福田半香 海辺宿船図

屋形船が停泊しているこの二幅の図、半香は船をたくさん描きたかったのだろうか。近景にも遠景にも浮かんでおり、帆をかけて陸をめざしている船もある。陸には武士や荷を運ぶ人が描かれている。岩山には点苔がほどよく置かれており、波もやわらかで趣を出している。
この二幅は、多点透視の構図を取っている。それにより、変化にとんだ画面を作り出している。

福田半香 富貴木蓮図

牡丹と木蓮の図である。どちらも中国原産の観賞用の落葉低木である。富貴については、宋時代の周敦頤の『愛蓮説』の文中に、「牡丹、華之富貴者也。」と出てきており、牡丹の別名として富貴とも昔から言われていたようだ。中国では花王とも称されてもいる。
この作品は満開の牡丹を、輪郭線のない没骨によって描き、はなやかで豊艶な美しさをたたえている。これに対して木蓮は、白塗りの花弁が、清潔できわめて気品が高い。

福田半香 菊花湖石図

半香52歳の時の作品である。半香は若い時期に花鳥画をよく勉強して描いていた。菊花はたらしこみの技法で花の中心部にいくほど濃くなり、その上から細い線で花弁が丁寧に描かれている。葉は没骨法で柔らかに、太湖石には点苔でアクセントが付けられ、全体としては観賞用の菊花と湖石がバランスよく構成されている。
半香がこの年、花鳥画を描こうと思いたったのは、崋山の弟子の椿椿山が安政元年(1854)に亡くなったことが要因になったと思われる。半香より3歳年上の椿山は花鳥画を得意とし、半香はその作品に感服して花鳥画を描くことをやめた、と言われている。椿山の死は、深い悲しみと共に若い頃の一緒に学んだ思い出の追憶として自然と絵筆を握ることとなったのではなかろうか。

福田半香 冬山水図

落款により12月21日に描かれたことがわかる。半香55歳の時の作品である。
小川に架けられた橋を渡り、草木で作った粗末な仮住居であろう、庵に向かって隠者が顔を少し上向き加減に、周りの景色を観賞しながら向かっている。上空には雲が立ち込め、山は高々とそびえている。山は点苔によって重みを出し、おおらかで太くゆったりとした線によって描かれた山や木々に、半香の自己のなかで確立した山水に対する心境が反映している。

福田半香 怒涛之図

巨大な岩塊にぶつかり砕け散る波、その中に一艘の帆船が今にも波にのまれそうになっている。船乗り達は水主(かこ)の指示のもと皆必死で船を押し出している。人物の顔は皆同じ様なので、この作品は、荒れ狂う海の中一艘の船が必死に浮いている、と半香が構図を練ったのであろう。
筆使いは太い線であるので、思いのまま描き進めたと思われる。そのせいか、この危険に満ちた航海が力強さと落ち着きを感じさせる。
沖の波はゆったりとしていて手前の様子とはだいぶ違うようだ。きっとだんだんと空も晴れてゆき、船乗り達は皆無事に到着することができたであろう。半香57歳のときの作品である。

椿椿山 小集図録及び書簡

渡辺崋山にゆかりある画人たち(当日、椿山に入門した者もいるが)が集まって画会を楽しむ様子が伝わってくる作品である。この作品には、福田半香宛の書簡が付属している。椿山は福田半香を通じて、この作品を崋山に届けさせ、落款の意見を求めている。意見を求めつつ、蟄居中の崋山に近況報告をして励ましたかったのだろう。

描かれた人物(右端から) 備考
椿 和吉 (椿山四子)
請地 ヤ二良  
大凹 培生 (茂八?)
村上 湘帆  
椿 好三 (椿山末子)
早川 貞橘 (舟平倅)
齋藤 新太 (新太郎)
高喬 直二  
神村 愛山 (九十郎)
高喬 志淵  
庵原 忠寛 (田舎之助?)
椿 恒吉 (椿山長男)
鈴木 以保女 (市郎右衛門娘?)
小森谷 栗斎 (宗五良)
斎藤 香玉女  
鈴木 鱸香  
石原 恒山 (滝太郎)
一木 翠涯  
山本 琴谷  
小田 莆川  
高喬 益女  
金田 星岳 (織之助)
高久 靄厓  
大凹 翠音 (茂八?)
長谷川 寿山 (永村茜山)
荻埜 絳雪 (金太郎縁者?)
山内 芳馨 (庄助縁者?)
椿 篤莆 (椿山)

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