開催日 | : | 平成29年1月28日(土)〜2月26日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 田原市博物館 |
渡辺崋山の絵画の師であった金子金陵は花鳥画が得意で、椿椿山にも絵を教えています。金陵は、旗本寄合席大森勇三郎の家臣で、大森家には安永年間 (1772〜1781) に田原藩主三宅康之(1729〜1803)の三女お滝が嫁いでいます。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
十二支図巻 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
画冊 | 谷文晁 | 寛政3年(1791) | 個人蔵 |
画学斎図藁 | 谷文晁 | 文化9年(1812) | |
山水図扇面 | 谷文晁 | 寛政7年(1795) | |
蟷螂捕蝉図扇面 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
十二支図帖 | 椿椿山 | 文政年間 | 個人蔵 |
花鶏図 | 金子金陵 | 寛政7年(1795) | |
李白観瀑図 | 谷文晁 | 文化年間 | |
西王母図 | 谷文晁 | 文化9年(1812) | |
梅華白鷹・芙蓉水禽 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | |
天香玉兎之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | |
海棠小禽図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | |
墨梅図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | |
菊之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | |
鸚鵡之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | |
御殿猫草花図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 個人蔵 |
大黒天像 | 渡辺崋山 | 文化14年(1817) | 個人蔵 |
秋景山水図(倣藍瑛山水図) | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
龍虎双幅 | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
渡辺巴洲像画稿 五図 | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | 重要文化財 |
鸕鷀捉魚図(複) | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | 原本は出光美術館蔵 |
雪中南天 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 |
茗荷・茄子・秋虫 | 椿椿山 | 天保9年(1838) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。
● 金子金陵 生年不詳〜文化14年(1817)
旗本寄合席大森勇三郎の家臣で、名を允圭、字は君璋、通称を平太夫、別に日南亭と号す。画を谷文晁(1763〜1840)に学んだといわれ、沈南蘋(1682〜?)風の花鳥画を得意としていた。諸葛監(1717〜1790)、宋紫石(楠本雪渓、1715〜1786)、旗本の董九如(1745〜1802)に学んだとする説もある。大森家には安永年間 (1772〜1781) に田原藩主三宅康之(1729〜1803)の三女お滝が嫁いでいる。崋山自筆の『退役願書稿』(重要文化財、田原市蔵)によれば、白川芝山の画塾の授業料が払えなくなり、父の勧めで金陵の弟子になったとある。崋山の文化12年の日記である『寓画堂日記』や同13年の『謾録』にも、金陵の記述が度々見られる。渡辺崋山・椿椿山・滝沢琴嶺(馬琴の長男1798〜1835)の師として知られる。 金陵は南蘋風からヲ南田風へ転じたと言われている。南蘋風を習得した崋山は単に修業のためではなく、多くの人から収入を得る途でもあり、境遇に同情した文晁が、次々に崋山へ仕事を回していたのではないかとする、森銑三氏の意見もある(創元選書276『新版渡邊崋山』)。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 渡辺崋山 十二支図巻
十二支の画巻である。没骨法で描かれたものと毛書きを主にしているもので組み合わされている。ネズミやウサギ、鶏、犬といった実物の写生と思われるものと牛、虎、龍などの写生を元にしていないものが続けて描かれる。その絵は生命力の差となり、見る者に伝わるが、虎や龍にも古法に法った筆の走りが冴える。かつて京都国立博物館に出品されて好評を博したと伝えられる。
● 谷文晁 画学斎図藁
文晁は白河藩主松平定信付の御用絵師であった。文化年間(1804〜1818)前半も、公務に多忙であったが、この年、定信は隠居し、楽翁と号し、江戸築地の欲恩園に転居している。文晁が定信の付人を免ぜられた年である。
この資料は180丁以上に及び、題箋は「画学斎図藁」と印刷されたものが貼り込まれている。文晁自身が作らせた題箋かは不明だが、年に数冊のペースで制作されるとすれば、必要であったかもしれない。1丁目表の扇面形の余白には『正月九日』、1丁目裏には「正月十一日」の記述が見られる。1月15日には文化4年にも描いた『八大竜王図』(東京都済松寺蔵)と同構図の縮図がスケッチされている。注文画の控が多いが、2月4日には白文方形印の「文晁之印」と朱文方形印の「画学斎」、朱文長方印の『重陽生』(文晁は9月9日生まれ)が捺され、「重陽生」の横には「銅印 像鈕」「熊山篆」の添え書きも入れられ、入門者の記録や覚え的な事項も書かれている。前半に多少月日の交錯と考えられる場所も散見され、後世の綴り替えの可能性もあるが、概ね正しく月日が記入され、末尾近くでは7月の記述があり、これだけの作品群を半年強でこなしたというのは、驚くばかりである。。『田原市博物館館蔵名品選第2集』に全図版が見られるCD-ROMが付録として付いている。
● 渡辺崋山 蟷螂捕蝉図扇面
カマキリがセミを捕まえているところである。カマキリの背の横から腹部を少し見せ、足の関節、触角など鋭く繊細に特徴を捉えて描いている。款記は「崋山樵者登」。
● 椿椿山 十二支図帖
いずれの図も画面背景には、薄墨を引き、朱文隅丸方印の「椿山」を捺す。署名は「椿山」「椿山筆」「椿山画」「椿山寫」「椿常長」「常長」と記している。この印の使用例は少なく、「一覧縮図」などの縮図冊に蔵書印のように見られる。
● 金子金陵 花鶏図
右上に「乙卯春寫 金陵平允圭」と落款し、白文方印「允圭」、朱文方印「君璋」の二印を捺す。金陵は、年紀を記す作品の少ない画家である。雄鶏は片足を上げ、首から上をひねり、雌鶏は地上の小虫をついばもうとしている。つがいの鶏を描く場合、ほのぼのとした夫婦愛を感じさせる場合が多いのだが、それぞれ闘いを控えているかのような迫力を感じさせる。
● 谷文晁 李白観瀑図
李白(701〜762)は、唐の詩人で、四川の人。その母が太白星を夢見て生んだので太白を字とした。酒を好み、奇行が多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に関係して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝えられる。杜甫と共に並び賞された詩人。李白が瀑布を見て、詩想を練っている様子を描いている。滝を見上げる人物を描く作品には「高士観瀑図」と題されるものもあるが、従者を横に配しているため、「李白観瀑図」と考えられる。 落款の「文晁」の字から文化年間(1804〜18)で、文化4年から5年頃の作例と考えられる。墨色の諧調が増殖していくと、のちの烏文晁時代のあふれるばかりの躍動感ある作品となる。
● 谷文晁 西王母図
西王母は中国で古くから信仰されていた仙女で、この図は、周の穆王(ぼくおう)が西に巡狩して崑崙(こんろん)に遊び、出会った西王母を描く。画面右下に「文化九年四月畫 文晁」とあり、「画学齋文晁印」を捺す。
本図では、西王母が手に経巻を開き、翳をかざす侍女と霊芝を手に捧げる侍女が描かれる。西王母の頭上には仙桃と授帯鳥が描かれ、神鹿が伴っている。崋山もこの作品の前年にあたる、19歳の時に『亀台金母図』(個人蔵)という西王母を描いた作品があり、明清画を摸写したものである。この作品は、原図があるかもしれないが、精緻で細密に描かれ、文晁の力量を遺憾なく発揮している。頭上の冠や着物の模様、装飾品には金泥の彩色も施される豪華なもので、その絢爛豪華なたたずまいは、当時の文晁の勢いを感じさせる。
● 金子金陵 天香玉兎之図
本来こんなひねり方はできないと思われるが、兎がくるりと首をひねらせてお月様を眺めている。右上からは、木蓮の枝が二手に分かれて下りてきており、その二つの枝の間に木の幹が描かれることにより画面に奥行きが出来、空間が生まれている。空間構成は虚で沈南蘋派の部分的な写実から画面が静止した様な感を受ける。
画題の「天香玉兎」とは、桂花(木蓮)と兎のことである。桂花は月宮殿に開く花のことで、玉兎は月の異名である。桂花、兎どちらからも導かれる月が、つつましやかに右上に描かれている。江戸時代の人々はこの絵がなにを表しているのか謎解きをして、楽しんでいたのであろう。
● 渡辺崋山 秋景山水図(倣藍瑛山水図)
画面右上に「倣藍瑛法王蒙図 華山静」とある。明末期の画家藍瑛(1585〜1664?)が王蒙(1308〜1385、元末明初の画家で、元末四大家の一人。王維・董源・巨然ら古名家の法を学び、構成力のある独自の山水画を作る。)の筆法に法って描いた山水図を崋山が写して描いたものである。藍瑛の描いた秋景山水図としては静嘉堂文庫美術館に現存している重要文化財がよく知られている。この作品の谷文晁による摸本も同美術館に所蔵されている。藍瑛は明代に盛んになった折派を統合し、さらに過去の諸大家の筆法を整理した。18世紀以降の谷文晁一派にこれらの藍瑛作品は積極的に受容されている。原本を見ることはかなわぬが、荒々しく感じられるこの作品も若き日の崋山が自らの感じたままを眼前の紙本に力強く表現した勢いを見る者に感じさせてくれる。
● 渡辺崋山 龍虎双幅
龍の画は、たらしこみの技法により地上の生き物とは違う不思議な存在を神秘的に表している。天から舞い降りてきた龍がふと天を見上げた姿を描いている。虎の画は、舌を出し右をじっと見据える姿を描いている。筆のはけ具合が虎の何者かを射すくめる緊張感をうまく表している。落款の文字からみると「華山」であり、二十代後半の作と思われる。
● 渡辺崋山 渡辺巴洲像画稿 五図
この画は崋山の父、巴洲こと定通の肖像である。とても人柄の優しさ、温かさがにじみでている作品である。父が60歳で亡くなった時に涙で泣きむせびながら筆を走らせたと言われており、崋山の父に対する愛情があふれているのではないだろうか。枯相を写生したもの、左向き、斜左向き、上半身を描き添えたもの、画面を彩色したものの五種の草稿がある。描くことで、深い悲しみを癒すこととなったのではなかろうか。
● 渡辺崋山 鸕鷀捉魚図(複製)
「鸕鷀」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品である。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれている。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作である。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。
款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる記述があり、内容は「青緑山水、鸕鷀捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持ち去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されている。「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いている。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっている。
● 椿椿山 茗荷・茄子・秋虫
この作品はナス、ミョウガ、オケラ、テントウムシ、チョウ、キリギリスが描かれ、夏の草虫の繁栄を表現したものである。椿山の依頼画の見本帳とも呼ぶべき「椿山翁設色縮図」にこの作品と同様の図が収められている。それには「野蔬群蟲図」と題し「北宋人之意」と図中に記される。また、天保13年作の「蔬菜虫」(画稿)は同様の構図であるが、石とカエルを追加している。ともに「北宋人」、おそらく徐崇嗣(生没年不詳)の筆意をイメージした作品であろう。また、五穀図をはじめ椿山は、この類の作品を頻繁に描いているが、同時代の作家でも見かけない。この図は豊穣祈願の吉祥画題で、小さな虫たち、ナス、ミョウガを配することによって、生態系の安定を表したかったのであろう。自然界全体の繁栄は、豊作につながり、安定した生活を保障するものである。天保の大飢饉を経験し、その記憶が焼きついていた当時の人たちにとって、このような画題に込められた思いは強かったであろう。