開催日 | : | 平成28年12月3日(土)〜平成29年1月22日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 田原市博物館 |
野口幽谷は、嘉永3年(1850)に椿椿山に入門し、花鳥画を学んだ。幽谷は、優秀作の常連で、安政初年頃から画に専念した。明治5年(1872)のウィーン万博にも出品。明治10年第1回内国勧業博覧会で褒状。宮中の御用画もつとめ、明治26年帝室技芸員。日本美術協会展覧会に「溪流水仙図」を出品し銀牌を受け、宮内省御用品となった。陛下の御前で席画を仰せ付けられた時も、椿山先生の遺品であった汚れた紋付袴で伺候した。代表作に明治宮殿杉戸絵(宮内庁蔵)、「菊鶏図屏風」(第四回内国勧業博覧会出品、静嘉堂文庫美術館蔵)などがある。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
蒲塘真趣 | 野口幽谷 | 明治17年(1884) | 個人蔵 |
水墨画帖 | 野口幽谷 | 明治18年(1885) | |
和楽堂談笑珠璣帖 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
花卉冊 | 野口幽谷 | 明治18年(1885) | |
雀図 | 関田華亭 | 大正6年(1917) | |
過眼縮図 | 椿二山 | 明治28年(1895)〜大正 | |
花卉図 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
和楽堂墨君帖 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
花草図巻 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
花卉竹石画巻 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
幽谷先生模琢華堂花卉 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
和楽堂寫生 | 野口幽谷 | 安政2年(18) | 個人蔵 |
箱根雲烟過眼 | 野口幽谷 | 明治11年(1878) | 個人蔵 |
和楽堂図書記 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
寫生幀 三 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
雲烟過眼 | 野口松山 | 明治19年(1886) | 個人蔵 |
過眼縮図 | 野口松山 | 明治時代 | 個人蔵 |
松林桂月印譜 | |||
野口幽谷像画稿 | 椿二山 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
湖石白猫図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 田原市指定文化財 |
仙桂新枝之図 | 椿椿山 | 個人蔵 | |
古松ノ図 枯木ノ図 | 椿椿山 | 嘉永5年(185 | |
野口幽谷之像画稿 | 椿二山 | ||
千山万水図(複) | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | 重要文化財 |
野口幽谷之像 | 椿二山 | ||
野口幽谷之像画稿 五図 | 椿二山 | ||
海鶴蟠桃図 | 野口幽谷 | 明治22年(1889) | |
牡丹図 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
猛虎図(渡辺崋山摸) | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
桃季山猿図 | 野口幽谷 | 明治11年(1878) | |
溪上水仙花図 | 野口幽谷 | 明治26年(1893) | |
竹林群雀図 | 野口幽谷 | 明治31年(1898) | 3幅対 |
竹石白猫図 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
花鳥図 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
百寿図 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
白衣観音像 | 野口幽谷 | 明治29年(1896) | 個人蔵 |
桃李園夜遊図 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | |
石榴芍薬白頭図 | 渡辺如山 | 天保2年(1831) | |
秋江山水図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | |
琢華堂額面 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | |
亀図扇面 | 椿華谷 | 天保14年(1843) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸飯田町中坂生まれ。幼時に天然痘にかかり、生家の仕事であった大工の仕事につけず、当時著名であった神田小柳町の宮大工鉄砲弥八に入門し、製図を学んだ。嘉永3年3月19日に椿椿山に入門し、花鳥画を学ぶ。漢学を大黒梅隠に学んだ。椿山晩年の安政初年頃から画に専念し、寺子屋も開いた。明治5年ウィーン万博に出品。明治10年第1回内国勧業博覧会で褒状を得る。生涯清貧を貫き、明治中期以降の文人画衰微の折りにも、画を請われた。宮中の御用画もつとめ、明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。名は続、通称は巳之助、和楽堂と号した。作品に「竹石図」「菊鶏図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)など。門下に松林桂月、益頭竣南などがいる。
● 椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展蘭会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 関田華亭 慶応2年(1866)〜大正8年(1919)
4月21日、常陸国(茨城県)水戸に生まれる。本名浅次郎。晩年の野口幽谷に師事。明治26年入門。日本美術協会展などで受賞を重ね、日本画会評議員をつとめ、文展開設では旧派の正派同志会の結成に評議員として参加。渡辺華山、椿椿山の遺風を慕い、花鳥画を得意とする。大正8年(1919)12月18日歿。享年53。
● 渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。
● 松林雪貞 明治11年(1878)〜昭和44年(1969)
松林雪貞は野口幽谷の画塾「和楽堂」で、桂月と同門であった。明治41年(1908)に「秋圃図」が文展に入選している。桂月と結婚後は展覧会への出品も減っていくが、椿椿山から野口幽谷に引き継がれる写生を重視したしなやかで、伸びやかな女性らしい描線と色彩で描かれる。
● 野口幽谷 和楽堂談笑珠璣帖
12図から成っている画帖である。薄い水色を多用しているのが特徴である。珠璣(しゅき)とは宝玉のことである。愛知県豊橋市出身で幽谷の孫弟子となる白井烟煤i1894〜1976)の旧蔵品であった。
● 野口幽谷 花卉冊
落款に「乙酉春日写為東閣雅君 幽谷生」と記す。題字を書いた杉聴雨(1835〜1920)は元山口藩士で、維新後は宮内省に勤め、書家としても活躍し、子爵となる。牡丹、鯛、藤に燕、伊勢海老とサザエ、蓮に蝉、蟹、鶉、菊、雀、梅に水仙など12図の小品であるが、崋椿系の花鳥画家らしい潤い感のある作品に仕上げられている。
● 野口幽谷 海鶴蟠桃図
呂紀の海鶴蟠桃を写したものである。背景や波の表現はアレンジされているが、谷文晁や椿椿山も描いている。画題としては、長寿の象徴として描かれる。蟠桃は、西王母の住む崑崙山にある桃で、三千年に一度だけ実を結ぶとされ、食すと不老長生が得られるという。この年、日本美術協会展覧会出品審査員を委嘱され、瀧和亭などの有志と青年絵画共進会を開設した。現宮内庁所蔵の智仁勇図三幅対揮毫を命ぜられた。この画題で、桂月も昭和11年(1936)発行の『桜雲洞画譜』に載せている。
● 椿二山 野口幽谷像画稿
渡辺崋山・椿椿山の肖像画では、多くの稿本の存在が知られる。顔の部分には数多くの重ね貼りが見られ、何度も描き直しをしていることがわかり、崋椿系画家が踏襲している肖像画技法を研究する上で貴重な稿本である。明治を迎えても丁髷姿を続けていた幽谷の姿を知ることができる。椿二山は椿山の孫にあたり、幽谷の画塾で学び、日本美術協会美術展覧会でも、褒状一等を受賞し、桂月とは同門であった。
● 野口幽谷 琢華堂額面
琢華堂とは椿椿山の画塾の名称である。この作品は、椿山没後、同画塾を継いだ野口幽谷の書であり、画塾に掲げられていた。『琢華堂門籍』(田原市指定文化財)によると「嘉永三年三月十九日野口巳之助」と出てくる。巳之助とは幽谷のことであり、椿山に弟子入りしていたことがわかる。この作品は、椿山の孫娘、磯村庫子が旧蔵していた。
● 野口幽谷 桃李山猿図
手を伸ばし桃をとろうとしている猿の図。やわらかで墨を多く含んだ筆法は、師椿椿山に似た点がある。落款は「戊寅春日寫 幽谷生」。明治11年の春に描かれた作品である。
● 野口幽谷 溪上水仙花図
9月に帝室技芸員を拝命し、翌10月にこの作品を日本美術協会展覧会に出品し、銀牌を受け、宮内省御用品となった。霞の流れを全体に漂わせ、水の流れを画面中の左から右へ、また右から左へと動きを連続させると同時に、画面奥から手前に少しずつ大きさが変化する水仙、下側に黄色と白色の密集した水仙を配することで、奥行感を演出している。交差させることで見る者の目線をコントロールしている。花鳥画家として一流の評価を得ていた作家の代表作と言えよう。
● 野口幽谷 竹林群雀図
款記に「戊戌春三月朔一日写於和楽堂中幽谷生」とあり、この年六月に亡くなるので、最晩年の作品である。画面上側に青々とした竹とその下に梅の木を描き、十五羽の雀を配す。添幅として墨画の蘭と菊があり、文人好みの四君子を意識したものであろう。
(添幅)
寒燸素烹雲而甘茶茗之味無絃和清風西愛蘭蕙之芳 幽谷生写
墨池西風一夜起染出東籬片之秋 幽谷
● 渡辺崋山 桃梨園夜遊図
落款に「山本氏の為に寫す」とある。崋山周辺で「山本氏」といえば、山本琹谷のことであるが、特定はできない。月夜の梅花の下、音曲と詩作にふける高士たちを描く。青白く浮かぶ満月に照らされて人々が着ている赤や青の服が画面を引き締める。
● 渡辺如山 石榴芍薬白頭図
如山の作品も崋山作品と同じ年の作で、16歳で描いたことになる。崋山の堂号である「全楽堂」を使用して描いた作品である。文政12年(1829)3月24日に椿椿山に14歳で入門しており、鳥のポーズはユーモラスであるが、花卉の表現は椿山花鳥画の享受が充分に感じられる作品である。
● 椿椿山 秋江山水図
椿山の作品は、印のみが捺されているが、印としては、「休庵」「椿山之印」「琢華」を使用するも、未見のもので、対幅の二作品とは、年代も相違すると考えられる。椿山作品とするのには、検討を要する。