平常展 生誕210年 伊藤鳳山

開催日 平成28年10月29日(土)〜11月27日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 田原市博物館

伊藤鳳山は、天保9年(1838)、田原藩家老渡辺崋山らの推挙によって成章館の教授となり、学術振興に努め、渡辺崋山、藩医鈴木春山(1801〜1846)とともに田原の三山と呼ばれました。

展示作品リスト

特別展示室
資料名 作者名 年代 備考
学半論十幹集 伊藤鳳山 天保13年(1842)
天保15年(1844)
3冊、版本
孝経孔伝読本 伊藤鳳山 弘化3年(1846) 版本
傷寒論文字攷 伊藤鳳山 嘉永4年(1851) 2冊、版本
傷寒論文字攷続 伊藤鳳山 嘉永6年(1853) 2冊、版本
経国無是問答 伊藤鳳山 嘉永6年(1853) 自筆本
孫子詳解 伊藤鳳山 文久2年(1862) 13冊、版本
幼学便覧 伊藤鳳山 慶応元年(1865) 再刻、天保13年序
わきざし 肥前佐賀住國廣   伊藤家伝来
わきざし 真光   伊藤家伝来
無銘     伊藤家伝来
目躋 伊藤鳳山 江戸時代後期  
呈祥 伊藤鳳山 慶応3年(1867) 個人蔵
禎祥 伊藤鳳山 江戸時代後期 個人蔵
詩書「大観窓ニ題ス」 伊藤鳳山 江戸時代後期  
詩書「子師以正」 伊藤鳳山 慶応3年(1867)  
詩書「竹林中嘖々」 伊藤鳳山 江戸時代後期  
文天祥正気歌 伊藤鳳山 慶応3年(1867) 個人蔵
楠公詩 伊藤鳳山 江戸時代後期 個人蔵
鎮西八郎詩 伊藤鳳山 江戸時代後期 個人蔵
桜花・菜花屏風 伊藤鳳山 江戸時代後期  
晁吟 伊藤鳳山 慶応3年(1867)  
三聖図 伊藤鳳山
山本_谷
慶応3年(1867) 個人蔵
詩書屏風「寂歴磬聲」 伊藤鳳山 明治2年(1869) 個人蔵
伊藤鳳山絶筆 伊藤鳳山 明治3年(1870) 個人蔵
巴江城郭平面図   明治44年(1911) 藩関係文書636
和無寡 渡辺崋山 江戸時代後期  
和無寡 三宅康保 江戸時代後期  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

伊藤鳳山 文化3年(1806)〜明治3年(1870)

羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出る儒者となる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。2年にして辞し京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

菊池五山 明和6年(1769)〜嘉永2年(1849)

漢詩人。名は桐孫)、字を無絃。号として五山のほか娯庵と称した。高松藩儒菊池室山の次男。漢詩人。名は桐孫)、字を無絃。号として五山のほか娯庵と称した。高松藩儒菊池室山の次男。若くから柴野栗山に学ぶ。寛政12年(1800)に江戸を離れ、関西に滞在したが、文化年間には江戸に出て、大窪詩佛らと交流。晩年まで本郷一丁目近辺に住居を構え、門弟に詩を教えながら生計を立てた。

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

三宅康保 天保2年(1831)〜明治28年(1895)

八代藩主康友の側室が産んだ友信の長男。天保3年6月に、その年3月に産まれたばかりの康直の娘於C(おけい)との婚約の願書が幕府に提出され、2日後に認可された。一時、康直夫人の願により、跡継ぎを外される恐れもあったが、用人真木定前の命を賭した願い入れにより、その難を免れた。明治2年(1869)の版籍奉還後には、田原藩知事に任命された。崋山が書の手本として「忠孝」を書いている。

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作品解説

伊藤鳳山絶筆 [いとうほうざんぜっぴつ]

煖衣飽食逸居身 今歳亦斯為客臣 幸恵深蒙不知乏 歓迎六十五年春
逢新奉謝公之深恵  六十五翁鳳山伊藤馨拝稿

傷寒論文字攷

漢方医の聖典とされる古医書『傷寒論』の注釈書。急性の熱病の治療法を記す。

経国無是問答

嘉永6年(1853)6月、アメリカのペリーが浦賀に来航し、国書を提出した。7月、幕府は諸侯に対外意見を求めたため、翌月に尊王開国を唱えた書物を完成した。その自筆本である。奥書に「此書癸丑八月念日 因多紀楽眞院法印奉閣老阿部伊勢守 同因水戸藩士鴨志田傳五郎奉景山老侯 尋作興國九経策一篇再奉 時九月年四日也」とある。

学半楼十幹集

諸経及び医書等の語句を摘録し、諸家の解を列挙して之を批判し、且自説を叙したる者なり。もと十巻ありしが如きも、刊行を見たるものは甲乙丙の三集にして、大部分論語に関するものなり。

幼学便覧

天保13年秋の著作。鳳山の序、京都開塾中に、門人が古今の詩集を集め、その言葉を蒐集し、これを類別し、その読みをし、詩作のために作ったもの。家塾に梓せしむとあるが、鳳山が門人のために作ったとされている。
天保13年は、鳳山が京都に塾を開いた年。

文天祥正気歌

中国、南宋の志士文天祥(1236〜1282)が、元軍と戦って捕えられ、1280年頃大都の獄中で作った五言古詩。正気が存在する限り正義は不滅であるとし、民族の前途に対する確信を歌った。

天地有正氣雜然賦流形天地に正気有り雑然として流形を賦く
下則爲河嶽上則爲日星下りては則ち河嶽上りては則ち日星と為る
於人曰浩然沛乎塞蒼冥人に於ては浩然と曰い沛乎として蒼冥に塞つ
皇路當淸夷含和吐明庭皇路清夷なるに当たりては和を含みて明廷に吐く
時窮節乃見一一垂丹靑時窮すれば節乃ち見れ一一丹青に垂る
在齊太史簡在晉董狐筆斉に在りては太史の簡晋に在りては董狐の筆
在秦張良椎在漢蘇武節秦に在りては張良の椎漢に在りては蘇武の節
爲嚴將軍頭爲嵆侍中血厳将軍の頭と為り嵆侍中の血と為る
爲張睢陽齒爲顏常山舌張睢陽の歯と為り顔常山の舌と為る
或爲遼東帽淸操厲冰雪或いは遼東の帽と為り清操氷雪よりも厲し
或爲出師表鬼神泣壯烈或いは出師の表と為り鬼神も壮烈に泣く
或爲渡江楫慷慨呑胡羯或いは江を渡る楫と為り慷慨胡羯を呑む
或爲撃賊笏逆豎頭破裂或いは賊を撃つ笏と為り逆豎の頭破れ裂く
是氣所磅礡凛烈萬古存是の気の磅礡する所凛烈として万古に存す

當其貫日月生死安足論其の日月を貫くに当っては生死安んぞ論ずるに足らん
地維頼以立天柱頼以尊地維は頼って以って立ち天柱は頼って以って尊し
三綱實係命道義爲之根三綱実に命に係り道義之が根と為る
嗟予遘陽九隷也實不力嗟予陽九に遘い隷や実に力めず
楚囚纓其冠傳車送窮北楚囚其の冠を纓し伝車窮北に送らる
鼎鑊甘如飴求之不可得鼎鑊甘きこと飴の如きも之を求めて得可からず
陰房闃鬼火春院閟天黑陰房鬼火闃として春院天の黒さに閟ざさる
牛驥同一皂鷄棲鳳凰食牛驥一皂を同じうし鶏棲に鳳凰食らう
一朝蒙霧露分作溝中瘠一朝霧露を蒙らば分として溝中の瘠と作らん
如此再寒暑百沴自辟易此如くして寒暑を再びす百沴自ら辟易す
嗟哉沮洳場爲我安樂國嗟しい哉沮洳の場の我が安楽国と為る
豈有他繆巧陰陽不能賊豈に他の繆巧有らんや陰陽も賊なう不能ず
顧此耿耿在仰視浮雲白顧れば此の耿耿として在り仰いで浮雲の白きを視る
悠悠我心悲蒼天曷有極悠悠として我が心悲しむ蒼天曷んぞ極まり有らん
哲人日已遠典刑在夙昔哲人日に已に遠く典刑夙昔に在り
風簷展書讀古道照顏色風簷書を展べて読めば古道顔色を照らす

意味は
この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。
それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。
人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。
政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、
時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。
例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。
秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。
断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。
食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。
ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、
ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。
またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、
更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。
この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。

それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。
地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。
君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。
ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、
かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。
釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、
日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。
牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。
ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。
そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。
ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。
何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。
何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。
茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。
賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。
風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。

巴江城郭平面図

田原城は田原中部小学校の北側に築かれています。田原湾が新田開発によって干拓される江戸時代前期以前には、城のすぐ下まで干潟でした。満潮時には海水が城を取り囲むようで、あたかもその様が「巴文」状であったため、巴江城とも呼ばれていました。

田原城は、北側から藤田曲輪、本丸、そして、南西に二ノ丸、南東に三ノ丸という配置です。残念ながら城の顔である天守はなく、二ノ丸の櫓がその役割を担っていました。大手道から城内に向かうと、左前方に桜門、二ノ丸櫓が折り重なって見えます。天守を持たない田原城にとって十分な威圧感を発揮したに違いありません。大手道を進むと石垣に囲まれた袖池と呼ばれる水堀に突きあたります。桜門は西にずれた方向にあり、まっすぐ侵入できないようになっています。2回曲がらなければ門に入れません。袖池は、名前の由来となった着物の袖のように、三ノ丸を取り囲むために東側に屈曲し途中で切れています。もともと堀の東側の地形は低いため、堀を一周させることはできません。それでもここに水堀を設けたのは堀の延長を長く見せ、迫力のあるものにするための工夫です。

桜門をくぐると、二ノ丸櫓の石垣の角が眼前に迫ります。現在は神社の参道のため直線の道となっていますが、かつては本丸まで城道は、塀と門を組み合わせた広場(桝形)をつくり、見通すことはできません。これは攻めてきた敵を足止めさせるためです。本丸の東の一部、西面に土塁が残っています。本丸はもっとも高い位置にありますが、独立した高台全体を選んだため、東西は無防備な状態です。そのため、曲輪を付け足して本丸が外と直接触れないように工夫をしています。田原城には天守はなく、本丸には御殿の建物がありました。

廃城されたかつての田原城の平面図を明治44年に記録したものです。『田原町史 中巻』に附図としてトレースされたものが掲載されています。

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