開催日 | : | 平成28年9月10日(土)〜10月23日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室・企画展示室1 |
花鳥画は、日本でも昔から愛された画題です。渡辺崋山・椿椿山の画系は崋山の弟子であった椿椿山をはじめとした「崋椿系」と呼ばれる遠洲や三河の画家たちに伝えられました。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
消夏展観縮図 | 椿椿山 | 文政5・6年(1822・23) | |
過眼録 廿 | 椿椿山 | 天保3年(1832) | |
過眼録 廿二 | 椿椿山 | 天保6年(1835) | |
客坐掌記 | 椿華谷 | 嘉永3年(1850) | |
躑躅和歌 | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
花卉冊 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
花禽十二帖 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
陰文竹 | 渡辺崋山 | 天保10年(1839) | 田原市指定文化財 |
八百延年図 | 椿椿山 | 天保14年(1843) | |
藕花香雨図 | 椿椿山 | 弘化2年(1845) | |
寒香図 | 椿椿山 | 嘉永3年(1850) | |
牡丹図 | 山本_谷 | 天保13年(1842) | |
野蔬七福図 | 福田半香 | 天保11年(1840) | 個人蔵 |
五瑞之図 | 椿華谷 | 天保13年(1842) | |
崋山翁雪中蘆雁図模写 | 椿華谷 | 弘化2年(1845) | |
桃に蘭図 | 小田_川 | 江戸時代後期 | |
野菊図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | |
花鳥図屏風 | 渡辺小華 | 明治5年(1872) | |
受天柏禄図 | 渡辺小華 | 嘉永5年(1852) | |
消夏三友之図 | 長尾華陽 | 安政5年(1858) | |
敗荷魚厥魚之図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
煙草棉花写生図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 |
企画展示室1 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
枯蓮図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
枯木竹石図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
蓮池秋色図 | 渡辺小華 | 明治11年(1878) | 個人蔵 |
菊蘭図 | 渡辺小華 井村常山 蛇足 |
明治時代前期 | |
作 品 名 | 作者名 | 年 代 | 備 考 |
扇面十図二曲本間一双屏風 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
竹に雛 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
柳香飛燕図 | 渡辺小華 | 明治17年(1884) | |
芙蓉双鴨図 | 渡辺小華 | 明治20年(1887) | 個人蔵 |
仙桃図(複) | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 重要美術品、原本は新津美術館蔵 |
水墨牡丹図 | 山本_谷 | 江戸時代後期 | |
飛燕牡丹図 | 鏑木華国 | 明治35年(1902) | 個人蔵 |
菊うずら図 | 井上華陵 | 大正12年(1923) | 個人蔵 |
清雪 | 井上華陵 | 昭和時代前期 | 個人蔵 |
九秋将晩図 | 井上華陵 | 昭和時代前期 | 個人蔵 |
牡丹図 | 深井清華 | 明治時代前期 | |
名花五友図 | 森田緑雲 | 明治時代後期 | |
花卉図 | 渡辺華石 | 昭和時代前期 | |
撫子、蘭 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
花二題 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
梅、鳥 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
岩、草 | 渡辺崋山 | 文政5年(1822) | |
梅、鳥 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
竹、鳥 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
花画譜 | 椿椿山 | 天保13年(1842) | |
花卉虫類冊 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
厨間不乏墨絵小点 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
枯木竹石墨絵小点 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
花卉巻 | 渡辺小華 | 明治4年(1871) | |
香祖蘭竹図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | |
琢華堂画譜 | 椿椿山 | 天保14年(1843) | |
過眼録 廿七 | 椿椿山 | 天保10年(1839) | |
過眼録 廿八 | 椿椿山 | 天保11年(1840) | |
過眼録 廿九 | 椿椿山 | 天保11年(1840) | |
花卉介鱗 | 渡辺小華 | 明治7年(1874) | 個人蔵 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
● 小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 長尾華陽 文政7年(1824)〜大正2年(1913)
浜名郡篠原村馬群に代官藤田権十郎の三男として生まれ、名を正名、字を拙庵、華陽・不休庵と号した。江戸に出て漢学を大橋訥庵に、書を巻菱湖に、画を弘化元年(1844)から椿椿山画塾琢華堂で学ぶ。実兄は代官勤務をしながら、画もし、松湖と号した。江戸から戻り、吉田(現豊橋市)の呉服商奈良屋の長尾家をつぎ、作兵衛を襲名した。廃藩時は士族に列せられ、明治維新後、家業を子に譲り、茶道・画道を主とした生活であった。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会に出品、明治30年頃、神官となり、湊町神明社には20年奉仕した。
● 井村常山 天保11年(1840)〜大正14年(1925)
茨城県鹿島に生まれる(名古屋出身との説もある)。名は貫一、法名は空潭。還俗して、名古屋で清人若波につき南画を学ぶ。書は、書家萩原秋巌につき、顔真卿などを能くし、行書にすぐれる。愛知県知事官房につとめ、明治12年に渥美郡書記として豊橋に赴任、百花園時代の渡辺小華につき、百籟と号しました。明治19年、名古屋に移住し、さらに東京に移った。明治41年の第2回文展に《秋夜読書》で入選。大正4年からは茨城の根本寺の住職も勤めた。
● 鏑木華国 明治元年(1868)〜昭和17年(1942)
田原藩士鏑木轍の長男として生まれた。幼時より、渡辺崋山の息子、小華に就き、画を学ぶ。明治43年に崋山会が創立されると、常務理事となり、渡辺崋山70年祭を記念して、遺墨展覧会が開催され、その監修をし、翌年『渡辺崋山遺墨帖』を発行し、また、昭和9年には田原城二ノ丸櫓跡に崋山文庫を建設し、崋山顕彰に努めた。昭和17年に東京の三男敬三宅で亡くなった。
● 井上華陵 文久2年(1862)〜昭和5年(1930)
田原藩士日高親邦の二男に生まれ、名は泰次郎、明声館と号した。明治14年(1881)実母の弟家へ婿入りし、井上家を継ぎます。画を渡辺小華に師事し、崋椿系の鑑定をよくした。明治17年から渥美・八名の学校で教職に就き、同43年教員退職後、大正3年(1914)から県社巴江神社社司となり、昭和3年(1928)退職。画風は小華風の花鳥画を得意としました。
● 森田緑雲 嘉永6年(1853)〜大正2年(1913)
渥美郡牟呂村(現豊橋市東脇)の牟呂八幡宮の宮司をつとめる森田家に生まれました。神職のかたわら明治9年(1876)から渡辺小華に絵画を学びます。明治15年、第1回内国絵画共進会に《秋七草》《蘭竹》を出品。明治17年、第2回内国絵画共進会に《雑花》《梅花魚厥魚》を出品。明治22年、青年絵画共進会に《玉堂富貴図》が5等、翌年の第3回内国絵画共進会に《蓮鷲図》が褒状、明治24年、日本青年絵画共進会で《蓮華遊魚図》が1等となります。渡辺小華ゆずりの花鳥画を得意としました。
● 深井清華 文政10年(1827)〜明治21年(1888)
吉田藩家老の家に生まれ、名は資貴・静馬・諫雄、雅鴻・後に清華と号した。幕末には、吉田藩700石取の家老となりました。この頃、渡辺小華も田原藩の年寄役であったことから、交遊が始まりました。廃藩後に清華は、豊橋ではじめて写真術を導入し、明治5、6年頃、大手通に深井写真館を開業しています。画は、当初、吉田藩御用画師稲田文笠に学びましたが、小華が豊橋に移住後は、その門で学び、小華上京後は明治17年、第2回内国絵画共進会に出品しています。
● 渡辺華石 嘉永5年(1852)〜昭和5年(1930)
名古屋に生まれ、名は小川静雄、雪香、菘園と号した。明治10年(1877)頃、渥美郡役所に書記として在任。画を渡辺小華に師事しました。明治15年、小華が上京すると、官職を辞し、東京に出ました。明治17年、第2回内国絵画共進会に出品。明治20年、小華の没後、渡辺姓を名乗り、華石を号し、崋椿系の鑑定をよくした。
● 椿椿山 消夏展観縮図
消夏展観縮図では、中国画人と日本人が混在する。崋山画室である全楽堂で見た作品も多く模写されている。崋山作品の模写も扇を六作品、掛幅二点を写している。その作者は、伊孚九(1698〜1747?、清代中期の貿易商・画家。貿易商として長崎に度々来日し南宗画の画風を伝えた)・池玉瀾(1727〜1784、大雅の妻)・陳淳(1484〜1544、明代の文人画家。長洲 (江蘇省蘇州) の人、号は白陽山人。写生と写意を総合した花卉に独自の画境を開いた)・周之冕(生没年不詳、花鳥画に優れた)・長崎の熊代熊斐(1693〜1773、享保16年に来日した清の沈南蘋に学ぶ)などである。田原市博物館研究紀要第7号に詳細に紹介されている。
● 椿椿山 過眼録 廿
天保3年(1832)から4年にかけて使用された「過眼録廿」には、中国画人として、伊孚九(1698〜1747?)・呂紀(1477〜?)・趙子昂(1254〜1322)・沈周(1427〜1509)・張秋穀(生没年不詳)・王淵・戴文進(1388〜1462)・沈南蘋(1682〜?)・淳(1484〜1544)・葆光(?〜1723)や来舶四大家の一人、江稼圃・陳曽則(生歿年未詳)・元末四大家の呉鎮(1280〜1354)、日本の画家では、以下のような人物がいる。雪舟(1420〜1508)・久隅守景(生没年不詳)・狩野探幽(1602〜1674)・住吉廣行(1754〜1811)・与謝蕪村(1716〜1784)・狩野安信(1614〜1685)・松花堂昭乗(1528〜1639)。 椿山の学習対象の画人がわかる。田原市博物館研究紀要第8号に図版などの詳細に紹介されている。
● 渡辺崋山 躑躅和歌
わが女が、父のなぐさにと、思ひかぞへて、この花を、ねほりたるを、あるうしの、みたまひて うすからぬ君のこゝろの 岩つゝじいはねど しるき花のいろかなとありければ、おもほへず いはつゝじいはねはあらじ この袖をぬらすは君が ことのはのつゆ わたのへの翁」 「わが女」は崋山の妻、たかであろう。病床にあった崋山の父、定通(〜文政7年(1824)60歳で没)のために、妻が枕元に持って行こうとした岩つつじを見て、父のために詠んだ歌を記したもので、文政年代のものと思われる。
● 渡辺崋山 陰文竹
陰文とは白文のことである。背景が暗く、図と題詩が白く抜けている。竹と漢詩は崋山得意のもの、それを石刻を想像させる表現で行っている。白文は「鄭老畫蘭不畫土 有為者必有不為 酔来寫竹似藘葉 不為作鴎葉無節技 己亥薄月崋山外史登」。朱文は「有威儀而無文字曰無字碑予曰面有文華而背暗當曰逡巡碑臨題自書耳呵々登又題」。
● 椿椿山 八百延年図
柏(ヒノキ、サワラなどの常緑樹)樹、菊、奇岩そして叭々鳥(ははちょう)を5羽配する。叭々鳥は日本には存在せず、中国大陸から画題とともに飼鳥として輸入された。叭々鳥の「八」、柏樹の「柏」を「百」の字になぞらえ、八百の長寿を表わす吉祥画題である。複雑に屈曲する柏樹、奇岩はモティーフの持つ生命力を表現する。しかし、菊の清らかな姿は、奇異な形態の岩の「アク」の強さを、適度に柔らかくする。この菊も絵手本である「芥子園画伝」あたりからの図取りであろう。
● 椿椿山 藕花香雨図
「藕花」とは蓮の花を指す。椿山は作画活動の全期をつうじて、蓮の絵を描いている。蓮は子孫繁栄、恋、結婚にまつわる幸福と、仏教のシンボルとしてイメージされてきたことから、当時の人々の需要が多かったことであろう。雨に煙る水面を蓮の茎がゆらゆらと伸びる様は、まさに浄土への導きをイメージする。盛りを過ぎた葉の端は弱々しく枯れ、若葉は張りのあるみずみずしさを湛える。水面に見える水草も、蓮の茎に絡む葦も計算された構図である。縦長の画面が蓮の花の香り漂う幻想的な情景を、いっそう引き立たせる。弘化年間(1844〜48)から、椿山の作風はより柔らかな方向へと向かう。それは、絵の具に水を含ませる方法の変化によるもので、この作品はその過渡期にあたる。椿山の描く蓮図の代表作に挙げられる。
● 椿椿山 寒香図
椿山の使用印に「十石小室」と刻された印がある。椿山はこの印の由来を「飯・遊・眠・言葉・硯墨・着色・點色がそして酒・女性・煙草の嗜みが少ないからだ」という。つまり「十」の「小(少)」であると。この逸話の真偽は不明であるが、この印が使用された時期の作品を観察すると意外に色数筆数が少なく、濃彩されていないことに気づく。椿山の花卉図の真骨頂はこの時期にある。ほぼ同時期にあたるこの作品では松、南天、水仙、霊芝を配する。ともに吉祥性の高いモティーフである。賛文には中国明代の白陽山人(陳淳1482〜1544)の図の影響によって描いたことが記される。 押さえられた色彩、筆数がこの画面に寒々とした静寂感を与え、モティーフが内在する生命力・霊力を引き立たせるのである。しかしながら、南天の実の赤が程よいアクセントとなり画趣に彩りを与えている。自ら目標としたヲ南田の筆法を昇華した、椿山の作風を示す佳作である。
● 小田莆川 桃に蘭図
桃は昔より画題となつた中国原産の落葉樹です。徽宗皇帝(1082〜1135)による『桃鳩図』などが有名です。また、蘭も観賞用や香草として栽培され、画題となってきた植物です。この桃と蘭に二匹の蝶をからめた構成で、可憐でつつましやかな画となっています。花卉には花粉が飛び散りそうで、春の麗らかな小春日和を思い起こさせます。落款に「莆川田重暉」とあります。
● 椿椿山 花画譜
表紙の題箋に「椿山先生花画譜」と記され、「雪鴻」の長円二重廓印が捺されるが、この人物は誰であるかは不明。花ばかりでなく、蟹や昆虫、鳥、海産物も描かれている。末尾に「壬寅晩秋竣計二十五幀弼」とあり、朱文方印の「弼」、白文横長方印「椿山」、白文方印「琢華」が捺される。図によっては、朱文円印「弼」、朱文円印「琢華」などが捺されるが、印の無いものの方が多くある。また、十字ほどの詩を入れたものもあり、絵手本であろうか。
● 立原春沙 野菊図
可憐な野菊の下を三匹のアユが泳いでいます。気品がありながら、慎ましやかな優しさも感じられます。それは、崋山の画の鋭さを反映しつつ、女性の画家であるからではないでしょうか。また、色使いから谷文晁(1763三〜1840)や椿椿山(1801〜54)の影響を受けているのでしょう。春沙は絵に生涯を捧げることを決心し、縁談を断わった、と言われています。また、月琴にも長じていたようです。きっと芯のある奥ゆかしい日本女性であったでしょう。
● 椿華谷 五瑞之図
落款から崋山の門人で、小華を江戸の椿椿山に入門させた福田半香に贈ったものであることがわかる。五瑞は吉祥をあらわし、花びらの端に濃い着色をほどこし、平面的にぼかしを入れている。
● 渡辺小華 花鳥図屏風
明治初年に使用される印のパターンである。静岡県の旅館に伝わったもので、三河から遠州・駿府にかけての東海道沿いには崋椿系画家の作品の人気が高かった。「小華道人寫時壬申仲夏」の落款と「邉諧」「小崋」印の組み合わせである。「白陽山人・南田翁之意・清人之法」などと記され、中国からの画の影響下にあることが見て取れる。
● 渡辺小華 受天柏禄図
壬子は嘉永5年で、琢華堂は椿山の画塾を指し、椿山に入門した習画時代の作である。鹿が同じ構図で描かれる椿椿山筆「蝠鹿蜂猴図」(静嘉堂文庫美術館蔵)や平井顕斎の作品もあり、椿山周辺に共有されるモチーフで、椿山塾で没骨法学習に励んでいた様子がわかる。小崋落款を使用している。線描は固く、画技はまだまだであるが、謹直に師の作品を写そうとする姿勢がうかがわれる。