平常展 渡辺崋山名品選

開催日 平成28年7月9日(土)〜9月4日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山は江戸時代後期を代表する文人画家として知られています。中国の影響を強く受けた山水風景画をはじめ、写実を極めた肖像画や花鳥画は、時を超えて現在でも名品として伝えられています。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
重美 壬午図稿 渡辺崋山 文政5年(1822)  
  脱壁 渡辺崋山 文政8年(1825)  
  寓目縮写 渡辺崋山 文政9年(1826)  
  水墨山水 渡辺崋山 天保6年(1835) 個人蔵
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  賢徳帖 渡辺崋山 江戸時代後期  
  松寿介二石友図巻 渡辺崋山
立原杏所
天保4年(1833)  
市文 商山四皓 渡辺崋山 天保年間  
  関帝図 渡辺崋山 文化9年(1812)  
  海鶴遐齢図 渡辺崋山 文化13年(1816)  
  夏山欲雨図 渡辺崋山 文政3年(1820)  
市文 関羽帝之図 渡辺崋山 天保年間  
  翡翠扇面 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  漁父図 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  米法山水図 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
市文 両国橋納涼之図 渡辺崋山 江戸時代後期  
  信長判じ絵 渡辺崋山 天保年間  
  旭日浴波図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
重文 孔子像 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  高士観瀑図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
市文 母堂栄座像画稿 渡辺崋山 天保年間  
市文 母堂栄画像稿 渡辺崋山 天保年間  
重美 異魚図 渡辺崋山 天保11年(1840) 個人蔵
重文 板絵墨画馬図 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重美 黄粱一炊図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本は個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

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作品解説

渡辺崋山 壬午図稿

表紙題箋に「壬午図稿縮本冬」とあり、表紙裏には崋山の弟子である椿椿山(1801〜54)の所蔵印である「琢華堂図書記」の印の下側が押されている。一丁目の書き込みには「壬午元旦試筆、全楽堂登」とあり、正月元旦から描き始めたことがわかる。内容は扇面・掛軸・屏風などの下絵が多く含まれ、余白に「…様頼」と記されていることから様々な人からの依頼画であることを示している。江戸時代初期に幕政の中心を担った青山忠俊(1578〜1643)、酒井忠世(1572〜1636)、土井利勝(1573〜1644)の姿を写したものや特定できる人物ではないが、町人の座った姿をスケッチして貼り込んだ図は、この冊子の中でも際立って目を引く。「津田勘太郎頼稿アリ」と余白に記された卓文君図は完成作の存在も知られている。末頁近くに崋山の弟、如山(1816〜37)の4種類の印顆を何度か押してある頁も見られるが、後世に押されたものと思われる。昭和16年(1941)に重要美術品に認定された冊子で、崋山が30歳の時に描かれたもの。文政5年は、父親の定通の病が進み、出家していた弟定意(1803年生まれ)が同僚との不和により、渡辺家に戻ってきたり、母方の祖父・河村氏一家の寄寓など、生活の窮乏がいちじるしかった年である。翌年の文政6年(1823)には、田原藩士和田伝の娘、たかを娶った。この資料は、かつては、浜松の遠州銀行頭取であった高林泰虎の旧蔵品であった。田原市博物館研究紀要第7号に全図・全文の活字が掲載されている。

渡辺崋山 関帝像

『三国志』で有名な関羽を描いたもので、彩色の留書に「金、コン、ロク、白グン」「雲筋書細クコマカニ」と注記される。模写にありがちなぎこちない線描と異なり、ひとつの作品として認められる、完成した力強いものとなっている。図中に「壬申秋日華山寫 文一先生之圖」とある。「文一先生」とは谷文晁の養嫡子谷文一(1777〜1818)のことで、将来を期待されたが、31歳で早世した。滝澤琴嶺が描いた同構図の関羽図(父の馬琴が賛)もあった。

渡辺崋山 漁父図

賛詩に「数口妻児托一竿 夫須襏襫老沙灘 笑他世上軽肥客 更以犧牛得飽安」とある。「数口の妻児を一竿に托し、夫須(蓑のこと)襏襫(太織の雨衣)沙灘に老ゆ。さもあらばあれ世上軽肥の客。更に以たり犧牛の飽安を得るに」と読む。墨の太い線で、文人の憧れであった漁師を描いたもの。

渡辺崋山 信長判じ絵

「判じ絵」とは、文字・人・物などを他のものにまぎらしてかきこみ、それを探させる趣向の絵である。近江国安土総見寺の仏殿の絵馬は、男が左手で棒を突き、右手に箕を持ち上げ、その傍らにヘラを捨て置き、向うへは蚊帳をつりたる図を狩野永徳(1543〜1590)が描いたもので、これは信長の考えた判じ絵で、「気(木)を直ぐに箆(ヘツライ)をすてて、かせげば(蚊を防ぐ)身(箕)を持つ」という意味がある。崋山が描いたこの判じ絵の男性は、まさしく信長でたくましい胸板や太い腕とそのポーズのアンバランスがこの作品の妙である。

渡辺崋山 異魚図

画中に「異魚不知其名、我郷南海所捕、鈴木春山持贈、形似魴魚無円暈、或鯧魚一種歟、土人云味甘平無毒 庚子十一月朔六日」とある。「異魚其の名を知らず、我郷の南海に捕うる所、鈴木春山持贈、形は魴魚に似て、円暈無し、或は鯧魚の一種か、土人云う味は甘く平にして毒無し」と詠むのであろう。鈴木春山は田原藩の蘭方医で、江戸北町奉行所で取調中に患った湿疹などを治療していた。春山の持参した珍しい魚を写生したもので、細く鋭い線描と、タンポの布目を利用した点描で描く。

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