開催日 | : | 平成28年5月21日(土)〜7月3日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山と椿椿山は師弟であると同時に最も信頼し合っていた友人でした。この二人の交流を現在に伝える資料や作品を中心に展示します。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
辛卯稿 | 渡辺崋山 | 天保元年(1831) | 個人蔵 | |
全楽翁漫稿 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
華翁漫稿 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
華翁漫稿 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
重文 | 絵事御返事 | 渡辺崋山 椿椿山 |
天保11年(1840) | |
重文 | 麹町一件日録 | 椿椿山 | 天保10年(1839) | |
雲煙過眼 乾 | 椿椿山 | 文政5年(1822) | 個人蔵 | |
雲煙過眼 坤 | 椿椿山 | 文政5年(1822) | ||
過眼録 廿 | 椿椿山 | 天保3年(1832) | ||
菊竹図扇面 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
花鳥画帖 | 椿椿山 | 嘉永5年(1852) | 2帖 | |
豊干禅師騎虎図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
達磨図 | 大川椿海 | 江戸時代中期 | ||
重文 | 渡辺崋山像(複) | 椿椿山 | 嘉永6年(1853) | |
溪上詩趣図 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | 個人蔵 | |
清溪談古図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 個人蔵 | |
椿椿山像画稿 | 椿華谷 | 江戸時代後期 | ||
紅葉小禽図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
三光三友図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
市文 | 花卉図屏風 | 椿椿山 | 嘉永4年(1851) | |
老女像稿 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
柳枝魚影之図 | 椿椿山 | 弘化3年(1846) | ||
牡丹之図 | 椿椿山 | 嘉永3年(1850) | ||
歳寒三友図 | 椿椿山 | 嘉永7年(1854) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 椿椿山 雲煙過眼
「雲煙過眼」とは、蘇軾の『宝絵堂記』によれば、雲や煙がたちまち過ぎ去ってしまうように、物事を長く心に留めないこと。物事に執着しないことの意味である。とりとめもなく気の向くままに残したスケッチ帳である。
● 椿椿山 菊竹図扇面
中央に淡墨で描かれた菊の背後に、爽やかな色彩の緑竹が扇形の画面に沿って左から右にたわむ。菊は他の花が散り萎えても霜にも屈せず花を開かせる耐寒性、牡丹や芍薬の華やかさとは対極的にひっそりと静かに咲く姿が、逸脱の文人の姿と重なり合う。竹には、四季いつも緑を保ち、真っ直ぐ立ち、節(節度)があり、梅、菊、蘭などとともに君子に例えられる。また、陶淵明は菊を、蘇東坡は竹を愛し、数々の佳話が生まれている。両詩人に愛され、中国に憧れる人々にとって菊竹は好ましいイメージのモティーフであると言えよう。椿山が添える詩意も嘉永年間の引きずるような書体も画趣にほどよくあっている。まさに正統的な文人画作品と言えよう。竹の絶妙な色彩が新鮮な趣を与えており、実に小気味よい作品となっている。画風及び署名の書体から、嘉永五年(一八五二)以降の作品である。
● 椿椿山 花鳥画帖
「琢華堂画帖」「椿椿山花卉冊」という題の二帖から成る。「壬子夏日寫於琢華堂 椿山人」「壬子蕤賓月 椿生」と最後の図にある。蕤賓月は五月にあたる。各図に印が捺されており、白文円印「飛雲鴻」、朱文長方印「休庵」、白文方印「皆可」、白文方印「順而無憂」、白文長方印「八仙中之一」、「梧軒」、白文長方印「山中一爽雨樹杪百重泉」、「雪中芭蕉図」に使用される「模古」印は文政九年(一八二六)の初期作にも使用される印である。「蟹図」には「人生未許全無事」が使用されるほか、「羅漢松青軒」「亦是一員無事道人」「十石小室」などの印も使用される。全て椿山自身の手による押捺かは検討を要する。
● 渡辺崋山 豊干禅師騎虎図
「下総匝瑳郡椿海大川氏の意に法る 登戯墨」とある。大川椿海は安永3年、62歳で没した。禅僧の豊干を描く。たっぷりと墨を含ませた筆を大胆に使い、豊干と虎の立体感を表現している。嘉永4年(1851)の椿山の『過眼掌記』(田原市博物館蔵)に模写がある。
● 椿椿山 渡辺崋山像(複)
外題には「崋山先生四十五歳象癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られる。この像には三回忌の年にあたる天保14年6月7日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化4年4月14・15日に描かれた画稿の存在が知られている。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めている。12年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝え、椿山自身もその出来栄えに満足したであろう。黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据えている。面貌は多くの画稿が存在することから、とくに精緻に描かれているが、衣服は簡略に写意的に描く。切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいる。机に置いた右手は異様なほど大きく描かれ、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようである。また、この像には公人、つまり武士の立場を演出する刀は描かず、衣服も含めプライベートな崋山の姿を写しているのである。
なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのであろうか。この翌年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたる。この一連の事情を知っている椿山は、その45歳の転機の姿をポートレートとして記録し、供養したとも考えられるのである。
● 椿華谷 椿椿山像画稿
縦に二枚の絵が並び、表装される。上には、笙を傍らに机の前に座す椿椿山のラフなスケッチ画が描かれる。作者は息子椿華谷(一八二五〜五〇)である。右に、「三尺巾絹」とあり、本図の存在を窺わせる。笙(しょう)は雅楽の管楽器の一つで、木製椀型の壺の周縁に長短十七本の竹管を環状に立て、うち二本は無音で、他の十五本にはそれぞれの管の外側または内側に指孔、管の脚端に金属製の簧(した)がある。壺にある吹口から吹いたり吸ったりして鳴らした。椿山は笙笛の名手であったと伝えられている。椿山の顔の部分は、上の画の完成した部分であると考えられる。絹本に描かれているが、破れ等の破損が著しかったためか、切り取ったものと思われる。花鳥画の評価が高い華谷であるが、崋山から椿山に引き継がれた肖像画法をよく学び取っていたことがわかる。
● 椿椿山 紅葉小禽図
なんと近代的な作品であろうか。落款を隠せば近代の円山四条派の作品と見まごうばかりである。しかしつぶさに観察すると随所に椿山らしさが見られる。ひとつひとつのモティーフを分解すると様々な要素があることに気づく。楓の色彩については琳派を意識し、三羽の文鳥の筆法、また機知的な配置はまさしく長崎派の影響を看取できる。没骨法による楓木の葉の曖昧な輪郭、及びたらしこみ風の質感表現、そして木肌の筆法は、椿山の得意とするもので「ヲ南田」の影響による。椿山の琳派への意識は、喜多川相説の粉本、また「七草図」などの実作品の存在から大いに窺われるが、花鳥画家としての多様性を示すものである。近代を予感させる雰囲気は、荒削りだが天保年間の椿山の旺盛な創作意欲を感じ取れる。全体のモティーフバランスは右に寄っており、落款の位置も単体の作品としては不自然なことから、あるいは対幅の可能性も考えられる。「弼」朱文瓢印は天保年間の作品の指標であり、署名の書体もかっちりとしており、すべてにおいて椿山のこの時期の基準作とできる秀作である。署名及び「寫」の書体から、天保十年から十一年にかかる作品と考えられる。
● 椿椿山 花卉図屏風
全12図の押絵貼屏風である。これらの作品は、当時の花鳥画のスタンダードとも言うべきものばかりで、画題的には、広義の吉祥的寓意を持つ花鳥画である。また、牡丹(国香春斎)は清初のヲ南田(1633〜1690)、竹石に小禽の描かれたものは明の陸包山(治・1496〜1576)に倣ったとする。当時の一般大衆の花鳥画に対する理想とするもの、すなわちこのような画題と誰々風のものを、といった要求に心憎いばかりのセットを用意し、応えたものと言えるだろう。この12図の構成からは、右隻、左隻のそれぞれの判断は難しい。配列は、その二が季節的順序を保っているが、その一については特に認められない。色彩的には淡彩と水墨作品を交互に配列している。
これらの十二図屏風は、それぞれの単独でも一作品として鑑賞できるものでもあるため、後に改装され、掛幅装となる場合が多い。このような当時の姿で残ることは少なく、椿山の花鳥画作品の基準となる貴重なものといえよう。
● 椿椿山 麹町一件日録
渡辺崋山が天保10年5月14日、蛮社の獄で捕えられ、その救済活動の記録である。蛮社の獄の進行状況や情報、救済の方法など、几帳面な椿山らしく克明に記録されている。翌日から記録が始まっている。5月はほとんど毎日、6月で記述が無い日は4日・6日・7日・12日・16日で、17日までの本文18丁の記録である。
崋山らの嫌疑は以下のとおりであった。
@僧侶順宣・順道父子らが無人島の渡航を計画し、これには使番松平伊勢守および田原藩士渡辺登が関与した形跡が認められる。
A崋山が蘭学を好み、藩主三宅康直(隠居三宅友信の誤り)に蘭学を勧め、かつまた好事の者を集めて蘭書を講じ、高野長英・小関三英らの蘭学者と外国事情を詮索し、当今の政事向を批判し、外国船が浦賀洋中で諸国の廻船が江戸に入るのを邪魔するならば、江戸はたちまち困窮して、おのずから交易の道が開けるであろうと放言し、あるいはまた奥州金華山沖の離島に外国船が渡来することを知り、同地の漁夫を利用すれば、これと自由に往来できると、公言した事実がある。
B崋山が、順宣らとは別に、無人島渡航を企て、さらに漂流に名をかりてルソン・サンドウィッチ島からアメリカ辺までおもむこうとしている。
C崋山が『鸚鵡舌小記』(『鴃舌小記』の誤り)を著わして、蘭人の幕政批判を紹介した。
D崋山がロシア・イギリスの船印、旗印を蔵板にし、これを所持している。
E使番松平伊勢守・代官羽倉用九・同江川英竜・西丸小姓組下下曽根信敦・伊賀者内田弥太郎・増上寺代官奥村喜三郎らが、崋山・長英に師事し、外国の事情を探索し、かつ外国を尊信している。
F長英が蘭書を和解し、これに基づき、日本と外国との政治人情の善悪を評した著書を著わし、『夢物語』と題して、これを公けにした。
G元徒士本岐道平が、同志の者と無人島に渡航し、さらにルソン・サンドウィッチ島からアメリカ辺まで渡ろうと計画している。
さらに、追加告発として
@崋山が大塩平八郎と通信した形跡があること。
A元普請役大塚同庵(1795〜1855、幕臣、医師・砲術家)に不審な点があること。