平常展 崋山の弟子たち

開催日 平成28年2月6日(土)〜3月21日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山と椿椿山は師弟の関係にあります。この二人につき、影響を強く受けた画家達は「崋椿系」と称されます。明治時代の中頃まで椿山からその画系は直接伝わっています。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  江戸雷名文人寿命附 平亭銀鷄 江戸時代後期  
  当時現在広益諸家人名録   天保7年(1836) 渡辺崋山、椿椿山、立原春沙等
  江戸現在広益諸家人名録二編   天保13年(1842) 小田_川、斎藤香玉
  当時現在広益諸家人名録三編   文久元年(1861) 福田半香
重美 客坐掌記(複) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  俳画冊 渡辺崋山 天保年間 2冊
  梅果図扇面 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  過眼掌記 四十七 椿椿山 嘉永元年(1848)  
  過眼掌記 四十八 椿椿山 嘉永2・3年(1849・50)  
  過眼掌記 五十 椿椿山 嘉永4年(1851)  
  百子留芳図扇面 立原春沙 江戸時代後期  
重文 佐藤一斎像(複) 渡辺崋山 文政4年(1821) 原本は東京国立博物館蔵
  卓文君図 渡辺崋山 天保5年(1834)  
重美 月下鳴機図(複) 渡辺崋山 天保年間 原本は静嘉堂文庫美術館蔵
  富嶽図 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
重文 小集図録及び書簡 椿椿山 天保11年(1840)  
市文 福田半香肖像画稿 椿椿山 嘉永4年(1851)  
  海辺宿船之図 福田半香 江戸時代後期  
  春江山水図 福田半香 安政5年(1858)  
  花鳥図 小田_川 弘化元年(1844)  
  紅梅鴛鴦図 小田_川 江戸時代後期  
  西園雅集図 山本_谷 文久元年(1861) 個人蔵
  琴鶴自隨之図 山本_谷 慶応3年(1867)  
  秋景山水之図 斎藤香玉 江戸時代後期  
  崋山筆関羽図写 斎藤香玉 江戸時代後期  
  秋景山水図 井上竹逸 元治元年(1864)  
  帰去来 椿華谷 弘化元年(1844)  
  楊柳海棠双雀之図 椿華谷 嘉永元年(1848)  
  牡丹子母猫図 椿華谷 嘉永2年(1849)  
  林和靖図 永村茜山 天保12年(1841) 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)

立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)

上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。

井上竹逸 文化11年(1814)〜明治19年(1886)

名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保10年(1839)から12年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(1798〜1866)に学んだ。12年5月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(1763〜1840)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。

椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)

椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。

永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)

永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。

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作品解説

渡辺崋山 梅花図扇面

落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みすみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。

渡辺崋山 卓文君図

卓文君は、漢の武帝の時代の富豪卓王孫の娘で、美女として有名であった。文人司馬相如とかけ落ちしたが、のち、相如の心変りを怒って「白頭吟」を作った。細い首としなやかな手の動きが柔らかな筆致で、女性らしさを強調している。崋山には数点の卓文君図が知られるが、女性を描く作例として貴重である。

椿椿山 小集図録及び書簡

崋山にゆかりある画人たち(当日、椿山に入門した者もいるが)が集まって画会を楽しむ様子が伝わってくる作品である。この作品には、福田半香宛の書簡が付属している。椿山は福田半香を通じて、この作品を崋山に届けさせ、落款の意見を求めている。意見を求めつつ、蟄居中の崋山に近況報告をして励ましたかったのだろう。

福田半香 春江山水図

遠景には山々が連なり、中景には柳の木々、家、船、橋が描かれ、そして川を隔てた近景には柳の下に桃色に花が咲く木々、二人の馬に乗って会話している人物に傘を持った小僧が馬の後を付いて歩く。薄墨と淡色でさわやかに描かれた春の日のある場面である。
落款は「戊午秋九月寫於岡崎客舎 半香福田佶」。

渡辺崋山 俳画冊

全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771〜1844)の題字「最楽」が添えられている。

各図の俳句
飛込むで月日落つく花乃春      鶯乃身はくれて居てなきにけり
鳶乃輪の中に蠢く田打かな      留守とおもへばくさめする五月あめ
青柳をしらぬ御顔や角大師      河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
穂かきして浮世かなしや夕紅葉    谷川も人は通らず渡る鷹
板の間の釘もひかるや夜のさむみ   竹の根に水さらさらとしぐれけり
紙子着てねぎきる役にあたりけり   それは我師走乃句なりいそげ人
削掛重荷おろせしひとたばこ     吸ものの上を渡るや春の鐘
五左衛門に明日の道問ふ董かな    草花やともすれば人の垣のぞき
夏の月駱駝の小屋のとれしあと    有明や谷川渡る旅からす
行秋や薪一把も庭ふさげ       枯柳乞食のくさめ聞へけり
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行    霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
大雪や鼠ひと声ひるすぎる      大井川に喧嘩もなくてしぐれけり

椿椿山 福田半香像稿

稿は嘉永4年、半香(1804〜1864)48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。横に記された「明四日時」とはメモ書であろうか。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。
渡辺家の菩提寺でもある小石川善雄寺に所蔵される福田半香肖像と稿を比較すると、顔の部分でも耳や髪の表現はさらに描き込みが細かくなる。体の立体感は衣線や彩色がやや荒く、絹本に描かれているが、粉本などの所蔵印として使用される「琢華堂記」と刻された印が右下にあるが、他の印が捺されていないことと、逸話から考えると、正本が完成されなかった可能性もある。この作品の伝来も含めて検討していく必要があろう。崋山が自刃に至る因を作ってしまった半香は、死後、師の菩提寺に自分を葬るよう遺言した。また、「半香翁墓碣銘」と刻した墓標がわりの板碑もある。

斎藤香玉 秋景山水之図

葉に薄い朱が入っていることから紅葉の季節、秋の山水図である。近景になるにつれ濃墨となりその効果で画面に奥行きが生まれている。

井上竹逸 秋景山水図

蛮社の獄以前に渡辺崋山についたが、初め谷文晁につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。その頃の作品である。落款には「甲子晩秋寫於松吟舎竹逸琹士」と読める。「松吟舎」が竹逸の堂号であるかは不明である。嘉永三年には「九霄琴室」という堂号の作品も知られる。川のほとりにたたずむ庵には四人の人が描かれる。はるかに続く川面にはゆったりと浮かぶ帆船が二艘見えている。画面構成も雄大で、その頃の安定した生活を感じさせる。

椿華谷 楊柳海棠双雀図

柳は墨と淡彩でリズミカルに描かれるが、葉の輪郭が強い線で描かれるため、画面全体に硬く感じられる。桃の花と枝の表現は父椿山譲りの描法を受け継いでいる。異なる二種の描き方を同一画面で表現している。崋山には意志的な強い線描が見られるが、椿山から脱却し、より強い自己主張を試みたのであろうか。

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