開催日 | : | 平成27年12月12日(土)〜28年1月31日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室・企画展示室 |
花鳥画は、日本でも昔から愛された画題です。渡辺崋山・椿椿山の画系は崋山の弟子であった椿椿山をはじめとした「崋椿系」と呼ばれる遠洲や三河の画家たちに伝えられました。あわせて同時代の浮世絵版画も展示します。
特別展示室・企画展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
十二支図巻 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
一覧縮図 | 椿椿山 | 文政2・3年(1819・20) | |
琢華堂先生写生冊子 | 椿椿山 | 天保〜嘉永年間 | 個人蔵 |
神釆帖 | 大橋翠石 | 明治40年(1835) | |
桜花之図 | 山下青_ | 昭和14年(1939) | 個人蔵 |
名花十一図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
四季草花図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 |
昆虫書(De Natuurlyke Historie der Insecten) | レーゼル | 1764〜68 | |
秋容野蟀図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 鏑木家寄贈1 |
十二支図帖 | 椿椿山 | 文政年間 | 個人蔵 |
扇面画 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
龍虎双幅 | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
闔家全慶図 | 渡辺崋山 | 文政9年(1826) | 個人蔵 |
痩馬図 | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | |
雪中南天図 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 |
放生図 | 椿椿山・椿華谷 | 天保13年(1842) | |
蔬果之図 | 椿椿山 | 嘉永2年(1849) | |
歳寒図 | 山本_谷 | 天保13年(1842) | |
摸崋山雪芦孤雁図 | 椿華谷 | 天保12年(1841) | |
長春富貴 | 渡辺小華 | 嘉永2年(1849) | |
墨蘭図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
竹ニ軍鶏図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
君子万年之図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
桂花双白図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
名花十友図 | 渡辺小華 | 明治4年(1871) | 個人蔵 |
花篭四友之図 | 渡辺小華 | 明治8年(1875) | |
鶴松竹 | 渡辺小華 | 明治12年(1879) | 個人蔵 |
游魚之図 | 渡辺小華 | 明治11年(1878) | 個人蔵 |
双鵞之図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
蘭竹聯幅 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
蓮池翡翠図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
富貴図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
万年報喜之図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
拒霜花孤鴨図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
桃季山猿図 | 野口幽谷 | 明治11年(1878) | |
溪上水仙花図 | 野口幽谷 | 明治26年(1893) | |
野ばら双鴨之図 | 椿二山 | 明治37年(1904) | |
双羊之図 | 大橋翠石 | 昭和時代前期 | 個人蔵 |
牡丹図 | 山下青_ | 大正4年(1915) | 個人蔵 |
竹に軍鶏図 | 山下青_ | 昭和3年(1928) | 個人蔵 |
藤花図 | 松林雪貞 | 昭和29年(1954) | |
紅紫牡丹燕図 | 渡辺小華 | 明治15年(1882) | 個人蔵 |
水指公子図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
水仙図扇面 | 山下青城 | 昭和時代前期 | |
牡丹図扇面 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
燕語春風扇面 | 長尾華陽 | 明治32年(1899) | |
花画譜 | 椿椿山 | 天保13年(1842) | |
扇面画 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 |
亀の図 | 喜多川歌麿 | 芝村義邦コレクション55 | |
鯉の図 | 喜多川歌麿 | 芝村義邦コレクション56 | |
魚尽し 鯛とせいご | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション424 | |
魚尽し 飛魚 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション425 | |
赤椿と色鳥 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション429 | |
梅と鶯 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション430 | |
椿と文鳥 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション431 | |
雀と桔梗 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション432 | |
鶯と椿 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション433 | |
色鳥 | 歌川広重 | 芝村義邦コレクション434 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 大橋翠石 慶応元年(1865)〜昭和20年(1945)
翠石は、その独特の虎の絵により「虎の翠石」として知られ、その晩年には中央の画壇と何ら関係を持たなかったにも関わらず高い画名を誇った画家。岐阜、大垣に生まれ、幼児から絵を好み、地元の南画家、戸田葆堂について絵の手ほどきを受け、18歳の時に京都に出て一時期椿椿山に師事した天野方壷(1824〜1895)に師事し、のち崋山の二男であった渡辺小華(1835〜1887)に東京で師事して山水花鳥の基礎を身につける。1895年、第4回内国勧業博覧会に「虎図」を出品し、初出品ながら褒状・銀牌を獲得したのを皮切りに、各種展覧会で受賞を重ねている。明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に「猛虎図」を出品し、数多の画家を抑えて日本人画家としてただ1人優賞金牌を受賞。続けてセントルイス万国博覧会(1904)で優賞金牌、日英博覧会(1910)でも金牌を受けるなど、内外の博覧会で受賞を重ねた。 昭和5年(1930)の『日本画家評価見立便覧』(日本絵画研究会)では「特別動物大家」として横山大観・竹内栖鳳に並ぶ評価を受けている。
● 山下青厓 安政5年(1858)〜昭和17年(1942)
現在の浜松市浜北区貴布祢に生まれ、名は伊太郎、字は孝雄、号は17歳で龍渓、30歳で聖崖・青崖、32歳で青p、他に梧竹園、碧雲書屋等と号す。明治20年(1887)に上京し、小華塾に通い、小華の明治宮殿杉戸絵作成を手伝った。渡辺崋山・椿椿山の作品を模写し、浜松郊外の笠井で絵画制作に励んだ。明治28年に第4回内国勧業博覧会に出品した。崋山作品の鑑定家としても活躍した。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展蘭会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。
● 松林雪貞 明治11年(1878)〜昭和44年(1969)
旧白河藩主松林高風の娘として東京に生まれた。松林桂月の妻。名は孝子。野口幽谷に師事し、花鳥画を得意とした。雪貞は幽谷の画塾で同門であった桂月と明治34年(1901)結婚。幽谷についた期間は約2年であったが、崋椿系の描法を後々まで伝えた。結婚後は、展覧会への出品もほとんどせずに、桂月の支援に尽力した。
● 長尾華陽 文政7年(1824)〜大正2年(1913)
浜名郡篠原村馬群に代官藤田権十郎の三男として生まれ、名を正名、字を拙庵、華陽・不休庵と号した。江戸に出て漢学を大橋訥庵に、書を巻菱湖に、画を弘化元年(1844)から椿椿山画塾琢華堂で学ぶ。実兄は代官勤務をしながら、画もし、松湖と号した。江戸から戻り、吉田(現豊橋市)の呉服商奈良屋の長尾家をつぎ、作兵衛を襲名した。廃藩時は士族に列せられ、明治維新後、家業を子に譲り、茶道・画道を主とした生活であった。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会に出品、明治30年頃、神官となり、湊町神明社には20年奉仕した。
● 山下青城 明治17年(1884)〜昭和37年(1962)
浜名郡笠井村に住み、渡辺小華についた山下青pの子。父に絵を学んだ後、上京し、小室翠雲に指示した。崋椿系の鑑定も多い。
● 椿椿山 四季草花図
4枚の絹本作品を額2面に仕立てている。春は薄いピンクの梅と蒲公英、夏はアヤメと鮎、秋もリンドウとススキ、冬は赤く色づいた葉と雀を没骨法とたらし込みで描いている。「椿山椿弼」または「弼」と署し、白文方印「辛酉平弼」印を捺す。詩を添える高泰は豊後国佐伯藩主であった毛利高泰(1815〜1869)であろうか。春には、五言二句「春山多勝事賞翫夜忘帰」が添えられる。意味は、「春の山は楽しいことが多く、帰ることをわすれてしまう。」唐代の詩人・于良史の詩『春山夜月』によるもの。五言二句で「秋色庭蕪上清朝見露華」。夏と冬は、「初夏佳風日」「起載鳥紗帽」で始まる40字のもの。
● 野口幽谷 溪上水仙花
9月に帝室技芸員を拝命し、翌10月にこの作品を日本美術協会展覧会に出品し、銀牌を受け、宮内省御用品となった。霞の流れを全体に漂わせ、水の流れを画面中の左から右へ、また右から左へと動きを連続させると同時に、画面奥から手前に少しずつ大きさが変化する水仙、下側に黄色と白色の密集した水仙を配することで、奥行感を演出している。交差させることで見る者の目線をコントロールしている。花鳥画家として一流の評価を得ていた作家の代表作と言えよう。
● 椿椿山 花画譜
表紙の題箋に「椿山先生花画譜」と記され、「雪鴻」の長円二重廓印が捺されるが、この人物は誰であるかは不明。花ばかりでなく、蟹や昆虫、鳥、海産物も描かれている。末尾に「壬寅晩秋竣計二十五幀弼」とあり、朱文方印の「弼」、白文横長方印「椿山」、白文方印「琢華」が捺される。図によっては、朱文円印「弼」、朱文円印「琢華」などが捺されるが、印の無いものの方が多くある。また、十字ほどの詩を入れたものもあり、絵手本であろうか。