秋の企画展同時開催 愛知県美術館サテライト展示 20世紀日本の素描と版画 〜人物表現を中心に〜

開催日 平成27年10月20日(火)〜12月6日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

愛知県美術館では、20世紀の優れた国内外の作品、20世紀の美術動向を理解する上で役立つ作品を収集することを目的としています。また、木村定三コレクションには、江戸時代の絵画や氏と交流のあった画家たちの作品もあります。「サテライト展示」は、県内の美術館等で、愛知県美術館のコレクションを活用するもので、田原市では平成22年から毎年開催しています。

展示作品リスト

特別展示室
作品名 作者名 年代 材質等/備考
版木 画室 戸張孤雁 制作年不詳 版刻/木
版木 画室/画室 戸張孤雁 制作年不詳 版刻/木
版木 画室/画室 戸張孤雁 制作年不詳 版刻/木
版木 画室/画室 戸張孤雁 制作年不詳 版刻/木
版木 画室/画室 戸張孤雁 制作年不詳 版刻/木
和香子 野田弘志 1983年 紙、鉛筆、木村定三コレクション
かき舟 小泉癸巳男 1923年 木版、紙
不忍の梅雨 小泉癸巳男 1923年 木版、紙
三条大橋 小泉癸巳男 1923年 木版、紙
小泉癸巳男 1923年 木版、紙
小泉癸巳男 1923年 木版、紙
京都三条大橋 橋口五葉 1920年 木版、紙
日本橋 関野凖一郎 1974年 木版、紙
レインボー・ナイト2 靉嘔 1971年 シルクスクリーン、紙
舞台のピエロ 瑛九 1957年 リトグラフ、紙
タエコの朝食 池田満寿夫 1963年 エッチング・ドライポイント、紙
グロキニシア 北川民次 1965年 リトグラフ、紙
不忍池晩秋 石井柏亭 1929年 リトグラフ、紙
風景 中村正義 1948年 水彩、紙
コスチューム 鶴田吾郎 1946年 パステル、紙
機織る女 鶴田吾郎 1935年 コンテ・白チョーク、紙
女優像(フリルのブラウス) 宮本三郎 1955年頃 パステル、紙
人物 中村正義 1966年 鉛筆、パステル、紙
正面の顔1 筧忠治 1930年 インク、紙
御者 戸張孤雁 制作年不詳 鉛筆、紙
雪の日やあれも人の子樽拾ひ 戸張孤雁 制作年不詳 水彩、紙
少女 大沢鉦一郎 1919年 コンテ、紙
少女像 宮脇晴 1922年 鉛筆、紙
群像 北川民次 1957年 リトグラフ、紙
南蛮ぶり 川上澄生 1955年 木版、紙
画室(木版画稿) 戸張孤雁 1919年 木版、紙
遊女図 歌川豊春 18世紀後半 絹本着色、木村定三コレクション

全出品作品は愛知県美術館〔愛知芸術文化センター10階〕(名古屋市東区東桜1-13-2)所蔵です。

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作家解説

靉嘔(あいおう)

昭和6年、茨城県行方郡玉造町(現行方市)に生まれる。本名は飯島孝雄。1950年代、池田満寿夫らと共に瑛九が創設したデモクラート美術家協会に参加し、明るい色彩の油彩画で注目された。デモクラート美術家協会で作家としてのキャリアをスタートし、ニューヨークにわたり、1960年代に音楽家や詩人等のアーティスト集団、フルクサスに参加した。インスタレーションやモチーフに可視光線を重ねる技法の「虹」と呼ばれる作品を生み出した。

池田満寿夫(いけだ ますお)

昭和9年、満州国(現中国東北部の瀋陽)に生まれる。戦後、長野市に引揚げる。洋画家瑛九のすすめにより版画を始め、独学で銅版や木版の技法を修得。1960年第2回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞受賞。1965年ニューヨーク近代美術館で個展と内外で活躍。1966年ベネチア-ビエンナーレで版画大賞。1977年「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞。映画、陶芸などの創作活動もおこなった。平成9年死去。

石井柏亭(いしい はくてい)

明治15年、東京に生まれる。日本画家石井鼎湖の子、彫刻家鶴三の兄。名は満吉。初め父に日本画を、のち浅井忠・中村不折について洋画を学びね東京美術学校に学ぶ。明治43年には渡欧。明治末期には同志数名と近代版画運動の先駆となった「方寸」を創刊。日本水彩画会・二科会・一水会等を主宰。二科会・一水会創立会員。帝国芸術院会員。日本芸術院会員。昭和33年没。

歌川豊春(うたがわ とよはる)

享保20(1735)年生まれ、文化11(1814)年没。豊春は、江戸時代後期の浮世絵界で隆盛した歌川派の開祖。西洋絵画の透視遠近法を取り入れた「浮絵」と呼ばれる風景版画で有名だが、肉筆の美人画にも優れた。門人に豊広、豊国がいる。

瑛九(えいきゅう)

明治43年、宮崎県に生まれる。本名、杉田秀夫。Ei-Qとも自署した。日本美術学校洋画科中退。昭和11年新時代洋画展に加わり、12年自由美術家協会の創立に参加。戦前より抽象作品を始め、フォトデッサンを創始。日本の前衛美術の先駆者の一人。戦後は、版画作品も多く制作した。昭和26年デモクラート美術家協会を結成。評論活動も行なった。昭和35年没。

大沢鉦一郎(おおさわ しょういちろう)

明治26年、愛知県出身。蔵前の東京高等工業学校図案科(現東京工業大学)中退。療養のため、愛知県知多市古見に移住。大正6年宮脇晴と愛美社を結成。8年第6回、9年第7回院展洋画部に入選。9年常滑市へ移住。昭和7年、第10回春陽展に「少女海水浴」が入選。11年、帝展無鑑査。21年第1回日展特選。39年CBC文化賞受賞。48年没。

筧忠治(かけい ちゅうじ)

明治41年、一宮市生まれ、高等小学校卒業後、愛知県測候所に勤務傍ら、ほぼ独学で絵を描き続けた。10代の頃から晩年までひたすら自己を描き続け、「自画像の画家」と呼ばれている。大正13年松下春雄の誘いを受け、サンサシオン自由洋画研究所に通う。14年、サンサシオンを辞め、鈴木不知の名古屋洋画研究所に通う。昭和2年、この頃からペンによる自画像を制作し始める。24年、第3回中部日本美術展。25年、第36回光風会展に入選。翌年以降は、公募団体展に不出品。第4回中部日本美術展。43年、名古屋洋画研究所で学んだ仲間たちと美術グループ・独潮会を結成、第1回展開催。45年、初個展(名古屋丸善ギャラリー)開催。平成13年、名古屋市芸術賞芸術特賞受賞。14年円空大賞展。平成16年没。

川上澄生(かわかみ すみお)

明治28年、横浜市に生まれ、間もなく東京の青山に移る。大正元年、最初の木版画を制作。アメリカで缶詰工場の人夫として働いたこともある。帰国後、旧制宇都宮中学校の英語教師となり、本格的に木版画を始める。長崎南蛮風俗、明治開化風俗に惹かれ、素朴な彫りと、懐古的な詩情に満ち、独自なプリミティブな作品を生み出すこととなった。彼の版画は、すべての工程を一人で行う創作版画である。国画会会員。栃木県鹿沼市に川上澄生美術館がある。昭和47年没。

北川民次(きたがわ たみじ)

明治27年、静岡県に生まれる。早稲田大学を中退してニューヨークに渡り、アート・スチューデンツ・リーグに学ぶ。大正12年メキシコに移り、サンカルロス美術学校を卒業。革命後の美術運動に参加してシケイロス、リベラ、オロスコと交友する。昭和11年帰国し、翌年二科展に『タスコの祭日』を出品し、会員となる。第二次世界大戦後は、創造美育協会の創立に参加。第6回現代日本美術展に『哺育(ほいく)』を出品して優秀賞を受ける。力強く明快な具象作風を示し、版画作品も多い。平成元年、愛知県瀬戸市で死去。

小泉癸巳男(こいずみ きしお)

明治26年、静岡県に生まれる。42年に上京し、日本水彩画会研究所に入り、戸張孤雁、織田一磨らに師事。ついで堀越貫一に木版彫刻をならい,大正7年日本創作版画協会の創立に参加した。大正11年、大河内信敬や早目泰とともに雑誌『君と僕』を創刊。13年、『木版画の彫り方と刷り方』を出版。昭和4年、春陽会版画部に出品するとともに、旭正秀らと『版画』を創刊する。昭和20年没。

関野凖一郎(せきの じゅんいちろう)

大正3年、青森県青森市に生まれる。旧制青森中学校在学中、版画に関心を持ち、版画同人誌に参加。中学卒業の頃から、今純三の許に通い、日本版画協会展や地元の東奥美術展に入選を果たす。昭和13年には日本版画協会会員に推挙され、翌年画家として身を立てることを決意し上京。創作版画の中心的存在であった恩地孝四郎らに師事。日本版画協会, 国画会に参加。リュブリャナなどの国際版画展で受賞。昭和50年芸術選奨。「東海道五十三次」シリーズはライフワークとなった。昭和63年没。

鶴田吾郎(つるた ごろう)

明治23年、東京牛込区に生まれる。父要太郎は農家の出身だが、宮内省大膳寮に勤めていた。29年の父の死に始まり、母、姉と多くの肉親を少年期までに失った鶴田はやがて画家を志すようになる。38年に倉田白洋に学び、翌年姉達の援助をうけて白馬会研究所に入る。同期には中原悌二郎、高野正哉等がおり、少し遅れて中村彝が入ってきた。翌年には中原、中村とともに太平洋画会研究所に移る。次の年、川端龍子と知り合い、川端とも長い交友が始まる。大正元年から3年間程京城日報新聞社などに勤務して記者として活動。6年、ロシア語を学んだ後に朝鮮、満州、シベリアを放浪する。9年3月に帰国した鶴田は中村彝のアトリエの近くに住み、同年の秋に、盲目のロシアの詩人エロシェンコをモデルにして、その肖像を中村彝と競作した。両作品は第2回帝展に出品され、鶴田にとってはこれが初入選であったが、彝の作品は絶賛され、彝の代表作となった。13年、その中村彝の最期を看とった鶴田は、葬儀から遺品の整理、遺作展の開催、画集、遺稿集の発刊などに尽力する。その後は再び写生の旅にもどり、ソビエト、北欧、ヨーロッパなど世界の各国を放浪した後、昭和44年東京にて死去。

戸張孤雁(とばり こがん)

明治15年、東京日本橋に志村久蔵の長男として生まれた。本名は亀吉。後に母方の家を継ぎ戸張と名乗る。青年期には苦学して渡米、 荻原守衛の跡をついだ彫刻家であり、創作版画の草分けの一人であった。1910年代に「孤雁新東錦絵会」を創設、自作の版画の頒布会を開催し、浮世絵の技法による新版画も残している。洋風挿絵の先駆者としても知られる。昭和2年没。

中村正義(なかむら まさよし)

大正13年、豊橋市に生まれる。豊橋市立商業学校を中退し、夏目太果、畔柳栄らに日本画を学ぶ。昭和21年より中村岳陵に師事し、蒼野社に入門し、日展や院展に出品。昭和24年には、一采社同人となる。日展では、作品が2回特選となり、昭和35年には、審査員も務めるなど、その前途を期待されたが、翌年、日展を退会。これを機会に伝統的な形象を否定し、ボンドや蛍光塗料を用いた激しい作風へと変化した。以後、川崎市に移住すると、現代日本美術展、日本国際美術展などに出品した。昭和49年には、星野眞吾らと从会を結成。その晩年は、病魔と闘いながら作品を描き続けた。昭和52年、52歳の若さで逝去。回顧展が豊橋市美術博物館や神奈川県立近代美術館などで開催されている。昭和63年、川崎市の自宅に中村正義の美術館が開館している。

野田弘志(のだ ひろし)

昭和11年、韓国で生まれ、終戦の年に帰国して広島県福山市や後に豊橋市で過ごした。この頃からデッサンや油彩画をはじめ、上京後は阿佐ヶ谷美術学園洋画研究所に通うかたわら、本格的に油彩画に取り組む。東京芸術大学に入学し、在学中に白日会で賞を受賞するなど頭角をあわらし、卒業後はイラストレーターとなったが、白日会、安井賞展などで作品の発表を続けた。昭和47年からは制作活動に専念し、黒の時代は1970年代で終わりを告げ、1980年代になると金箔を背景とした華やかな作品が描かれた。昭和58年には朝日新聞連載小説・加賀乙彦作『湿原』の挿絵を手がけ、その丹念に描かれた 鉛筆画で注目を集めた。平成2年からは「TOKIZIKU(非時)」という連作が開始され、近年は「THE」シリーズに取り組んだ。

橋口五葉(はしぐち ごよう)

明治14年、鹿児島に生まれた。本名、清。日本画を橋本雅邦に師事したが、東京美術学校西洋画科卒業。白馬会で洋画を学んだ。夏目漱石・泉鏡花・永井荷風らの本も装丁した。明治44年三越の美人画ポスター応募、入賞。大正4年以降は独自の近代浮世絵風美人画・風景画などの独特の木版画を制作。大正10年没。

宮本三郎(みやもと さぶろう)

明治38年、石川県に生まれた。川端画学校に学び、藤島武二・黒田重太郎・前田寛治・安井曽太郎に師事する。昭和11年二科会会員となる。13〜14年パリのアカデミー・ランソンに学ぶほか、ヨーロッパ各地を巡遊。太平洋戦争に従軍画家として赴き、帝国芸術院賞を受ける。二紀会理事長・日本美術家連盟理事長。芸術院会員。多摩美大・金沢美術工芸大学教授。昭和49年没。

宮脇晴(みやわき はる)

明治35年、名古屋市生まれ、大正4年、肺結核により名古屋市立第一商業学校を中退、療養のため知多市に転居。この頃、大澤鉦一郎に師事する。6年、大澤鉦一郎、森馨之助、鵜城繁、藤井外喜雄、山田睦三郎らと愛美社を結成。8年、愛美社油絵素描展覧会(第1回愛美社展)。9年、名古屋市立工芸学校図案科卒業、昭和3年教諭。第2回帝展に初入選。8年、第11回春陽展に初入選。22年会友、28年会員。9年、中部地区の春陽会出品者らと踏青会を結成。18年、第6回新文展で特選受賞。24年、大澤鉦一郎らと中部春陽会を結成。28年、大澤鉦一郎らと名古屋春陽会研究所を開設。35年、南山大学講師。昭和60年没。

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