開催日 | : | 平成27年9月5日(土)〜10月18日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山の人物画は、写実の追究の観点から描かれ、東洋の伝統的画法に西洋画法を組み込んだその作品群は、19世紀に到達した日本肖像画技法の大成として注目される。その肖像画技法を唯一引き継いだ作家が椿椿山である。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
俳人肖像真蹟 芭蕉 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835)頃 | 個人蔵 |
俳人肖像真蹟 秋色 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835)頃 | 個人蔵 |
俳人肖像真蹟 其角 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835)頃 | 個人蔵 |
俳人肖像真蹟 嵐雪 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835)頃 | 個人蔵 |
俳人肖像真蹟 許六 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835)頃 | 個人蔵 |
俳人肖像真蹟 支考 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835)頃 | 個人蔵 |
俳人肖像真蹟 | 渡辺崋山 | 明治37年(1904) | 芝村義邦コレクション |
竹渓六逸之図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
渡辺巴洲像画稿 | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | 重要文化財 |
渡辺巴洲像画稿 五図 | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | 重要文化財 |
御母堂栄之像画稿 | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | 田原市指定文化財 |
岩本幸像 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | |
竹中元真像 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 個人蔵 |
西園雅集之図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 個人蔵 |
ジャンヌダーク像 | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
ヒポクラテス像(複) | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | 重要美術品、原本は九州国立博物館蔵 |
鷹見泉石像(複) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 国宝、原本は東京国立博物館蔵 |
林大学頭述斎肖像稿 | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
渡辺崋山像 | 椿椿山 | 嘉永6年(1853) | 重要文化財 |
崋山先生令室たか像稿 | 椿椿山 | 嘉永年間 | 田原市指定文化財 |
崋山先生令室たか坐像画稿 | 椿椿山 | 嘉永年間 | 田原市指定文化財 |
崋山先生令室たか之像画稿 | 椿椿山 | 嘉永年間 | 田原市指定文化財 |
平山子龍像 | 椿椿山 | 天保4年(1833) | |
椿椿山肖像図 | 椿二山 | 明治時代 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展覧会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
● 俳人肖像真蹟 天保6年(1835)頃・明治37年(1904)
芭蕉・支考・其角・許六・嵐雪・秋色の六俳人の肖像版画である。版元は和泉屋市兵衛で、天保六年頃の泉市版と明治の再版のものがある。屏風の貼り交ぜ用に描いた崋山の絵を和泉屋が無断で版をおこし、評判になったが、崋山の抗議で絶版となった逸話がある。同じ頃の佐野屋喜兵衛版も存在するので逸話には疑問を残す。陰影法を使い立体感を表現した作と秋色のように概念化された浮世絵風のものが混ざる。
● 渡辺崋山 林大学頭述斎肖像稿 天保年間
林述斎(1768〜1841)は名を衡(たいら)といい、美濃国岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の子で、和漢の典籍に通じ、寛政5年(1793)に26歳で幕府の命によって林家を継いだ。林家の私塾であった湯島の聖堂を幕府の学問所「昌平黌」とした。松崎慊堂・佐藤一斎を擁し、学徒の養成に努め、林家の中興と称された。この肖像では鬢に白髪が混じり、林家の紋をつけ、ふくよかなその姿は六十歳代と思われる。述斎の肖像画は伝谷文晁をはじめ数点が知られている。崋山は文政年間に松崎慊堂(関東大震災で焼失)・佐藤一斎の肖像画を描いている。この林述斎肖像稿も依頼画の下書きと考えられるものであるが、天保10年5月に蛮社の獄で崋山が捕えられた際、『慊堂日暦』同年5月28日の条によれば、「林門ハ崋山ノ籍ヲケズルコトヲ命ズ」とあり、完成画も廃棄されたのかもしれない。光があたる顔の正面には明るい肌色を使用し、顔の側面と首にやや濃い色を塗ることにより、立体感を描き出す。崋山が西洋画から取り入れた陰影技法が駆使されている。正面を見据えたその眼差しは、大名家出身の学者であり、そのゆるぎない自信と剛直な性格を充分に表現している。この作品は、慶応義塾学長も務めた小泉信三(1888〜1966)の旧蔵で、箱書は帝展委員の田中頼璋(1868〜1940)が大正2年(1913)に書いている。昭和25年(1950)東京国立博物館の南画名作展に松林桂月の推選により出品されたとされるが、残念ながら目録には掲載されていない。一時タイ国に持ち出されたが、幸いに日本へ持ち帰られた。
● 椿椿山 渡辺たか像稿について 嘉永年間
右の図には、上に「第三 筋少ク」、左の図には「第四 耳大キク」「トカル 口ハヘノ字ナリ」「此スシ無」などと記してある。画左に「九月十一日 弼敬寫」とあり、「弼」の朱文円印を捺す。渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、渡辺家に伝来した可能性がある。昭和十年代に撮影された写真の題には「顯妣教了君肖像」と記される。