開催日 | : | 平成27年7月18日(土)〜8月30日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
「写意」を重視した文人画家は、眼で見たものではなく、心象風景としての画面構成を良いとする考え方があった。渡辺崋山はどこを描いているのか、わからなくなってしまっている山水画、これは「空疎の極み」であると言っている。崋山の山水画には実際に見ていた風景が盛り込まれていたに違いない。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
毛武游記図巻(複) | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | 原本は常葉美術館蔵 |
諸名家書画巻 | 渡辺崋山ほか | 天保6年(1835) | |
画学斎図藁 | 谷文晁 | 文化9年(1812) | |
参海雑志(複) | 渡辺崋山 | 大正9年(1920) | 原本は天保4年(1833) |
桃家春帖 | 太白堂孤月 | 天保4年(1833) | 渡辺崋山挿絵 |
桃家春帖 | 太白堂孤月 | 天保9年(1838) | 渡辺崋山挿絵 |
秋山水 | 加藤文麗 | 江戸時代中期 | |
松渓水村図 | 谷文晁 | 寛政年間 | |
驟雨帰魚図 | 谷文晁 | 寛政8年(1796) | |
冥加団扇 | 中井蕉園 | 寛政8年(1796) | |
甲州望岳図 | 谷文晁 | 寛政12年(1800) | |
李白観瀑図 | 谷文晁 | 文化年間 | |
秋景山水図(倣藍瑛山水図) | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
春秋山水図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 田原市指定文化財 |
山水図屏風 | 平井顕斎 福田半香 |
弘化2年(1845 弘化3年(1846) |
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千山万水図 | 平井顕斎 | 嘉永3年(1850) | |
江戸真景二図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | |
旭日浴波図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | |
両国橋納涼之図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 田原市指定文化財 |
于公高門図(複) | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | 重要文化財、原本は個人蔵 |
山水図 | 椿椿山 | 天保14年(1843) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。
● 太白堂孤月 寛政元年(1789)〜明治5年(1872)
五代太白堂、山口桃隣の弟子。姓は江口、文政4年(1821)、太白堂を継ぐ。天保2年(1831)9月、相州厚木に赴くにあたり、青山に住む孤月を訪ねている。翌10月、毛武へ旅立つ際には、孤月の紹介状をもらって行く。渡辺崋山の挿画による歳旦帖「桃家春帖」の刊行を長く続けた。挿画は崋山が蛮社の獄で捕えられると、椿椿山に、椿山が亡くなると、渡辺小華に引き継がれた。
● 加藤文麗 宝永3年(1706)〜天明2年(1782)
伊予大洲藩主加藤泰恒(一六五七〜一七一五)の六男として生まれ、名を泰都、通称を織之助、予斎とも号す。幕府の西丸小姓組番頭をつとめた。画を狩野周信に学び、谷文晁の最初の師として知られる。
● 平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)
遠江国榛原郡に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。
● 福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 渡辺崋山 参海雑志(複製)
渡辺崋山が天保4年(1832)に田原から渥美半島を西進し、伊良湖、神島を旅した記録をまとめたものである。「伊良虞人」「神島船をあぐる図」など当時の漁民風俗を記録したものとしても貴重である。関東大震災で焼失したが、大正9年(1920)に稀書複製会から複製本が刊行されている。崋山会報創刊号・第二号に口語訳が掲載される。
● 渡辺崋山 毛武游記図巻(複製)
崋山が毛武地方を訪ねたのは、天保2年(1831)10月から11月のことであった。10月11日に江戸を立ち、中山道を通り、妹の嫁ぎ先である桐生岩本家を訪ねた際の記録は『毛武游記』(重要美術品・個人蔵)として知られる。この図巻は実景に則して、広大な風景を鳥瞰的に描いたもので、細い線描のみで描かれる。 第一図には、三輪神社(桐生市宮本町にある美和神社)と観音を祀る光明寺、第二図で、人家が街道沿いに連なる桐生の町並みが描かれる。第三図は、地元の詩人佐羽淡斎が桐生の小倉山に建てた十山亭から見た風景で、山の上に「赤城、三國、榛名、伊香保、浅間、甲州、武」と山の名を書き入れている。第四図、第五図は要害山上から見た風景で、第六図には「高津戸渡(現大間々町)」と記している。第七図に渡瀬川上流の風景、第八図には山麓の街道に建つ人家、第九図に道了権現に通ずる坂道の階段とその下の茶店、第十図には大間々町の街道周辺に集中する町並みが俯瞰的に描写されている。第十一図は下野の山を遠望したものであろう。第十三図に上野国新田郡の生品明神を祀る「生品森」、第十四図に「赤岩、吾妻山、小倉」とあり、渡良瀬川の渡し船場の赤岩橋、山頂が村松村(現桐生市宮本町)・東小倉村(現桐生市川内町)にまたがる標高481mの吾妻山が描かれる。第十五図の「前小屋渡」は上野国新田郡前小屋村(現群馬県新田郡尾島町前小屋)の渡しである。図巻最終図の第十六図は武蔵国榛沢郡高島村(現深谷市高島)の豪農で、江戸の蘭学塾芝蘭堂で学んだ伊丹新左衛門の屋敷から眺望したと思われる風景が描かれる。
● 谷文晁 松渓水村図
右手前に上部からまるで覆いかぶさるように、大きく切り立ったような絶壁を描き、画の中心に絶壁から張り出すように描かれた樹木越しに上流の家並みを望むことができる。小画面でありながら奥行感を感じさせることに成功している。
● 谷文晁 驟雨帰漁図
文晁の寛政年間(1789〜1800)は白河藩主松平定信付の御用絵師となり、公務に多忙を極めた時代であった。真景図の代表作である『公余探勝図』(重要文化財・東京国立博物館蔵)も寛政五年の作である。寛政時代も後半にいたり、水墨調の作品でも墨調中心と筆調中心に、さらに軟質なものと硬質なものに分けられるが、極端に相反する系統の作品群に分かれていく傾向がある。この作品は文化年間後半から文政年間に多数登場する墨調の粗荒なものへ向かう過渡期の作品ととらえたい。文晁は定信の命により前年から各地の古器旧物や絵画の摸写を行い、この年、門人喜多武清(1776〜1858)を同行して西遊し、京阪に滞在した。落款に「丙辰仲秋寫於菊堂席上 文晁」とあり、寛政8年8月であった。この作品には古美術品の調査依頼をし、立ち会った儒学者中井履軒(1732〜1817)の甥中井蕉園(竹山の子、1768〜1803)の添幅と書簡が付属しており、関西訪問時に描かれたことがわかる貴重なものである。
● 谷文晁 甲州望岳図
落款に「庚申二月廿二日寫 文晁」とあり、寛政12年(1800)の作品であることがわかる。この年、関西へ旅をしている。富士山を多く描く文晁であるが、山が前景に描かれ、箱書にあるように「甲州」と考えれば、中山道を旅した際の図であろう。文晁は堂号を「写山楼」と号し、清宮秀堅著『雲煙所見略伝』に書かれるように、富士山を好んで描いた。描かれる富士山の頂上は、他作品に多くあるように冠雪している。文晁38歳の作である。
● 谷文晁 李白観瀑図
李白(701〜762)は、唐の詩人で、四川の人。その母が太白星を夢見て生んだので太白を字とした。酒を好み、奇行が多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に関係して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝えられる。杜甫と共に並び賞された詩人。李白が瀑布を見て、詩想を練っている様子を描いている。滝を見上げる人物を描く作品には「高士観瀑図」と題されるものもあるが、従者を横に配しているため、「李白観瀑図」と考えられる。
落款の「文晁」の字から文化年間(1804〜1818)で、文化4年から5年頃の作例と考えられる。墨色の諧調が増殖していくと、のちの烏文晁時代のあふれるばかりの躍動感ある作品となる。
● 渡辺崋山 秋景山水図(倣藍瑛山水図)
画面右上に「倣藍瑛法王蒙図 華山静」とある。明末期の画家藍瑛(1585〜1664?)が王蒙(1308〜1385、元末明初の画家で、元末四大家の一人。王維・董源・巨然ら古名家の法を学び、構成力のある独自の山水画を作る。)の筆法に法って描いた山水図を崋山が写して描いたものである。藍瑛の描いた秋景山水図としては静嘉堂文庫美術館に現存している重要文化財がよく知られている。この作品の谷文晁による摸本も同美術館に所蔵されている。藍瑛は明代に盛んになった折派を統合し、さらに過去の諸大家の筆法を整理した。18世紀以降の谷文晁一派にこれらの藍瑛作品は積極的に受容されている。原本を見ることはかなわぬが、荒々しく感じられるこの作品も若き日の崋山が自らの感じたままを眼前の紙本に力強く表現した勢いを見る者に感じさせてくれる。
● 渡辺崋山 春秋山水図
右幅にあたる青緑の春景と考えられる図の落款は「倣劉松年之意 崋山外史寫」とあり、左幅には「倣王雪谷之意 甲申小春上浣三日於寫全楽堂中 崋山外史」とある。「甲申」は文政7年(1824)にあたるが、落款の書体から見ると、天保年間の作と考えたい。
王石谷(1632〜1717)は王翬といい、清の時代の人で、惲南田(1633〜1690)とも親交を結び、歴代の画の長所を取り、南北二宗を集大成したとも言われる。劉松年(生没年不詳)は南宋の時代の人で、人物山水に巧みであった。右幅は近景左側に垂直に立ち上がった樹木を集中して描き、画面右からは切り立った山崖を描く。奥に向かって積み重ねるように描かれる遠山、そのモティーフはいずれも縦方向の画面構成である。それに対して左幅は横に広がった柳、ゆったりと流れる川、点在する家屋の屋根、門などは横線を基調にして描かれている。原本の存在があるのであろうか。崋山の隅々まで行き渡った緻密な筆使いは完成された構成力を感じさせる。
● 平井顕斎・福田半香 山水図屏風
半香と顕斎は、崋山のもとで一緒に学んだ仲である。その二人が技法を凝らし色彩を楽しんで描いた屏風である。
半香の鍾山図は南京城外の紫金山とも崑崙山とも考えられる。高山の麓に雲煙がたちこめ流れている。その中に高閣楼が姿をみせ、神秘的な雰囲気を醸し出している。
顕斎の嵩岳は潤いのある墨で豊かに描かれている。山水画を最も得意とした顕斎の技がさえる作品ではなかろうか。嵩岳は五岳の中岳、河南省登封県の北にある名山である。
顕斎の燕磯は燕子磯ともいい、江蘇省江寧県北の観音山にある。山上に石があり、其の形が飛燕のようであるからこの名がついた。観光地であるのか、崖の上の平地に柵が施してある。
半香の蛾眉積雪の蛾眉山とは、中国四川省にある古来より普賢菩薩示現の霊場とされている山である。北宋の頃から山中に寺院の建立が行われた地である。その修験者の道場である山の険しさ、雪深さに画をみた人は厳かな心持ちがするであろう。
● 渡辺崋山 旭日浴波図
この図、明治19年5月、東京新富座にて九代目團十郎が、左團次と共に崋山長英を主人公とした芝居「夢物語蘆生容画(ゆめものがたりろせいのすがたえ)」を演じた際、團十郎の申出で、毎日その舞台裏に掲げた。そして、毎日、この図に向かい、扇子を二本づつ描いたと言われている。波は荒く描かれている。
● 渡辺崋山 両国橋納涼之図 江戸時代後期
両国橋は隅田川に架かる橋で、現在の東京都中央区東日本橋二丁目と墨田区両国一丁目とを連絡する。寛文元年(1661)完成。現在の長さ 162メートル。江戸時代から川開きの花火の名所。「崋山」の号を使用しており、30歳代後半の作品と考えられる。「一掃百態図」「両国橋図稿」から続く俳画風の作品で、人物描写により円熟味が出ている。