平常展 田原藩

開催日 平成27年4月11日(土)〜5月24日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

田原藩日記第11巻(文政9年から)が刊行されました。田原藩では文政10年に藩主康明が亡くなり、姫路藩酒井家から養子を迎えます。

展示作品リスト

企画展示室2
資料名 作者名 年代 備考(表記なしは田原市博物館蔵)
宣旨 康明 任備前守   文政6年(1823) 宣旨類22
康明 叙従五位下     宣旨類23
七字書 徳者堪器後万歳 三宅康明 江戸時代  
十字書 鳥啼蝶舞千太竹万花薮 三宅康明 江戸時代 個人蔵

藩の図書館

資料名 作者名 年代 備考(表記なしは田原市博物館蔵)
三河後風土記     市指定文化財、御納戸書籍97
参河徳川歴代     市指定文化財、御納戸書籍114
柳営秘鑑     市指定文化財、御納戸書籍129

田原藩日記

資料名 作者名 年代 備考(表記なしは田原市博物館蔵)
大坂在番中手扣   文政8年(1825) 市指定文化財、田原藩日記253付
御祐筆部屋日記   文政9年(1826) 市指定文化財、田原藩日記254
御玄関留帳   文政9年(1826) 市指定文化財、田原藩日記255
御用方日記   文政9年(1826) 市指定文化財、田原藩日記256
御用方日記   文政10年(1827) 市指定文化財、田原藩日記257
御祐筆部屋日記   文政10年(1827) 市指定文化財、田原藩日記258
御玄関置帳   文政10年(1827) 市指定文化財、田原藩日記259
御玄関置帳   文政11年(1828) 市指定文化財、田原藩日記260
内用留   文政11年(1828) 市指定文化財、田原藩日記260付
御用方日記   文政11年(1828) 市指定文化財、田原藩日記261
御祐筆部屋日記   文政11年(1828) 市指定文化財、田原藩日記262
御玄関留帳   文政12年(1829) 市指定文化財、田原藩日記263
御用方日記   文政12年(1829) 市指定文化財、田原藩日記264
参勤御勤書   文政12年(1829) 市指定文化財、田原藩日記264付
御玄関置帳   文政13年(1830) 市指定文化財、田原藩日記265
御用方日記   文政13年(1830) 市指定文化財、田原藩日記266
御勤向手扣写   文政13年(1830) 市指定文化財、田原藩日記266付

殿様の文房具

資料名 作者名 年代 備考(表記なしは田原市博物館蔵)
三宅家家紋入硯箱   江戸時代  
三宅家家紋入料紙箱   江戸時代  

幕府の役職につく

資料名 作者名 年代 備考(表記なしは田原市博物館蔵)
日光御祭礼奉行手扣   寛政9年(1797) 藩関係文書66
日光御祭礼奉行手扣 三宅備前守   寛政9年(1797) 藩関係文書67
日光祭礼奉行時拝領かわらけ   文政13年(1830) 巴江神社蔵
日光御祭礼奉行御勤一件下帳   文政13年(1830) 藩関係文書90
日光御祭礼奉行御勤之節之御手留写   文政13年(1830) 藩関係文書91
日光道中行列帳     藩関係文書536
日光東照宮祭典行装     藩関係文書547
和田倉門番心得問合条々   文政〜天保12年(1841) 藩関係文書92
中秋歩月五言律詩 渡辺崋山 文政2年(1819)  
田原藩奏者番御手留   江戸時代後期 市指定文化財
田原藩奏者番御自留   江戸時代後期 市指定文化財

藩の図書館 2

資料名 作者名 年代 備考(表記なしは田原市博物館蔵)
具足着様次第     市指定文化財、御納戸書籍176
主図合結記     藩関係文書624
大和名所図会 秋里籬島 寛政3年(1791) 市指定文化財、御納戸書籍205
和泉名所図会 秋里籬島 寛政8年(1796) 市指定文化財、御納戸書籍204
河内名所図会 秋里籬島 享和元年(1801) 市指定文化財、御納戸書籍203
摂津名所図会 秋里籬島 寛政8年(1796) 市指定文化財、御納戸書籍202
毛槍(御伊達道具)   江戸時代  
毛槍(御道中馬印)   江戸時代  
歴代田原城主表      

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

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資料解説

宣旨

天皇・太政官の命令を伝達する文書で、朝廷が出す文書の形態の一つ。天皇が正式に下す文書は詔勅だが、複雑な手続きが伴うために、簡略化するために一官僚である弁官・史が作成した文書を当事者に発給した。弁官・史の署名しかないにも関わらず天皇の権威が伴う形式のため、幕末期に朝廷が急激に力を持った際には偽勅が乱発されることとなった。

三河後風土記

近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書。徳川氏の祖とされる清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。

柳営秘鑑

江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例<武家方の法規などを記した書物。三つ葉葵紋の由来、扇の馬印の由来、譜代の列(安祥譜代、岡崎譜代、駿河譜代など)等が記載されている。書名にある柳営とは、幕府、将軍、将軍家を指す用語である。ただし内容は江戸時代を通してのものではなく、享保期中心に記載されている。

三宅家家紋入硯箱・料紙箱

三宅家の輪宝と児島の「児」の紋が施される。

日光祭礼奉行

徳川家康を祀る日光東照宮に、毎年4月、9月の17日に行われる祭礼を執行する責任者として、幕府から任命された奉行。家康の命日に行われる4月祭礼では2名、9月祭礼には1名が任命された。一万石クラスの譜代大名が任命され、徳川将軍の代参として。神輿渡御の際、神輿のお供として、神輿の前を進む。田原藩三宅家は文政13年に康直が任命され、渡辺崋山が随行した際、全楽堂日録(愛知県指定文化財)の中で日光や道中の風景を描いている。

中秋歩月五言律詩

「俗吏難與意。孤行却自憐。松林黒于墨。江水白於天。樓遠唯看燭。城高半帯雲。不知今夜月。偏照綺羅莚。 中秋歩月 于時在和田倉官舎 登」とある。読みは、「俗吏意を與にし難く。孤行却って自ら憐れむ。松林は黒より墨く。江水は天よりも白し。樓は遠く唯燭を看る。城は高く半ば雲を帯ぶ。知らず今夜の月。偏に綺羅の莚を照らすを。 中秋の月に歩む 時に和田倉官舎に在り 登」である。
文政2年(1819)田原藩に江戸城和田倉門(現在の東京駅丸の内口から皇居へ向かってまっすぐ行った位置にあります)の改築加役が命ぜられた。中秋の名月、当時は十一代将軍家斉の時世で、江戸城では夜には宴を催し、ろうそくの光が夜空を染めていた。崋山は和田倉門改築の監督を六月から勤め、八月に官舎で読んだものである。工事は文政6年まで続けられ、田原藩でも改築費用捻出のため、借金と藩士の引米をしていた。意味は、「眼前の仕事に汲々としている官吏たちは天下国家のことを思うことはむずかしい。自分は下級武士としてのこの身のあわれさを思う。中秋の名月が照る下で、江戸城の周りをめぐる堀端の松林は墨よりも黒々としている。堀の水が月の光を映して天空の色よりも明るく輝いている。遠くに望み見る江戸城の高楼には、長夜の宴のための明るく耀く燈火が見え、城は半ば雲を帯びたように高くそびえ、将軍は藩の下級武士の苦労や悩みなどは知らぬように、遠く高くかけ離れた雲の上の存在である、耀く今夜の月がただ綺羅を尽くした高楼の宴席だけを明るく照らしていることを将軍やその宴席にいる者たちは知ってはいない」と表現をぼかしてはいるが、幕藩体制への憤りを詠み込んだものである。

田原藩奏者番御手留・田原藩奏者番御自留

江戸時代には、譜代大名は老中・若年寄等の幕府の役職に就任し、幕府の政治を担当した。奏者番はこうした役職の一つで、江戸城の殿中において武家関係の典礼の執行を担当した。20 人余りの譜代大名が同時に任命され、交代制で江戸城に登城してその役目を務めた。譜代大名たちは奏者番を振り出しに、寺社奉行・大坂城代・京都所司代などの重要な職務を担った。奏者番はその役職の性質上、藩主には江戸城内の将軍や諸大名のいる前で儀礼を滞りなく進めるための相応の知識が必要となる。このため、藩士が事前調査や他の奏者番への連絡、書記などの役割でサポートした。「田原藩奏者番御手留」は11 代藩主・三宅康直(1811〜1893)が天保12 年(1841年)から嘉永2 年(1849 年)にかけて奏者番を務めた際に、主に田原藩士らによってまとめられた資料群である。桐のタンスの引き出しには、折本状にまとめられた覚書(手留)が整然と収納されていた。大きなタンス(御手留)には、奏者番を務めた各大名家から集約された殿中儀礼が、小さなタンス(御自留)には実際に康直が奏者番を務めた際の記録が1案件1 枚でまとめられています。こういった奏者番資料の収集や整理の手法は他の大名などでも行われており、群馬県の館林市立図書館秋元文庫(館林藩秋元家資料)には同様の手留が同様のタンスに保管されている。

大和名所図会

『大和名所図会』は『都名所図会』・『拾遺都名所図会』の成功を受けて、秋里籬島が編纂した3番目の名所図会である。神社仏閣の鳥瞰図や当世風俗を描いた図に交じり、わが国の古典や伝説に取材した絵がしばしば見られる。

摂津名所図会

摂津名所図会は、まず後部となる七〜九巻(三巻四冊)を寛政8年(1796)に発行し、2年後の寛政10年(1798)に前部となる一〜六巻(六巻八冊)を発行した。これを合わせて九巻十二冊本となる。

和泉名所図会

凡例に、「一、此書は摂河泉三州の内なり。さきに、山城、大和を著す。於是、五畿内名所圖會全部と成。」と記しているが、実際には、この5年後、『河内名所図会』が刊行される。

河内名所図会

大和・摂津・和泉・河内の四種の名所図会は、田原藩御納戸書籍として伝わったもので、田原の藩主三宅家は大坂青屋口加番を6回、同雁木坂加番を2回つとめた。大坂城の加番の際には、これらの名所図会も役に立ったのだろう。

田原藩日記

田原藩主・三宅氏に仕えた武士たちが藩政の記録や日々の事件などを書き綴っていったもの。三宅家が田原藩主となった寛文年間から大正時代のものまでがあり、田原市指定文化財として田原市博物館に収蔵されている。現在これらの資料を読み解き、活字化する作業を行っている。この作業は1981年に始まり、中断もあったが、現在も続いている。今年、文政年間後半が第11巻として発刊された。

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