平常展 崋山十哲

開催日 平成27年2月7日(土)〜4月5日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山の代表的な弟子は「崋山十哲」と呼ばれます。江戸の武士やその子、遠州出身の人達です。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  十二支図巻 渡辺崋山 江戸時代後期  
  日光八勝図 立原春沙 江戸時代後期  
  過眼録 二十七 椿椿山 天保10年(1838)  
  過眼録 二十八 椿椿山 天保11年(1839)  
  莆川縮図 小田莆川 江戸時代後期  
  客座縮図  小田莆川 弘化3年(1846)  
  金子健四郎宛書簡 渡辺崋山 天保12年(1841)  
  琢華堂画譜 椿椿山 天保14年(1843)  
  墨竹之図 渡辺崋山 文政年間  
  漢高祖見酈食其図 渡辺崋山 天保2年(1831)  
  八仙人之図 渡辺崋山 天保6年(1835)  
  秋柳翠鳥図(複) 渡辺崋山 天保9年(1838) 原本は個人蔵
重文 孔子像(複) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
  秋景游賞図 渡辺崋山 江戸時代後期 井上竹逸旧蔵
  藕花香雨図   椿椿山 弘化2年(1845)  
  松芍薬ニ孔雀図屏風 平井顕斎 天保7年(1836)  
  双鶴山水図 福田半香 江戸時代後期 個人蔵
  高砂浦之図 福田半香 江戸時代後期  
  山水図 井上竹逸 明治時代前期  
  卯の花にカミキリ図 小田莆川 江戸時代後期  
  群老登山之図 山本琹谷 万延元年(1860)  
  仙境十六羅漢之図 永村茜山 文久2年(1862)  
  雪景山水図 斎藤香玉 天保9年(1838)  
  緑陰山房図 斎藤香玉 江戸時代後期  
  野菊図 立原春沙 江戸時代後期  
  八家合作書画 岡本秋喗・小田莆川・平井顕斎・椿椿山他 江戸時代後期 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作家解説

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)

立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。

平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)

遠江国榛原郡に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

井上竹逸 文化11年(1814)〜明治19年(1886)

名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保10年(1839)から12年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(1798〜1866)に学んだ。12年5月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(1763〜1840)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)

永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。

斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)

上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。

金子豊水 文化11年(1814)〜元治元年(1864)

吉田出身。名は徳褒、直通。通称、健四郎または武四郎。字(あざな)は猛卿。号は豊水。画を渡辺崋山に学ぶ。神道無念流の剣術家。天保11年(1840)水戸藩にかかえられる。安政3年酒席での争いから、門人が生方鼎斎を殺したため藩を退去。

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作品解説

過眼録・縮図冊

田原市博物館には、崋椿系の画家たちによる縮図冊が多く所蔵されるようになった。谷文晁・渡辺崋山という崋椿系の画家に影響を与えた関東文人画家の先達は、自分が見た作品や風景、器物等をスケッチし、縮図冊として保管し、後に作画の参考としている。また、自ら描いた依頼画の控なども残し、現代のカタログのような冊子も多く見られる。画家のネタ帳ともいうべきものもある。

渡辺崋山 墨竹之図 文政年間

墨のみで表現された竹は生涯を通じて最も多く描いたモティーフである。先が痛んだ古竹の根元から新芽の若笹を添える。賛に「雨洗娟々浄風吹 細々香今人不知 以為無香何古今之不相及也」とある。竹が雨に洗われ、美しく清らかな風が吹き、かすかな香りを今の人は知らない。思うに香りを知らないのは、どうして昔の人に今の人は及ばないのか、という意味である。

椿椿山 藕花香雨図 弘化2年(1845)

「藕花」とは蓮の花を指す。椿山は作画活動の全期をつうじて、蓮の絵を描いている。蓮は子孫繁栄、恋、結婚にまつわる幸福と、仏教のシンボルとしてイメージされてきたことから、当時の人々の需要が多かったことであろう。雨に煙る水面を蓮の茎がゆらゆらと伸びる様は、まさに浄土への導きをイメージする。盛りを過ぎた葉の端は弱々しく枯れ、若葉は張りのあるみずみずしさを湛える。水面に見える水草も、蓮の茎に絡む葦も計算された構図である。縦長の画面が蓮の花の香り漂う幻想的な情景を、いっそう引き立たせる。弘化年間(一八四四〜四八)から、椿山の作風はより柔らかな方向へと向かう。それは、絵の具に水を含ませる方法の変化によるもので、この作品はその過渡期にあたる。椿山の描く蓮図の代表作に挙げられる。

福田半香 高砂浦之図 江戸時代後期

兵庫の播磨灘に臨む高砂神社の相生の松の下に老夫婦を描き、天下泰平、長寿祝福を表したおめでたい画である。山水花鳥の得意な半香が人物画を描いた珍しい作品である。

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