開催日 | : | 平成26年12月6日(土)〜平成27年2月1日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山と椿椿山は師弟の関係にあります。この二人につき、影響を強く受けた画家達は「崋椿系」と称されます。明治時代の中頃まで椿山からその画系は直接伝わっています。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
坡公黠鼠図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
菊花図扇面 | 椿椿山 | 弘化4年(1847) | ||
一覧縮図 | 椿椿山 | 文政2・3年(1819・20) | ||
雲煙過眼 | 椿椿山 | 文政5年(1822) | ||
琢華堂画譜 | 椿椿山 | 天保14年(1843) | 10冊のうち6冊 | |
市文 | 換鵞図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | |
芝仙祝寿図 | 渡辺崋山 | 天保4年(1833) | ||
孫叔敖陰徳図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
市文 | 風竹之図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | |
千利休翁立像図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
重文 | 日月大黒天図 | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | |
鸕鷀捉魚図(複) | 渡辺崋山 | 天保12年(1841) | 原本は出光美術館蔵 | |
吉村貞斎像 | 椿椿山 | 天保3年(1832) | ||
重文 | 高野長英像(複) | 椿椿山 | 天保年間 | 原本は高野長英記念館蔵 |
老女像稿 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
柳枝魚影之図 | 椿椿山 | 弘化3年(1846) | ||
重文 | 渡辺崋山像画稿 | 椿椿山 | 天保14年(1843)〜嘉永年間 | 個人蔵、一部展示 |
伯夷像 | 椿椿山 | 嘉永元年(1848) | ||
市文 | 福田半香肖像画稿(複) | 椿椿山 | 嘉永4年(1851) | |
古松ノ図 枯木ノ図 | 椿椿山 | 嘉永5年(1852) | ||
終南進士之図(鍾馗図) | 椿椿山 | 弘化4年(1847) | 個人蔵 | |
長春富貴 | 渡辺小華 | 嘉永3年(1850) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 椿椿山 一覧縮図 文政2年(1819)〜3年(1820)
表紙に「文政録 二番 一覧縮図 椿山藏二」、裏には「英一蝶 筆一 茶家 画家 名家 過眼録 卯至辰」と墨書で記される。
文政2から3年、つまり椿山19歳から20歳にかかる、現在のところ椿山の最古の資料である。いわゆる、その名の示すとおり展観会に見た作品、什物の縮図及び写生を描きとめた備忘録である。谷文晁、渡辺崋山をはじめとする関東の文人画家はそれぞれ膨大な数の備忘録を残している。しかし、自ら描いた作品の覚え、縮図・写生をまとめたものは区別するのが常であるが、この資料の特異な点としてそれらが混在していることである。文化14年(1817)に没した最初の師金子金陵の作品も収められる。
一番多く収められるのは狩野派で、明清画では李士達、呂紀、林良、周之冤、沈南蘋、張秋殻の作品がある。円山派、大雅。蕪村の作品が記録される一方、眼に触れる機会が一番多い同時代の文人画、例えば谷文晁、崋山の作品は少ない。
中には、現在でも有名な作品も収められ、徐霖「菊花野兎図」(静嘉堂文庫美術館蔵)の縮図も収められる。これらを見ると、大名家などの所蔵作品もあり、若き椿山がそのようなものに触れる立場にいたことは注意しておきたい。
この資料で重要な点は、新調前の旧表紙に記された「椿山常長蔵本」である。また、「薫琳 椿山蔵本」の罫紙から、「常長」「薫琳」それぞれは椿山の別号の可能性がある。「常長」は、椿山の最初の妻、太田登耶子の父太田常長(号得水 椿山の和歌の師と言われている)と同名であり、その関係が注目される。文政五年までの縮図には「常長」の名が見られることからこの時期までこう称していたのであろう。
紙面の天地が切断され、一部失われており、まさしくメモ帳であった本資料を、椿山自身がある時期に新調した状況が窺われる。
※『田原市博物館館蔵名品選第2集』付属のCD―ROMで作品の全図版がご覧になれます
● 椿椿山 雲煙過眼 文政5年(1822)
雲煙過眼」とは、蘇軾の『宝絵堂記』によれば、雲や煙がたちまち過ぎ去ってしまうように、物事を長く心に留めないこと。物事に執着しないことの意味である。とりとめもなく気の向くままに残したスケッチ帳である。
● 渡辺崋山 換鵞図 文政年間
晋の王羲之は鵞を好んだ。山陰にて道者の飼う鵞を見て買おうと思った。道者は王羲之に言った。「道徳経を書いてくだされば、この鵞と交換いたしましょう」と。王羲之は喜んで書を書いて与え、鵞を得た。この図はその故事(王羲之伝)の場面を描いたものである。上段、机の後ろに座るのは王羲之、下段、鵞を見ているのは道者である。落款は草冠の華山であり、27、8歳の頃の作品と思われる。
● 渡辺崋山 芝仙祝寿図 天保4年(1833)
四十一歳の時の田原留宿中の作である。題識によれば、かつて惲南田(一六三三〜九〇)の水仙図を観て、その気韻が深厚であることに感銘し、いまさらながら心の中に感じるものがあった。たまたま、宿の前庭に水仙がたくさん咲いているのを見て、よい趣をたちまち感じ取り、よって南田の気持ちをまねた、と書いている。しかし、水仙の花は写生に基づき描かれており、花のひとつひとつには、忠実に陰影を施している。芝仙祝寿とは霊芝に竹を配して祝寿の意とした画である。
余會觀南田惲氏所作水僲小幀。氣韻深厚、尚往來于胸間。今春以官事客於田原。舍外此花盛開。忽發佳興、終仿其意添以芝竹。然塵事鞅掌、久負筆研、手腕生棘、不能撥其萬一也。癸已二月朔十日。時膏雨初霽。桃杏放霞。 崋山外史登
● 渡辺崋山 孫叔敖陰徳図 天保9年(1838)
戦国時代、楚の国の孫叔敖が幼い時、遊びに出て頭が2つある蛇を見た。叔敖は蛇を殺し、地中に埋め、他の人に見られないようにした。帰宅後「双頭の蛇を見た者は、近く死ぬと聞いている」と言って悲嘆にくれた。母は、叔敖が他の人に見せてはいけないと思って蛇を埋めたのを知り、「心配することはない、人に知られぬ善行をした者は、天の神様が幸いをお与え下さる」と伝えた。叔敖は後年、楚の上卿(しょうけい)(上席家老)となり天寿を全うした。この故事を描いたものである。
● 渡辺崋山 風竹図 天保9年(1838)
左からの風を受ける竹を描く。鄭板橋(1963〜1765)の詩を引用して画賛としている。鄭板橋は墨竹・墨蘭を得意とした清の文人画家であり、地方代官として窮民救済を行ったことも知られ、この画を求めた吉沢松堂に、その意を汲み、貧しき者を庇護せよとの意味を込めている。「衙斎臥聴蕭々竹 疑是民間疾苦声 些小吾曹州県吏 一枝一葉総関情 余以不敏参藩政時天保七年大風雨火八年又風大饑民飢我 君発稟賑済無一餓莩可謂仁政余毎読此 詩警省以自勗恐有溺其職也松堂望発索画并録之 松堂佐野農人富而好義若推此意以庇貧者我画不啻風竹也」
● 重要文化財 渡辺崋山 日月大黒天図 天保11年(1840)
落款に「是十月、阿母君所夢也。命児登寫之。時十一月朔子謹記」とある。ある夜、崋山の母、栄は日月大黒天を夢に見た。崋山が蟄居を命ぜられ、江戸から田原へ来て寂しく貧しい日々の暮らしの中で見た夢である。その大黒天の姿は頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえるという、お決まりの姿である。渡辺家も田原へ来てから十か月が経ち、暮らしも落ち着いてきた。平和な日々を夢見た母の依頼により描いたものである。大黒天のにこやかな顔と衣線画が東洋画独特の太い線で表され、さらにおめでたい太陽と月が同時に空に見られるという背景を加え、ほのぼのとした家族愛を見る者に感じさせている。
● 渡辺崋山 鸕鷀捉魚図(複) 天保11年(1840) 出光美術館蔵
「鸕鷀」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品である。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれている。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作である。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。 款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる記述があり、内容は「青緑山水、鸕鷀捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されている。「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いている。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっている。
● 椿椿山 吉村貞斎像 天保3年(1832) 田原市博物館蔵
題賛に「謂不肖吾ニ是親 鏡中真影匪他人 肖哉真也毫端妙 永世相傳舎精神 天保癸巳春貞斎吉村球題肖像之圖賦且書」とあり、別紙に「戒眷屬云 はらたゝずわがまゝいはず むつましく たがひにふしやう するが世の中 辭世云 身の後のことを おもへばかぎりなし かぎりある身ハ いまかおさらハ、臨終正念南无阿弥陀佛 南無妙法蓮華經」とある。図中に「壬辰小春椿山平弼寫」とある。五三桐紋に総髪の姿を考えれば、名のある医家と考えられるが、吉村貞斎という人物の詳細は不明である。
● 重要文化財 椿椿山 高野長英像 天保年間前半頃 高野長英記念館蔵
高野長英(1804〜1850)は仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同八年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同三年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保九年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。
この画は、高野家と姻戚関係にあったかつての東京市長であった後藤新平が一時手元に置いていた。後藤新平の書簡によれば、かつては愛知県豊橋に残され、崋山の息子渡辺小華による箱書がある。高橋磌一によれば、大槻文彦が『高野長英行状逸話』に、「此椿山ノ筆ハ渡辺崋山ノ粉本中ニ長英ノ顔ノミ画キテアリシニ拠リシモノト云。」と書いていることを紹介している。崋山が縮図冊に記録しておいたものを元に椿山が描いたと伝えられるが、詳細は不明である。
● 椿椿山 老女像稿 江戸時代後期
渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、発見時には同一の袋に入っていた。伏目がちにおとなしい老婆の上半身が描かれる。付属として、顔部の陰影が強調された部分図が貼られている。
● 椿椿山筆・椿蓼村賛 伯夷像 嘉永元年(1848)
伯夷は、古代中国殷の時代、孤竹国の王子で、儒教では聖人とされる。名は允・字は公信。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位につくことを良しとせず、兄に位を継がそうとした。そこで、伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。兄弟は、周の文王の評判を聞き、周へ向かうが、この頃、既に文王は亡くなっていた。文王の息子、武王が殷の王を討とうと、進軍する最中であった。父の死後、間もないのに、主君である殷の王を討つのは、不忠であると、説いたが、聞き入られなかった。この後、二人は、周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、武王が新王朝を立てたときは首陽山に隠れ、山菜を食べていたが、最後には餓死した。
賛を書いた椿蓼村(1806〜1853)は、書家として知られた。通称は亮左衛門。蓼村の娘は椿山の長男、華谷(1825〜1850)に嫁ぎ、一女をもうけた。
● 椿椿山 田原市指定文化財 福田半香像稿 嘉永4年(1851)
稿は嘉永4年、半香(1804〜1864)48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。横に記された「明四日時」とはメモ書であろうか。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。
「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)
しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。
画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。
渡辺家の菩提寺でもある小石川善雄寺に所蔵される福田半香肖像と稿を比較すると、顔の部分でも耳や髪の表現はさらに描き込みが細かくなる。体の立体感は衣線や彩色がやや荒く、絹本に描かれているが、粉本などの所蔵印として使用される「琢華堂記」と刻された印が右下にあるが、他の印が捺されていないことと、逸話から考えると、正本が完成されなかった可能性もある。この作品の伝来も含めて検討していく必要があろう。崋山が自刃に至る因を作ってしまった半香は、死後、師の菩提寺に自分を葬るよう遺言した。また、「半香翁墓碣銘」と刻した墓標がわりの板碑もある。
● 重要文化財 椿椿山 渡辺崋山像稿 天保年間〜嘉永年間
崋山像が完成したのは、椿山が亡くなる前年で、没後十三回忌にあたる。幾度も稿を重ねたものである。天保13年(1842)の崋山一周忌に肖像画を完成させようとしていたことが椿山から福田半香に宛てた手紙によりわかる。「田原小祥之忌相当り、御同前旧懐断腸仕り候。御像も可認之所、今以不能其義候。是は誠に難儀仕候。迚も当年はなげ置可申と存候。実に「筆とりてかくもかなしき面影を何なかなかにうつしそめけん」此は先生竹村海三(蔵)の小照御認候節、御詠被成候歌なれ共、則是が実地に御座候。御察可被下候。」師崋山も親友の憤死に際し、肖像画を描こうとしたが、「筆とりてかくもかなしき面影を何なかなかにうつしそめけん」と詠んだ歌を思い出し、自分もその通りだという。
「癸卯六月七日第一稿」は顔の輪郭線を何本か引き、鼻や顎に淡墨で陰影をつける。墨画で着色はされない(今回、未展示)。「癸卯六月七日第二稿」には淡い代赭、淡墨にて鼻や顎に陰影をつける。髯のあとを淡彩で描く。「癸卯六月七日第三藁」とある図は肌色をやや濃くし、輪郭線を淡くする。第四稿では、頬、目許、顎、喉に墨暈しを施し、顔の骨格を強調する。
● 渡辺小華 長春富貴 嘉永2年(1849)
牡丹にバラである。バラは開花した花が順に咲き、長く楽しむことができる。牡丹は富貴という異名がある。嘉永2年(1849)は椿山画塾の琢華堂で学んでいる時期の作品である。江戸では身分を問わず、園芸が流行していたので、琢華堂にもこれらの花が置かれていたものかもしれない。