開催日 | : | 平成26年10月25日(土)〜11月30日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 企画展示室2 |
三宅家は寛文4年(1664)に三河挙母(現豊田市)から田原藩へ移封になりました。田原藩主になって今年は、350年目を迎えます。
企画展示室2 | ||||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考(表記なしは田原市博物館蔵) | |
領知目録 三宅土佐守(康勝)宛 | 貞享元年(1684) | |||
宣旨 康勝 任能登守 | 寛文2年(1662) | 宣旨類1 | ||
領知目録 三宅備前守(康雄)宛 | 正徳2年(1712) | |||
宣旨 康友 任備前守 | 寛政5年(1793) | 宣旨類15 | ||
宣旨 康和 任備中守 | 文化12年(1815) | 宣旨類18 | ||
宣旨 康明 任備前守 | 文政6年(1823) | 宣旨類22 | ||
領知目録 三宅備後守(康保)宛 | 安政7年(1860) | |||
三代家光朱印状 | 寛永2年(1625) | 朱印状1 | ||
蝦夷日誌巻一附録(写本) | 松浦武四郎 | 市指定文化財、御納戸書籍186 | ||
蝦夷草紙(写本) | 最上徳内 | 市指定文化財、御納戸書籍184 | ||
風説書(写本) | 天保年間 | 市指定文化財、渡辺崋山旧蔵書籍31 | ||
了閑公遺愛茶道具 茶杓 |
江戸時代 | 巴江神社蔵 | ||
三宅家家紋入茶碗 | 江戸時代 | 巴江神社蔵 | ||
三宅家家紋入扇面 | 江戸時代 | 巴江神社蔵 | ||
三宅家家紋入硯箱 | 江戸時代 | |||
三宅家家紋入料紙箱 | 江戸時代 | |||
三宅家家紋入柄杓 | 江戸時代 | |||
大坂加番手扣 | 文化5年(1808) | 市指定文化財、田原藩日記201 | ||
日光祭礼奉行時拝領かわらけ | 文政13年(1830) | 巴江神社蔵 | ||
日光御祭礼奉行御勤之節之御手留写 | 文政13年(1830) | 藩関係文書91 | ||
三宅家家紋入御膳 | 江戸時代 | |||
田原藩奏者番御手留 | 江戸時代後期 | 市指定文化財 | ||
田原藩奏者番御自留 | 江戸時代後期 | 市指定文化財 | ||
三宅友信侯宛答問 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
蘭書目録 | 三宅友信 | 江戸時代後期 | 巴江神社蔵 | |
萌葱糸威縫延胴黒具足 | 江戸時代 | |||
紺糸威伊予札胴赤具足 | 江戸時代 | |||
松風有清音 | 三宅康直 | 江戸時代後期〜明治時代 | ||
絶筆 | 伊藤鳳山 | 明治3年(1870) | 個人蔵 | |
漂民聞書 | 渡辺小華挿図 | 安政2年(1855) | 市指定文化財 | |
順応丸材料片 | 井上親 | 江戸時代後期 | ||
毛槍(御伊達道具) | 江戸時代 | |||
毛槍(御道中馬印) | 江戸時代 | |||
歴代田原城主表 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 三宅友信 文化3年(1806)〜明治19年(1886)
三宅友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の子として生まれ、9代康和・10代康明は異母兄にあたる。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住していたが、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)には従四位を贈られた。
● 三宅康直 文化8年(1811)〜明治26年(1893)
姫路藩主酒井雅楽頭忠実(さかいうたのかみただみつ)の六男で、幼名を稲若と言う。文政10年に三宅家へ養子に入り、三宅家11代藩主となった。八代藩主康友の側室が産んだ友信がいたが、田原藩では病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、稲若を養子とした。嘉永3年(1850)友信の長男であった康保を養子とし、家督を譲り、隠居した。
● 三宅康保 天保2年(1831)〜明治28年(1895)
八代藩主康友の側室が産んだ友信の長男。天保3年6月に、その年3月に産まれたばかりの康直の娘於C(おけい)との婚約の願書が幕府に提出され、2日後に認可された。一時、康直夫人の願により、跡継ぎを外される恐れもあったが、用人真木定前の命を賭した願い入れにより、その難を免れた。明治2年(1869)の版籍奉還後には、田原藩知事に任命された。崋山が書の手本として「忠孝」を書いている。 。
● 伊藤鳳山 文化3年(1806)〜明治3年(1870)
羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出る儒者となる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。2年にして辞し、京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。
文明12年(1480)頃戸田宗光は田原城を築城し、半島統一の足掛かりとしました。延徳年間(1489〜1491)に戸田宗光は半島の西まで攻め入り半島全域を統一し、以後戸田氏は5代にわたり半島を治めました。全盛期の2代憲光の時代には、知多半島の南まで勢力を伸ばし三河湾を領有し、伊勢湾の海上交通にも大きな力を持ったと思われます。その後、天文16年9月に駿河の今川義元が、田原城攻めを行い今川氏の治めるところになりました。さらに、田原城は徳川家康(当時松平)攻められ、家康の領地となりました。
天正12年(1574)、徳川家康と豊臣秀吉(当時は羽柴)が争った小牧・長久手の戦いの時には、後に鳥羽藩主となる豊臣方の九鬼水軍によって、家康方の渥美半島の海岸の村々は焼き払われたといいます。この戦いの後、渥美半島は秀吉の領地となり、吉田城の池田輝政(のち姫路城主)の城代(家臣)が入ります。江戸時代に入ると、田原城はそのまま田原藩主戸田家3代、三宅家12代が24ヶ村を治めるところとなりました。
江戸時代の歴代 田原城主 | ||||
城主名 | 生存年 | 城主在任期 | 備考 | |
1 | 戸田尊次 | 1565- 1615 |
自 慶長6年 1601 至 元和元年 1615 |
忠次の長男 従五位下土佐守 |
2 | 戸田忠能 | 1586- 1647 |
自 元和元年 1615 至 正保4年 1647 |
尊次の長男 従五位下因幡守 |
3 | 戸田忠治のち忠昌 | 1631- 1699 |
自 正保4年 1647 至 寛文4年 1664 |
尊次の二男・忠継の長男 従四位下山城守侍従 |
1 | 三宅康勝 | 1628- 1687 |
自 寛文4年 1664 至 貞享4年 1687 |
康盛の長男 従五位下能登守 |
2 | 三宅康雄 | 1687- 1726 |
自 貞享4年 1687 至 享保11年 1726 |
康勝の長男 従五位下備前守 |
3 | 三宅康徳 | 1683- 1753 |
自 享保11年 1726 至 延享2年 1745 |
康雄の二男 従五位下備後守 |
4 | 三宅康高 (茶宗匠吟雪庵了関) |
1710- 1791 |
自 延享2年 1745 至 宝暦5年 1755 |
康徳の長男 従五位下備前守 |
5 | 三宅康之 | 1729- 1803 |
自 宝暦5年 1755 至 安永9年 1780 |
松平対馬守近貞の二男 従五位下備後守 |
6 | 三宅康武 | 1763- 1785 |
自 安永9年 1780 至 天明5年 1785 |
康之の四男 従五位下備前守 |
7 | 三宅泰邦 | 1764- 1792 |
自 天明5年 1785 至 寛政4年 1792 |
康之の五男 従五位下備後守 |
8 | 三宅康友 | 1764- 1809 |
自 寛政4年 1792 至 文化6年 1809 |
康高の末男 従五位備前守・備後守となる |
9 | 三宅康和 | 1798- 1823 |
自 文化6年 1809 至 文政6年 1823 |
康友の二男 従五位下対馬守 |
10 | 三宅康明 | 1800- 1827 |
自 文政6年 1823 至 文政10年 1827 |
康友の三男 従五位下備前守 |
11 | 三宅康直 | 1811- 1893 |
自 文政10年 1827 至 嘉永3年 1850 |
酒井雅楽守忠実の六男 従四位土佐守 |
12 | 三宅康保 | 1831- 1895 |
自 嘉永3年 1850 至 明治2年 1869 |
康友の庶子友信の長男 従五位下備後守 |
● 領知目録
江戸時代に藩の領地確認を行う際に領知朱印状・領知判物に添えて発給された目録である。石高は表高(多くは江戸初期に設定された石高)を用いて記される。将軍が替わる時には、将軍が大名から任じた奉行(奏者番などが任じられる場合が多い)が差出人となる。実際に展示している領知目録は寺社奉行(奏者番兼任)の本多忠当、奏者番の牧野富成が務めている。田原市には、5通の領知目録が現存する。
● 宣旨
天皇・太政官の命令を伝達する文書で、朝廷が出す文書の形態の一つ。天皇が正式に下す文書は詔勅だが、複雑な手続きが伴うために、簡略化するために一官僚である弁官・史が作成した文書を当事者に発給した。弁官・史の署名しかないにも関わらず天皇の権威が伴う形式のため、幕末期に朝廷が急激に力を持った際には偽勅が乱発されることとなった。
● 朱印状図
朱印が押された命令文書(印判状)であり、戦国時代から江戸時代にかけて盛んに使用された。特に江戸幕府が公家・武家・寺社の領地を確定させるために発給した文書を領知朱印状と呼ぶ。武士に対しては、10万石以上の大名については判物を、それ未満の大名・旗本・御家人などに朱印状を発行した。
● 田原藩奏者番御手留・田原藩奏者番御自留
江戸時代には、譜代大名は老中・若年寄等の幕府の役職に就任し、幕府の政治を担当した。奏者番はこうした役職の一つで、江戸城の殿中において武家関係の典礼の執行を担当した。20 人余りの譜代大名が同時に任命され、交代制で江戸城に登城してその役目を務めた。譜代大名たちは奏者番を振り出しに、寺社奉行・大坂城代・京都所司代などの重要な職務を担った。奏者番はその役職の性質上、藩主には江戸城内の将軍や諸大名のいる前で儀礼を滞りなく進めるための相応の知識が必要となる。このため、藩士が事前調査や他の奏者番への連絡、書記などの役割でサポートした。「田原藩奏者番御手留」は11 代藩主・三宅康直(1811〜1893)が天保12 年(1841年)から嘉永2 年(1849 年)にかけて奏者番を務めた際に、主に田原藩士らによってまとめられた資料群である。桐のタンスの引き出しには、折本状にまとめられた覚書(手留)が整然と収納されていた。大きなタンス(御手留)には、奏者番を務めた各大名家から集約された殿中儀礼が、小さなタンス(御自留)には実際に康直が奏者番を務めた際の記録が1案件1 枚でまとめられています。こういった奏者番資料の収集や整理の手法は他の大名などでも行われており、群馬県の館林市立図書館秋元文庫(館林藩秋元家資料)には同様の手留が同様のタンスに保管されている。
● 三宅家家紋入茶碗
書に仁清と書かれる。三宅家の家紋は、仏教法具の輪宝を図案化したもので、江戸時代の大名では、三宅氏の他に加納氏が替紋として用いていた。輪の中央と外輪との間を放射状に支える輻(や)と、剣の数により区別され、三宅家の輪宝は、八剣である。三宅家の祖は、『太平記』にも登場する鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した南朝の忠臣、児島高徳(生没年不詳)とされる。
● 三宅家家紋入料紙箱・硯箱
三宅家の輪宝と児島の「児」の紋が施され
● 了閑公遺愛茶道具
了閑公は吟雪庵とも号し、田原四代藩主となった三宅康高(1710〜1791、在藩主1745〜1755)である。第三代藩主三宅康徳の長男として生まれる。養子の康之に代を譲った後、剃髪して、巣鴨の下屋敷に居住した。茶人として活動し、南坊流10世宗匠となり、大名の茶道の師匠となる。
● 蝦夷日誌巻一附録
松浦武四郎が初めて蝦夷地に渡った弘化2年(1845)の東蝦夷地・松前地の記録と、翌年の西蝦夷地・樺太の調査に加え、3回目の嘉永4年(1849)の国後島・択捉島を探索調査した記録全35巻をまとめてなった初の本格的蝦夷地誌である。成立は嘉永3年で、引用文献の中には既に散逸したと目される文献も少なからずあり、幕府その他に呈上された当時から第一級の蝦夷地史料として関心が払われていた。
● 蝦夷草紙
天明以来9回も蝦夷地に渡って、アイヌと交流の深かった最上徳内(1754〜1836)はアイヌの風俗を詳しく描写している。