開催日 | : | 平成26年10月25日(土)〜11月30日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山愛用品や作品を展示します。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
重美 | 客坐掌記 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | |
墨蘭図画冊 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
山水画稿帖 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
春江待渡図 | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | 個人蔵 | |
倣梅道人山水図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 個人蔵 | |
蘆芙蓉双鴨之図 | 渡辺崋山 | 文化年間 | ||
秋草小禽図 | 渡辺崋山 | 文政元年(1818) | ||
陶弘景聴松風図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 個人蔵 | |
蓑笠画賛 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
躑躅和歌 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 個人蔵 | |
市文 | 糸瓜俳画之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
痩馬図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
高士観瀑図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
市文 | 陰文竹 | 渡辺崋山 | 天保10年(1839) | |
藤花雀蜂図 | 渡辺崋山 | 天保10年(1839) | ||
重美 | 笑顔武士像稿(複) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 原本は個人蔵 |
赤鍾馗 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
重美 | 千山万水図(複) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 原本は個人蔵 |
三組杯 | 渡辺崋山 | 文政年間 | ||
蛛網捕虫扇子 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
遠眼鏡 | 愛用品 | |||
風呂敷 | 愛用品 | |||
重文 | 渡辺崋山印 | 愛用品 | ||
重文 | 自決脇差 | 東播士祐國 | 江戸時代後期 | 愛用品 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 客坐掌記
表紙に、「客坐掌記 天保壬辰全楽堂」とあり、「辰一 計七冊」とある。友松・探幽・守景・応挙・大雅・竹田の縮図が見られる。「勧進能舞台図 二月二十六日」と書かれた勧進能の舞台を囲む群集をスケッチした場面から始まる十二図がある。能の「安宅」「小鍛冶」「野守」「山姥」と狂言の「入間川」の一場面を描く。図中に「催馬楽むしろ田、中川侯羽田野蘆谷名重輝」とあり、琴を奏でる人物の姿が描かれる。また、洋書挿絵の写しと考えられる西洋人物の肖像もあり、「エジュアルド ブリグト EDUARD BRIGHT」とある。鳥類のアカヒゲ(現在では、南西諸島と男女群島のみに生息が確認されている日本固有種で,国の天然記念物に指定されている)や蜘蛛、狐面の写生がある。洋書挿図からの模写と思われる動物の頭骨図、洋式鵬洋剣を写し、法量も書き留めている。「マレースフック天竺志」「ヒューラント度逸人ヨウルナアルと云ふ書あり」などの洋書名の記述もある。
● 蘆芙蓉双鴨之図
背景に薄い青を引き、蘆芙蓉を浮き立たせるように描く。植物がやや重なり、奥行き感がうまく表現できていないところはあるが,鴨の羽毛表現は充分に完成の域に達している。「華山邉静」と款し、白文長方印の「華山」が捺される。文化年間後半または文政時代前半であろう。
● 秋草小禽図
昭和3年(1928)に、恩賜京都博物館で開催された「渡辺崋山先生名画展」に出品された作品である。この展覧会は、関西地方の崋山作品の所蔵者を中心に出品された。恩賜京都博物館という館名は、現在の京都国立博物館にあたる。展覧会記録として、発行された『崋山先生画譜』に「菊花雙雀図」として図版掲載されている。また、明治22年(1889)に創刊され、現在も刊行されている美術雑誌『國華』の第117号には「花鳥図」として紹介されている。当時の所蔵者は、朝日新聞創始者で、衆議院議員であった村山龍平であった。村山は茶人としても知られ、その東洋古美術を中心とした所蔵品の多くは、神戸市東灘区にある香雪美術館に収蔵されている。この作品の落款に、「文政新元秋八月二十日寫於全楽堂華山邉静」とあり、「邉・静」の楕円連印が捺される。同年に描いた作品には、「坪内老大人像」(東京国立博物館蔵)があり、落款に「文政新元秋八月十有八日 渡邉定静寫」とあり、印も同一のようである。菊の花の下に二羽の雀が群れ飛ぶ蜂を見上げている。文化年間後半に小画面の絹本作品に多用される細い渇線を基調とした作品である。
● 陶弘景聴松風図
陶弘景(456〜536)は、六朝時代の思想家、医学者、文学者である。道教の茅山派の開祖として知られる。山林に隠棲し、本草学を研究し、漢方医学の基を築いた。40歳で山中に隠棲したが、梁の武帝から常に諮問をうけ、「山中宰相」と 呼ばれた。彼の詩「詔問山中何所有賦詩以答」(山中に何が有るのだと聞かれ、詩を以って答う)に「山中何所有、嶺上多白雲。只可自怡悦、不堪持寄君」(嶺の上には白雲が多くただよっているけれどこれは私が見て楽しむだけで残念ながら、あなたに届ける訳にはいきません。「閑坐聴松風」(閑坐(かんざ)して松風(しょうふう)を聴(き)く)は、一切の雑念を忘れ、座禅をすることで、崋山の当時の心象であろうか。
● 蓑笠画賛
天保4年春田原に行き、4月15日田原を出発、伊勢の神島に渡る。この図はその神島での印象を俳画風に作ったもの。天保四年以降のものである。『参海雑誌』で、激しい波風で大変であったことがわかるが、画賛の二首は、その難航途上の心境を詠んだのであろう。「伊勢の國神島といふところにやどりて 世の中や人の上より波のうへ ひとをたのむ身をもたのむやのみしらみ」。
● 躑躅和歌
わが女が、父のなぐさにと、思ひかぞへて、この花を、ねほりたるを、あるうしの、みたまひて うすからぬ君のこゝろの 岩つゝじいはねど しるき花のいろかなとありければ、おもほへず いはつゝじいはねはあらじ この袖をぬらすは君が ことのはのつゆ わたのへの翁」
「わが女」は崋山の妻、たかであろう。病床にあった崋山の父、定通(〜文政7年(1824)60歳で没)のために、妻が枕元に持って行こうとした岩つつじを見て、父のために詠んだ歌を記したもので、文政年代のものと思われる。
● 糸瓜俳画之図
添えられた俳句に「下手乃かく絵こそまことの糸瓜かな」とあり、落款に「崋山画また題」とあり、印は捺されない。画面左上から糸瓜がたれ、中央に葉、画面右へ向かって蔓が延びる。水をたっぷり含ませ、たらし込みの技法で描く。
崋山は、二十代から俳諧師五世太白堂加藤?石と、また?石没後は、六世江口孤月とも親交があった。崋山自身も俳諧をよくし、太白堂一門の『桃家春帖』『華陰稿』『月下稿』などに二十年にわたって俳画の挿絵を提供している。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、全体に上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山の俳画観を具現化したものとして貴重である。
● 高士観瀑図
この作品は崋山46歳の時のものである。秋林の中、滝を眺めている高士二人と童子一人がいる。雲煙がたちこめ、そのはるか上には高楼が半ば隠れつつ見える。雲煙により山が途切れているにもかかわらず、全体の構図は崩れていない。秋深き渓谷に清らかで涼しげな気配が感じ取れる画である。この画を賛美する詩を付す。「山上の浮雲は天に幾重、秋高く華は王芙蓉に散る、好みて謝朓の人を驚かす語を携え、酔裡に落雁峰に登り来る」
● 陰文竹
陰文とは白文のことである。背景が暗く、図と題詩が白く抜けている。竹と漢詩は崋山得意のもの、それを石刻を想像させる表現で行っている。白文は「鄭老畫蘭不畫土 有為者必有不為 酔来寫竹似?葉 不為作鴎葉無節技 己亥薄月崋山外史登」。朱文は「有威儀而無文字曰無字碑予曰面有文華而背暗當曰逡巡碑臨題自書耳呵々登又題」。
● 藤花雀蜂図
款記に「己亥三月十四日夜秉燭稿図翌十五日暁竣之 故m々不経意 不工甚 崋山外史登」とあり、蛮社の獄で北町奉行所に召還される二月前の作品である。没骨表現で雀を描いている。
● 笑顔武士像稿(複)
図中に「天保丁酉四月朔四日 初稿第一」とある。半紙六枚をつなぎ合わせ、さらに顔の部分には別紙を貼り付ける。田原藩士の肖像とも言われたが、裃の三ツ柏紋は特定が困難である。白文小長方印の「崋山」は後捺と考えられる。武士の正装した姿で、笑顔を描いた作品はほとんど知られていない。
● 千山万水図
図上に「千山萬水図 丁酉六月朔五日 迎快風寫之子安」と書し、「模古」の印を捺し、他の山水画の摸写と考えられるが、崋山のイメージの中にある風景を透視遠近法的に鳥瞰的に表現している。山の緑と平地の褐色、海の青が織り成すコントラストは、田原へ来て、半年余、奉行所での取調べ後の体調が戻ったためか、明るい色調は見る者に雄大さを感じさせる。近景には高さのある瀑布、その流れの先には集落と人々が描かれる。さらに中景・遠景にも複雑な海岸線の間に多くの集落が描かれ、構図から三浦半島とする説もある。また、「千山万水」という言葉も、天保三年刊行の『画本唐詩選』「宋之問・吟第二図」とその蟄居中の心境も含めた関連性も指摘され、天保八年のアメリカ商船が追い返されるモリソン号事件から一部の船は外国船として描いたと考えられている。鎖国日本の行く末を予感させる。「丁酉」は天保八年であるが、年記を遡及した田原蟄居中の作品と考えられる。
● 三組盃
日本画家である下村観山(1873〜1930)旧蔵品である。三組の盃と台座から成る。盃には崋山の画が桜(小)モクレン(中)芍薬(大)が内側に描かれている。台座は観山製作である。箱書には「銀座役人の依頼」とある。
● 蛛網捕虫扇子
崋山が描く小さな虫には、メッセージが込められている。トンボと蜘蛛に、捕食関係、すなわち「弱肉強食」「食物連鎖」がある。号に「孱提居士」を用いているが、この号が使用される他の作品は仏画が多い。「孱」は小さく弱いものたちが屋根の下にいるという意味がある。この作品のテーマも輪廻につながるものであろう。
● 自決脇差
茎に刀銘として「東播士祐國」、「明石隠士大野夕鴎 令祐國作 以贈華山先生 文政十三年八月日」とあり、嘉永年間(一八四八〜五四)に没した祐國の作であろうか。祐國は「東播士」と称しているので、播磨(現在の兵庫県南西部)明石に住んだ刀工で、備州長船系であるが、その素性は明らかでない。長さは三十八センチ弱である。現在は拵えは無く、白鞘で伝えられる。
幕府から渡辺崋山の検死のために田原を訪れた町奉行与力中島嘉右衛門・磯貝七五郎による『検死一件』の中にこの脇差の拵えについての記述がある。
渡邊登死骸改、歳四十八
一、 臍下 左之方より右之方へ横に六寸程引廻候。切疵壱ケ所。
一、咽 右之方より左耳之脇迄突貫、疵壱ケ所。都合二ケ所。
一、拵付脇差 壱腰
身長壱尺弐寸五分、銘東播士祐國。但血付有之 柄 鮫無之、小倉に而巻有之候。 目貫 金甲具、但登門所之由 鞘 革巻 鍔 鉄無地 縁頭 同 切羽 鎺金着せ
右之外疵無之。…
崋山が自決に使用した脇差は、明石藩松平家の藩士から贈られている。「隠士」とあり、家督を譲った隠居の武士であろうか。大野夕鴎は特定できないが、天保8年に医師の「大原道斎像稿」(天保2年11月と12月の書簡・全楽堂日録の文政13年10月晦日の条に登場)、天保年間に同じく医師の「竹中元真像」と、明石藩士の肖像画をいくつか描いている。田原蟄居中の書簡中にも明石侯こと播州明石藩主松平斉韶(なりつぐ)・斉宜(なりこと)父子についての記述がみられる。明石侯侍医藤村宗禎とも親しかった。明石藩は六万石で、田原藩上屋敷があった半蔵門外にあり、藩士との付き合いも多かった。