開催日 | : | 平成26年9月6日(土)〜10月19日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 企画展示室 |
渡辺崋山と椿椿山は師弟の関係にあります。この二人につき、影響を強く受けた画家達は「崋椿系」と称されます。明治時代の中頃まで椿山からその画系は直接伝わっています。
企画展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
市文 | 花鳥帖十二図 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | |
石譜 | 椿椿山 | 天保13年(1842) | ||
幽居記聞巻 | 椿椿山写しか | 江戸時代後期 | 個人蔵、渡辺崋山発送は天保11年8月 | |
過眼縮図 第壹 | 椿華谷 | 天保6年(1835) | 個人蔵 | |
過眼縮図 第貮 | 椿華谷 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
過眼縮図 第参 | 椿華谷 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
展観録 | 渡辺如山 | 天保3年(1832) | ||
客坐縮臨 | 渡辺如山 | 天保3年(1832) | ||
如山座録画 第十二 | 渡辺如山 | 天保2,3年(1831・32) | 個人蔵 | |
如山過眼録 第十 | 渡辺如山 | 天保6年(1835) | 個人蔵 | |
如山雲烟過眼 第十一 | 渡辺如山 | 天保7年(1836) | 個人蔵 | |
如山展観録 第十三 | 渡辺如山 | 天保7年(1836) | 個人蔵 | |
如山雲烟過眼 第十四 | 渡辺如山 | 天保7年(1836) | 個人蔵 | |
和楽堂談笑珠璣帖 | 野口幽谷 | 明治時代前期 | ||
張良抱上之図(画道名巻) | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | ||
翠陰消夏図 | 渡辺崋山 | 文政3年(1820) | ||
市文 | 水郷驟雨之図 | 渡辺崋山 | 文政9年(1826) | |
市文 | 青緑山水図 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | |
市文 | 林和靖養鶴之図 | 渡辺崋山 | 天保6年(1835) | |
墨竹之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
重文 | 渡辺崋山像(複) | 椿椿山 | 嘉永6年(1853) | |
市文 | 福田半香肖像画稿 | 椿椿山 | 嘉永4年(1851) | |
旭日鳳凰之図 | 平井顕斎 | 嘉永2年(1849) | ||
夏堂聴雨図 | 福田半香 | 弘化年間 | ||
桃に蘭図 | 小田莆川 | 江戸時代後期 | ||
月次風俗図屏風 | 山本琹谷 | 慶応3年(1867) | ||
芍薬之図 | 渡辺如山 | 天保6年(1835) | ||
柱かけ 墨竹図 | 渡辺如山 | 天保年間 | ||
扇面画稿 | 椿華谷 | 天保4年(1833) | ||
椿椿山像画稿 | 椿華谷 | 江戸時代後期 | ||
水指 公子図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
屠蘇之図 | 野口幽谷 | 明治21年(1888) | 個人蔵 | |
花篭四友之図 | 渡辺小華 | 明治8年(1875) | ||
梅・山水・松・漢詩貼交屏風 | 渡辺小華 | 明治8・9年(1875・1876) | 個人蔵 | |
老松図、松図屏風 | 渡辺小華 | 明治14年(1881) | 個人蔵 | |
扇面十図二曲一双屏風 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 個人蔵 | |
松巒湧雲 | 白井烟嵓 | 昭和11年(1936) | ||
峡壁飛泉 | 白井烟嵓 | 昭和23年(1948) | ||
山雨将来 | 白井烟嵓 | 昭和36年(1961) |
※リスト順と展示順は一致していません。
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。
● 野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。
● 福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 渡辺崋山 花鳥帖十二図
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 渡辺崋山 翠陰消夏図
北宗画的な山水図である。文政年間の縮図冊にも、室町幕府の御用絵師として活躍した画僧、周文(生没年未詳)や池大雅(1723〜76)らの山水図が多く見られる。款記に「法李青蓮」とあり、唐代の詩人李白(701〜762)の作品にならったものと考えられる。巧みに連続配置された遠山から中景の霞を経た遠近感と近景のリズミカルな並木越しの庵とのバランス感覚は素晴らしい。
近景から中景にかけての奥行に広がりのある雄大な構図、繊細な筆致で描かれた屏立した山水の景は深遠である。木々の葉、並木の間の小道、高士が見える川に突き出た庵、川に向かって落ちる瀑布、その全てが画面全体に統一感を与える重要なモティーフとなっている。
● 椿椿山 渡辺崋山像
外題には「崋山先生四十五歳象癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られる。この像には三回忌の年にあたる天保14年6月7日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化4年4月14・15日に描かれた画稿の存在が知られている。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めている。12年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝え、椿山自身もその出来栄えに満足したであろう。黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据えている。面貌は多くの画稿が存在することから、とくに精緻に描かれているが、衣服は簡略に写意的に描く。切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいる。机に置いた右手は異様なほど大きく描かれ、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようである。また、この像には公人、つまり武士の立場を演出する刀は描かず、衣服も含めプライベートな崋山の姿を写しているのである。
なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのであろうか。この翌年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたる。この一連の事情を知っている椿山は、その45歳の転機の姿をポートレートとして記録し、供養したとも考えられるのである。
● 椿椿山 福田半香像稿
稿は嘉永4年、半香(1804〜1864)48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。横に記された「明四日時」とはメモ書であろうか。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。
渡辺家の菩提寺でもある小石川善雄寺に所蔵される福田半香肖像と稿を比較すると、顔の部分でも耳や髪の表現はさらに描き込みが細かくなる。体の立体感は衣線や彩色がやや荒く、絹本に描かれているが、粉本などの所蔵印として使用される「琢華堂記」と刻された印が右下にあるが、他の印が捺されていないことと、逸話から考えると、正本が完成されなかった可能性もある。この作品の伝来も含めて検討していく必要があろう。崋山が自刃に至る因を作ってしまった半香は、死後、師の菩提寺に自分を葬るよう遺言した。また、「半香翁墓碣銘」と刻した墓標がわりの板碑もある。
● 平井顕斎 旭日鳳凰之図
鳳凰は古来中国で、麒麟・亀・龍と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥である。形は、前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、嘴は鶏に似、五色絢爛、雄を鳳、雌を凰という。旭日は朝陽のことで、いずれも吉兆画題である。波は谷文晁(1763〜1840)・椿椿山(1801〜54)にも類例が見られ、鳳凰も含めて「図取り」と考えられるが、その筆致は丁寧で、細密描写に顕斎の画力の充実ぶりが窺える。落款には「己酉肇秋寫 顕斎忱」とあり、嘉永2年7月の完成であることがわかる。天保12年の書簡で、崋山が顕斎について次のように述べている。「文人画に尤も長じ、其外何にても出来申さずもの無し」四十歳で既にどのような主題、筆法にも対応できたようで、幕末へ向けて多くの依頼画として描いた作品のひとつであろう。
● 福田半香 夏堂聴雨図
山間より流れ落ちる滝、激しく斜めに降り注ぐ雨、流れてくる渓流の中、一人使いの者であろうか、庵に向かって傘をさし橋を渡ってくる者がいる。その先の庵にはこの家の主人が横たわりこの急に降り出した水音を心地よく聴いている。涼しさも感じ始めたのであろう、従者も団扇を止め主人の様子を窺っている。この図をみていると、見ている側も滝、雨、川のそれぞれが醸し出す水音と木々の豊かな葉々に、自然とすがすがしい気分になってゆくのではなかろうか。この作品は、明代後期の呉派の文人画家である銭叔宝(1508〜72)の図を摸したものである。
● 野口幽谷 和楽堂談笑珠璣帖
12図から成っている画帖である。薄い水色を多用しているのが特徴である。珠璣(しゅき)とは宝玉のことである。愛知県豊橋市出身で幽谷の孫弟子となる白井烟嵓(1894〜1976)の旧蔵品であった。
● 渡辺如山 芍薬之図
落款に「法秋穀張氏之意 乙未嘉平 如山定固」とあり、天保6年12月に、張秋穀の画法に法って描いたものということがわかる。張秋穀はヲ南田の法にならった没骨体の花鳥画を日本に送り込んだ。本人が来日したかどうかは不明だが、天明6(1786)〜8年頃に長崎へ来訪していた張秋谷という画人があり、彼が帰国後、名を秋穀と改めたという説もある。日本でよく入手できた作家であったのか、椿山はよく写している。芍薬の花の表現はふわりとボリューム感があり、葉のたらし込みも見事で、完成度が高く、小品ながら、兄の崋山や師の椿山の勧めた没骨をよく受容し、画技も熟成されたことがわかる作品である。
● 白井烟嵓 峡壁飛泉
終戦を迎え戦災をのがれた東京都中野区野方の自宅に戻り、精力的に作品を描き始める。昭和21年の第1回から連続して日展に入選を続けている。画家としての評価も上がり、特選を取る前年の作品。戦後の日本画壇は日本風を排し、洋風画に傾倒するが、烟狽ヘ師の画風を継承し、水墨画を出品し続けている。
● 白井烟嵓 山雨将来
湧き上がる夏雲の白と近景に配された松の墨とのコントラストが見事である。