平常展 田原の美術〜描かれた田原

開催日 平成26年9月6日(土)〜10月19日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

田原市は、伊良湖岬や恋路ヶ浜、日出の石門などの景勝地に恵まれています。江戸時代に渡辺崋山が描いた『参海雑志』をはじめ平成にいたるまでの作品群で田原の魅力を探ります。

展示作品リスト

特別展示室
作品名 作者名 年代 備考
参河国田原城修復絵図   元禄13年(1700)  
参河国田原城修復絵図   正徳5年(1715)  
参海雑志(複) 渡辺崋山 大正9年(1920) 原本は天保4年(1833)
客坐掌記 渡辺崋山 天保4年(1833)  
田原城二ノ丸櫓写真   明治時代前期撮影  
吉田橋真景図 渡辺崋山 天保4年(1833)  
神島渡海之図 渡辺崋山 天保4年(1833)  
姫島馬図 三宅康明 江戸時代後期  
中部尋常高等小学校運動会 小澤耕一 昭和11年(1936)  
伊良湖岬 冨安昌也 昭和28年(1953)  
爪切場 大場厚 昭和20年代  
赤羽根海岸(一色の磯) 大場厚 昭和時代  
高松一色 中田恭一 昭和時代  
渥美町小中山の生家 川口四郎 昭和7年(1932)  
渥美の風景 仲谷孝夫 昭和24年(1949)  
崋山自刀の家 鶴田吾郎 昭和31年(1956) 個人蔵
赤羽根風景 鶴田吾郎 昭和31年(1956) 個人蔵
赤羽根越戸 鶴田吾郎 昭和時代 個人蔵
崖松涛風 平川敏夫 平成年間  
古き建物(雨後) 大岡澄雄 昭和60年(1985) 73回日本水彩展
夕照 伊良湖水道 大岡澄雄 平成18年(2006) 渥美半島を描く展
伊良湖岬 入江窈 昭和35年(1960) 渥美千景2
宮山 入江窈 平成5年(1993) 渥美千景32
伊勢湾フェリー(2) 入江窈 平成6年(1994)  
名鉄フェリー 入江窈 平成8年(1996)  
仁崎海水浴場 入江窈 平成8年(1996) 渥美千景373
赤羽根港 入江窈 平成9年(1997)  
恋路ヶ浜のはまゆう 入江窈 平成10年(1998)  
台風襲う弥八島 入江窈 平成11年(1999) 渥美千景389
尾張屋 加藤正 平成年間  
尾張屋 加藤正 平成6年(1994)  
潮みちる あらきひろみち 平成12年(2000)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

三宅康明 寛政12年(1800)〜文政10年(1827)

八代藩主康友の三男で、兄は九代藩主康和。江戸にて28歳で亡くなった。

小澤耕一 明治43年(1910)〜平成20年(2008)

渥美郡田原町萱町(現、田原市田原町)に生まれる。昭和4年、岡崎師範学校卒業。教師となり田原市内の小学校を中心に県内の小学校(田原地域中心)師崎第二小、田原西部小、田原中部小、田原高等技芸学校、田原南部小、赤羽根小、泉小学校に務める(〜昭和43年)。大正10年、成章中学に赴任し自宅に下宿することとなった細井文次郎につき素描・水彩・油絵を学ぶ。昭和8年、細井を顧問に小澤耕一・岡本恵司・松井勇・河辺春次が渥美半島における最初の画会となる「田原画会」を結成。翌年より田原中部小学校で展覧会を開催。昭和18年、戦時体制の強化等の事情により第8回をもって解散。昭和38年、田原町文化財保護審議会委員、以後、田原町史編集委員などの公職を歴任。昭和56年、田原町町政功労者表彰、平成10年には、勳5等瑞宝章を受賞。渡辺崋山の地元における研究の第一人者として知られる。

冨安昌也 大正7年(1918)〜平成25年(2013)

豊橋市に生まれる。昭和12年、東京美術学校油画科で藤島武二に学び、同16年卒業し従軍。昭和22年より豊橋中学校で美術教師をつとめながら豊橋文化協会理事となり多方面にわたり活躍。昭和26年、日本水彩展で初入選し三宅氏賞を受賞。同年、同会会員となる。以後、日本水彩展に出品を続けるほか、豊橋美術展、豊橋市民展などに出品、個展等も多数開催。昭和39年、教職を退き中部デザインセンターを設立。平成3年、日本水彩展で内閣総理大臣賞受賞。翌年、日本水彩画会評議員となり、平成6年には、同会理事。平成5年、豊橋文化賞受賞。平成9年、豊橋市美術博物館協議会会長となる。平成12年、豊橋市美術博物館で「冨安昌也展」を開催。平成15年、豊橋市勢功労者表彰。平成17年、東日賞受賞。平成25年、逝去。

大場厚 明治41年(1908)〜平成9年(1997)

渥美郡田原町大久保(現、田原市大久保町)に生まれる。昭和5年(1930)、岡崎師範学校専攻科卒業。昭和15年、二科展に初入選(以後同18年まで出品)を果たす。同年、正宗徳三郎、向井潤吉に師事。昭和20年より成章中学(のち高校)美術教諭となる(〜同37年)。昭和21年、向井潤吉の誘いを受けて行動美術協会結成に参加し会友となる。翌年、東海行動美術協会を結成。昭和30年、行動美術協会会員となり、以後同展の審査員を務める。昭和34年、向井潤吉、田中阿喜良とともに渡仏。昭和37年、パリス工芸株式会社設立。行動展に出品を続けるほか、豊橋を中心に個展開催。平成9年、逝去。平成18年、行動展出品作を中心とする作品の多くを田原市博物館に寄贈。

中田恭一 明治28年(1895)〜昭和35年(1960)

渥美郡大草村に生まれ、東京で教師をしながら、本郷洋画研究所に入所し、太平洋画会の石井柏亭・石川寅治に絵を学びます。三重県伊賀上野で教員となり、昭和2年の第8回帝展に初入選すると、3年連続で入選しました。のち教員を退職し、埼玉県川口市に移ります。第14回・15回帝展も入選、昭和15年の紀元2600年記念展覧会(第3回文展)に入選、昭和18年には、紀元2603年全日本水彩画記録画に推奨されました。翌年、大草に戻り、終戦。戦後、生まれ故郷の大草で風景や肖像画を描き続けました。

川口四郎 明治41年(1908)〜平成4年(1992)

渥美郡福江町中山(現、田原市小中山町)に生まれる。昭和3年、東京高等師範学校を卒業し、白日会展に出品。昭和13年から17年にかけて大潮会展で連続4回特選を受賞する一方で、昭和13年から38年までの文展や日展に15回出品を果たす。昭和16年から昭和39年までの間には、創元会展にも出品。昭和17年、大潮会賞、創元会賞をそれぞれ受賞。昭和22年、創元会会員(〜同39年まで)。昭和32年から昭和50年までに個展を7回開催。昭和38年には、日展で中日賞を受賞した。昭和42年から示現会会員(〜同50年まで)。昭和46年には、愛知教育大学を定年退官し、同大学の名誉教授、同年より昭和59年までは愛知淑徳短期大学教授を務めた。昭和54年、勳三等旭日中綬賞を受賞。昭和61年、渥美町郷土資料館特別展「郷土の画人展」に出品。平成3年、郷里渥美に一時帰郷するも翌年逝去。

仲谷孝夫 大正7年(1918)〜平成18年(2006)

渥美郡田原町西神戸(田原市神戸町)に生まれる。昭和14年、東海美術展に初入選し日本画協会賞を受賞。翌年、紀元2600年記念東海美術展で最高賞である日本画会頭賞受賞。昭和16年、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)卒業。翌年より福井の高等女学校で美術を教える。敗戦をきっかけに日本画から油彩画に転身。昭和22年、京都市立美術専門学校研究科を修了、帰郷して田原中学校の美術教師となる。昭和24年、中美展初入選。翌年、東三在野美術協会の結成に参加。昭和26年、行動美術展に初入選。以後、同展に出品を続ける。昭和32年、行動美術協会会友。昭和37年、県立成章高等学校の美術教師となる(〜同53年)。昭和45年、行動美術協会会員。昭和54年より豊橋技術科学大学(〜同60年)、県立保育大学校(〜平成4年)の非常勤講師をつとめる。平成13年、豊橋市美術博物館で「仲谷孝夫展」を開催。平成18年1月、逝去。平成21年作品が田原市へ寄贈され、「新収蔵〜仲谷孝夫展 愛と生」が開催された。

鶴田吾郎 明治23年(1890)〜昭和44年(1969)

東京牛込区に生まれる。父要太郎は農家の出身だが、宮内省大膳寮に勤めていた。だが明治29年の父の死に始まり、母、姉と多くの肉親を少年期までに失った鶴田はやがて画家を志すようになる。1905年に倉田白洋に学び、翌年姉達の援助をうけて白馬会研究所に入る。同期には中原悌二郎、高野正哉等がおり、少し遅れて中村彝が入ってきた。肉親との交わりが薄い境遇が似ていたからなのか、中村彝とは特に親しくなった。翌年には中原、中村とともに太平洋画会研究所に移る。次の年、川端龍子と知り合い、川端とも長い交友が始まる。大正元年(1912)から3年間程京城日報新聞社などに勤務して記者として活動。1917年、ロシア語を学んだ後に朝鮮、満州、シベリアを放浪する。その旅の途中、大連でウクライナ系のエンジニアであるニンツァと再会する。鶴田はニンツァが日本に行くことを知り、友人の高野正哉を紹介しておいた。その高野がニンツァを中村屋に連れていったことで、悌二郎が彼を知り、中村彝の画室を借りて、僅か2週間程の制作期間で、後頭部辺りは未成であるが、ともかく創り上げたのが、悌二郎の代表作となった《若きカフカス人》である。1920年3月帰国した鶴田は中村彝のアトリエの近くに住み、同年の秋に、盲目のロシアの詩人エロシェンコをモデルにして、その肖像を中村彝と競作した。両作品は第2回帝展に出品され、鶴田にとってはこれが初入選であったが、彝の作品は絶賛され、彝の代表作となった。1924年、その中村彝の最期を看とった鶴田は、葬儀から遺品の整理、遺作展の開催、画集、遺稿集の発刊などに尽力する。その後は再び写生の旅にもどり、ソビエト、北欧、ヨーロッパなど世界の各国を放浪した後、1969年東京にて死去。

平川敏夫 大正13年(1924)〜平成18年(2006)

宝飯郡小坂井町に生まれる。昭和15年、京都の稲石着尺図案塾に入門するも翌年、太平洋戦争が始まり帰郷。昭和22年、我妻碧宇の新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。昭和25年、豊橋美術展で豊橋市長賞、創造美術展に初入選を果たす。翌年には、創造美術が新制作派協会と合併し新制作協会日本画部となる。以後、同展に出品する。昭和29年、新制作展で新作家賞を受賞(33、37年も受賞)し新制作協会協友、昭和38年には、新制作協会会員となる。昭和49年、新制作協会日本画部が創画会として独立すると会員となり、同展に毎年出品。昭和56年の中日文化賞をはじめ数多くの賞を受賞。平成2年、豊橋市美術博物館で「平川敏夫展」を開催。平成7年、創画会運営委員長。平成16年には、桜ヶ丘ミュージアムで「幽艶なる樹々の鼓動−平川敏夫展」を開催。当初、樹木の生命力を象徴する独自の画風を確立、やがて色彩を排した水墨の世界へと移行した。渥美風景を取材して描かれた作品を多く発表。平成18年5月、逝去。

大岡澄雄 昭和10年(1935)〜

渥美郡伊良湖岬村堀切(現、田原市堀切町)に生まれる。県立福江高校在学中は美術部に所属、中部水彩展、中部美術展、豊橋市民展などへ出品。武蔵野美術学校中退。昭和32年、豊橋市民展で愛知県知事賞を受賞。同年、春陽会展、日本水彩画会展に初入選。昭和35年、日本水彩画会展で奨励賞受賞。翌年、同会無鑑査となる。昭和50年、日本水彩画会会友、太平洋展に初出品受賞し会友。翌年には、春陽会会友となる。昭和55年、日本水彩画会会員となり太平洋画会を退会。昭和61年、渥美町郷土資料館特別展「郷土の画人展」に出品。昭和63年、日本水彩画会評議員となる。平成2年、日本水彩画会で内閣総理大臣賞を受賞し翌年、同会審査員。平成8年、日本水彩画会監事、平成10年には、同会理事(常務)となる。平成11年、渥美町郷土資料館で「大岡澄雄展」開催。現在、日本水彩画展を中心に活躍。

入江窈 昭和7年(1932)〜平成20年(2008)

名古屋市に生まれる。
画家川口四郎を父にもつ。昭和27年、日展に初入選を果たす。昭和61年から3年間、中国に滞在して制作活動。平成元年には、北京国立中国美術館で個展を開催。平成3年、夫光太郎とともに父四郎を伴い渥美へ移住。平成4年、父逝去の際、年来肝臓を患う窈は、もう一度絵筆を取るように諭され、渥美100景を目標に作品制作を再開し伊良湖岬美術館を設立。翌年、体調の回復とともに、その制作目標を渥美1000景に切り上げる。平成7年、夫妻の最終課題となる渥美1000景目の制作を開始するも平成12年、病状が悪化し緊急入院、以後療養の日を送りながら作品の制作を続けたが、平成20年に逝去。

加藤正 明治43年(1910)〜

鬼頭鍋三郎の弟子、本田幸一に師事し、新軌会賛助会員。豊橋美術協会賞・三河美術協会賞新人賞等を受賞。田原市田原町東大浜在住であったため、田原の町中の風景画を多く描いた。

あらき ひろみち(荒木弘道) 昭和10年(1935)〜平成18年(2006)

渥美郡福江町中山(現、田原市中山町)で生まれる。昭和20年代に中部水彩展入賞、自由美術展に入選するも、以後美術団体展活動から離れる。その後、愛知県立高等学校教員として美術による教育に取り組む。一方で、渥美在住の文筆家杉浦明平書籍の挿絵などを描く。昭和61年、県立福江高校に赴任し、高校に隣接する渥美町郷土資料館にて昭和63年より「福江高校美術部OB展」を毎年開催出品、顧問として会の中心的な役割を担う。近年地元を拠点に個展を開催。豊橋での展覧会には、楕円を構成の主体とする象徴的抽象作品を発表、渥美の展覧会には、出来る限り現実の風景の印象を大事にした作品を発表している。平成18年8月、急逝。

作品解説

参海雑志

渡辺崋山が天保4年(1833)4月15日に田原から渥美半島を西進し、伊良湖、神島を旅した記録をまとめた冊子である。『全楽堂日録』『客参録』に続く紀行である。神島に一泊した後、渥美半島に戻り、大垣新田藩の陣屋を写生し、その後、佐久島、吉良の華蔵寺などの写生がある。「赤羽根遠見番所」「小(古)山ノはな」「神島渡海」などが描かれる。「伊良虞人」「神島船をあぐる図」など当時の漁民風俗を記録したものとしても貴重である。

参河国田原城修復絵図

江戸時代には、武家諸法度により城の災害等の破損修復でも、幕府に申請する必要があった。絵図と願書を提出して、審査を受け、許可を受けた後に着手される。これらの絵図は藩に控として残ったものである。
元禄13年は石垣修復、正徳5年は土居の修復である。

田原城二ノ丸櫓写真

田原城には、天守はなかったため、この櫓がそれにかわるものであった。廃藩時に解体されたときの記録では、大きさは3間×5間(約5m×9m)で、長方形であった。崋山が天保4年に描いたスケッチによると櫓の壁は黒い下見板が張られたつくりで、明治に撮られた写真を絵ハガキにしていたため、見ることができる。1層目には、入母屋の破風がついた出窓がつけられている。現在の建物は、昭和30年に、文化財収蔵庫のために建設されたもの。二の丸櫓の石垣、二の丸櫓の東面の石垣は、南半分と北半分で積み方が違い、南側の石垣は、水平に積まれているが、北半分は、小型の石をV字に斜めになるように積んでいる。なお、北側の石垣は、安政の大地震(1854)の時に崩れて積みなおされたものである。

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