平常展 渡辺崋山の師

開催日 平成26年7月19日(土)〜8月31日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

崋山の絵画の師としては、最初、田原藩士平山文鏡(1732〜1801)、後に白川芝山(1759〜1850)、金子金陵(?〜1817)、江戸文人画の大御所谷文晁(1763〜1840)がいます。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  松島図巻 谷文晁 天明7年(1787) 版本
  画学斎図藁 谷文晁 文化9年(1812)  
  谷氏画纂 谷文晁 渡辺崋山註 文政年間  
  隷書七絶扇面 立原杏所 江戸時代後期  
  牧童之図(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(18332)  
  高士読書(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(18332)  
  高士渡水(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(18332)  
  童児遊亀(画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(18332)  
◇渡辺崋山の師
  寿老像 平山文鏡 江戸時代中期 個人蔵
  花鶏図 金子金陵 寛政7年(1795)  
  天香玉兎之図   金子金陵 江戸時代後期  
  鸚鵡之図 金子金陵 江戸時代後期  
  御殿猫草花図 金子金陵 江戸時代後期 個人蔵
  秋景山水図(秋山孤亭図) 谷文晁 天明年間  
  金碧群仙之図 谷文晁 文化年間  
  李白観瀑図 谷文晁 文化年間  
  山水之図 谷文晁 江戸時代後期  
  墨竹図  谷文晁 江戸時代中江戸時代後期期  
◇谷文晁の弟子たち
  秋草扇面之図 谷幹々 江戸時代中期  
  花鳥図 谷幹々 江戸時代中期  
重文 孔門十哲像 顔回(子淵) 喜多武清 佐藤一斎賛 文化13年(1816)  
重文 孔門十哲像 端木(子貢) 林半水 亀田鵬斎賛 文化14年(1817)  
  七福神 谷文晁 渡辺崋山 喜多武清 依田竹谷 相沢石湖 春木南溟 遠坂文雍 天保9年(1838)  
  黄花白頭翁 高久靄厓 天保8年(1837)  
  夏山水之図 高久靄厓 江戸時代後期  
  関帝像 渡辺崋山 文化9年(1812)  
重美 佐藤一斎像稿 第二稿(複) 渡辺崋山 文政年間 原本は個人蔵
重美 佐藤一斎像稿第十一稿(複) 渡辺崋山 文政年間 原本は個人蔵
重美 松崎慊堂像稿 その一(複) 渡辺崋山 文政年間 原本は個人蔵
重美 松崎慊堂像稿 その二(複) 渡辺崋山 文政9年(1826) 原本は個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。

金子金陵 生年不詳〜文化14年(1817)

旗本寄合席大森勇三郎の家臣で、名を允圭、字は君璋、通称を平太夫、別に日南亭と号す。画を谷文晁(1763〜1840)に学んだといわれ、沈南蘋(1682〜?)風の花鳥画を得意としていた。諸葛監(1717〜1790)、宋紫石(楠本雪渓、1715〜1786)、旗本の董九如(1745〜1802)に学んだとする説もある。大森家には安永年間 (1772〜1781) に田原藩主三宅康之(1729〜1803)の三女お滝が嫁いでいる。崋山自筆の『退役願書稿』(重要文化財、田原市蔵)によれば、白川芝山の画塾の授業料が払えなくなり、父の勧めで金陵の弟子になったとある。崋山の文化12年の日記である『寓画堂日記』や同13年の『謾録』にも、金陵の記述が度々見られる。渡辺崋山・椿椿山・滝沢琴嶺(馬琴の長男1798〜1835)の師として知られる。

喜多武清 安永五年(1776)〜安政3年(1856)

江戸に生まれ、名は武清、通称は栄之助、字は子慎、号は可庵、別に五清堂・一柳斎・鶴翁という。谷文晁の門人で、江戸八丁堀に住み、渡辺崋山とは二十歳代からの親友である。文化13年(1816)の渡辺崋山、24歳の日記『崋山先生謾録』にも名が記されている。狩野探幽(1602〜1674)を慕い、花鳥画、人物画を得意とし、古画の摸本を多く所蔵していた。文政12年(1829)江戸大火の時、崋山は武清宅に駆けつけ、彼の摸本類を避難させたが、上北八丁堀の桑名侯邸裏で火に囲まれ、九死に一生を得たと曲亭馬琴(1767〜1848)宛の手紙(田原市博物館蔵)に書いている。  大坂城落城の際の事実談を記録した『おあん物語』『おきく物語』には、それぞれ喜多武清と渡辺崋山が挿絵を提供している。山本北山(1752〜1812)の門人で、江戸で塾を開いていた儒学者朝川善庵(1781〜1849)が天保8年(1837)に跋文を書き、個別に版行され、後に合装された。読本の挿絵や美人画なども描き、古画の鑑定や摸写もすぐれ、作品としては、重要文化財である渡辺崋山関係資料の中に、田原藩校成章館に伝わった『孔門十哲像』の内、『顔回像』(文化13年)がある。この作品には佐藤一斎の賛が添えられている。また、無落款であるが、『山本北山画像』(東京国立博物館蔵)が知られる。鏝絵の名工として評価される入江長八(1815〜1889)が漆喰に絵画技法を取り入れるために学んだ師でもある。挿絵を提供した本に『萍の跡』『優曇華物語』『絵本勲功草』『可庵画叢』『近世奇跡考』などがある。

亀田鵬斎 宝暦2年(1752)〜文政9年(1826)

江戸神田に日本橋馬喰町鼈甲商長問屋の通い番頭の子として生まれ、名は長興、字は図南・?竜、通称文左衛門、鵬斎、善身堂などと号した。折衷学派の井上金蛾(1732〜84)に師事し、古文辞学を排撃した。同門の山本北山(1752〜1812)と親しく、江戸学界の五鬼に数えられた。寛政異学の禁で弾圧を受け、晩年は酒にひたった。門下からは巻菱湖・館柳湾ら優れた人材が多く出た。晩年下谷金杉に移り住み、酒井抱一・谷文晁・太田南畝ら多くの文人達と交友した。

作品紹介

谷文晁 松島図巻

宮城野(現仙台市宮城野区)のあたりから始まり、松島湾の島々から高城駅までを俯瞰的描写で正確に板刻したものである。その後、多くこの地を描き続ける。

谷文晁 画学斎図藁 

文晁は白河藩主松平定信付の御用絵師であった。文化年間(1804〜1818)前半も、公務に多忙であったが、この年、定信は隠居し、楽翁と号し、江戸築地の欲恩園に転居している。文晁が定信の付人を免ぜられた年である。この資料は180丁以上に及び、題箋は「画学斎図藁」と印刷されたものが貼り込まれている。文晁自身が作らせた題箋かは不明だが、年に数冊のペースで制作されるとすれば、必要であったかもしれない。1丁目表の扇面形の余白には『正月九日』、1丁目裏には「正月十一日」の記述が見られる。1月15日には文化4年にも描いた『八大竜王図』(東京都済松寺蔵)と同構図の縮図がスケッチされている。注文画の控が多いが、2月4日には白文方形印の「文晁之印」と朱文方形印の「画学斎」、朱文長方印の『重陽生』(文晁は9月9日生まれ)が捺され、「重陽生」の横には「銅印 像鈕」「熊山篆」の添え書きも入れられ、入門者の記録や覚え的な事項も書かれている。前半に多少月日の交錯と考えられる場所も散見され、後世の綴り替えの可能性もあるが、概ね正しく月日が記入され、末尾近くでは7月の記述があり、これだけの作品群を半年強でこなしたというのは、驚くばかりである。『田原市博物館館蔵名品選第2集』に全図版が見られるCD-ROMが付録として付いている。

金子金陵 天香玉兎之図

本来こんなひねり方はできないと思われるが、兎がくるりと首をひねらせてお月様を眺めている。右上からは、木蓮の枝が二手に分かれて下りてきており、その二つの枝の間に木の幹が描かれることにより画面に奥行きが出来、空間が生まれている。空間構成は虚で沈南蘋派の部分的な写実から画面が静止した様な感を受ける。 画題の「天香玉兎」とは、桂花(木蓮)と兎のことである。桂花は月宮殿に開く花のことで、玉兎は月の異名である。桂花、兎どちらからも導かれる月が、つつましやかに右上に描かれている。江戸時代の人々はこの絵がなにを表しているのか謎解きをして、楽しんでいたのであろう。

谷文晁 秋景山水図(秋山孤亭図)

落款に「山東谷文晁」を用いていることから天明年間(1781〜89)の作例と考えられる。天明年代は、文晁の修行時代に属し、試作的で、筆力もしまらないという意見もあるが、寛政期の清澄、繊細、高雅という印象にあまりに影響されている。手本があるのではあろうが、思い切りのよいその力強い線描は、後半期の文晁作品への予感を感じさせる。遊印に「天開図画」の印を使用しているのは、雪舟への憧れと尊敬の気持ちを発露したものか。

谷文晁 李白観瀑図

李白(701〜762)は、唐の詩人で、四川の人。その母が太白星を夢見て生んだので太白を字とした。酒を好み、奇行が多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に関係して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝えられる。杜甫と共に並び賞された詩人。李白が瀑布を見て、詩想を練っている様子を描いている。滝を見上げる人物を描く作品には「高士観瀑図」と題されるものもあるが、従者を横に配しているため、「李白観瀑図」と考えられる。 落款の「文晁」の字から文化年間(1804〜18)で、文化4年から5年頃の作例と考えられる。墨色の諧調が増殖していくと、のちの烏文晁時代のあふれるばかりの躍動感ある作品となる。

谷文晁 墨竹図

落款は「文晁寫」とあり、「蝶老」と読める瓢形印を捺す。落款の文字から推測すると、文政年間半ばの作品と考えたい。近くにある竹を描いた墨は濃く、重なっているが、奥にある竹は薄い墨で描かれている。勢いよくリズミカルに引かれた墨が心地よく感じられる。

谷幹々 花鳥図

16歳で谷文晁に嫁いだ幹々の絵の師は夫であった。残念ながら30歳で亡くなっている。小点の山水図か、花鳥図が多いが、この作品では色鮮やかな鳥を中心に、輪郭を描かずに一気呵成に作品を仕上げる。男性的にダイナミックな作品が仕上がっている。

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