平常展 文人画家が描く春夏

開催日 平成26年5月31日(土)〜7月13日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

日本では、四季の移り変わりを楽しみ、文人画家たちの作品でも季節を画題の中に表現する作品があります。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
市文 四季山水画冊 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第1集24
  四君子冊 渡辺崋山 江戸時代後期  
  四季草花図巻 椿椿山 江戸時代後期  
  花卉果蔬巻 椿椿山 江戸時代後期  
  花卉画巻 田能村竹田 江戸時代後期  
  春景逸思図 釧雲泉 文化5年(1808) 館蔵名品選第1集43
  夏山聴雨図 釧雲泉 文化5年(1808) 館蔵名品選第1集43
  四季山水屏 春(複) 王時敏    
  四季山水屏 夏(複) 王時敏    
  花乃山(複) 渡辺崋山 天保年間  
市文 春秋山水図 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集31
  滝山水図 亀田鵬斎 文化14年(1817) 館蔵名品選第2集49
  渓山深趣図 桜間青_ 天保7年(1836) 館蔵名品選第1集58
  桃李園夜遊図 渡辺崋山 天保2年(1831) 館蔵名品選第1集40
  秋江山水図 椿椿山 江戸時代後期 館蔵名品選第1集40
  石榴芍薬白頭図 渡辺如山 天保2年(1831) 館蔵名品選第1集40
  青緑山水図 渡辺崋山 江戸時代後期 館蔵名品選第2集34
  四君交結図 渡辺小華 慶応2年(1866) 館蔵名品選第2集34
  大洗海面怒涛図 立原杏所 天保4年(1833) 館蔵名品選第1集48
  春江山水図 福田半香 安政5年(1858) 館蔵名品選第2集63
  柳香飛燕図 渡辺小華 明治17年(1884)  
  臘梅水仙図 渡辺小華 明治時代前期  
  竹林驟雨 白井烟_ 昭和25年(1950)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

田能村竹田 安永6年(1777)〜天保6年(1835)

名は孝憲、字は君彜、俗称は行蔵、別号は九畳外史 田舎児等多数ある。豊後国竹田村(現在大分県竹田市)岡藩の藩医の次男として生まれ、藩に仕えたが、37歳で致仕する。儒学や詩文を学び、画は主に中国明時代の南宗画を研究し、竹田独自の様式をつくりあげた。その画風は温和で真摯で、竹田の誠実な人柄が映し出されているようである。画家としての他、彼は塡詞、茶道等にもくわしく、頼山陽、篠崎小竹、小石元端、雲華上人等と交友し、また論画家としても知られ、『山中人饒舌』、『竹田荘師友画録』等の著作も多い。日本の文人画家の中にあっては、詩書画三絶の典型的な文人としてきこえ、風雅に満ちた品格ある精緻な作品は類を見ず魅力的である。

釧雲泉 宝暦9年(1759)〜文化8年(1811)

備前島原(長崎)に生まれ、幼い頃、父と長崎へ行き、中国語と画を学ぶ。名は就、通称は文平。山水画を得意とした。寛政年間(1789〜1801)には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴した。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後、江戸に移り、亀田鵬斎(1752〜1826)・大窪詩佛(1767〜1837)などと交流。文化三年以降越後(新潟県)をたびたび訪ね、越後出雲崎で客死。

王時敏 (1592〜1680)

中国、江蘇省出身。字は遜之。号は烟客、西廬老人ほか。明末の宰相王錫爵の孫、翰林編集王衡の子。父祖の功績により太常寺少卿となったので 王奉常と呼ばれる。董其昌(1555〜1636)に師事し、南宗画を学ぶ。清初めの文人画壇の指導的役割を果たした。

桜間青p 天明6年(1786)〜嘉永4年(1851)

三河国岡崎藩主本多忠顕(1776〜1838)の家臣桜間出右衛門能保の次男として江戸本郷の本多家下屋敷に生まれる。天保5年(1834)桜間の支家である藤兵衛を継いだ。画を片桐桐隠(1759〜1819)に学び、椿椿山(1801〜54)とも交遊した。酒席でのエピソードもありますが、生来の天真爛漫な性格から人に憎まれることはなく、崋山は「山水は青pに及ばない」と言わせたほど山水画を得意とした。

渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜54)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに七歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

立原杏所 天明5年(1785)〜天保11年(1840)

水戸藩の彰孝館総裁立原翠軒(1744〜1823)の子として、水戸に生まれる。 名は任、字を子遠、甚太郎(のち任太郎)と称し、東軒、杏所、香案外史などと号した。19歳で家督を継ぎ、小姓頭にすすんで禄二百五十石を給せられた。有能な藩士として徳川斉昭(烈公1800〜1860)の信任が篤かった。父翠軒は学者として名を成し、『大日本史』編纂の大事業にあたった、その父について幼少から学を修めた。また翠軒は、水戸における文化的側面の中心的存在、学者、文人との交流も深く、杏所にも大きな影響を与えた。
画は林十江(1777〜1813)に学んだのち谷文晁(1763〜1840)に師事した。花鳥画、山水画ともに優れ、画風は平明で瀟洒なその高潔な人となりをあらわす作品が多い。そのいっぽうで自由奔放に筆をふるった「葡萄図」(重要文化財)のような作品もある。また篆刻、画の鑑識に長じていた。渡辺崋山、椿椿山(1801〜54)と親しく、崋山の入牢・蟄居の際、椿山とともに救援活動の中心として活躍した。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

白井烟 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)

豊橋市花田町に生まれました。華椿系の流れを受けた松林桂月(1876〜1963)に師事し、大正9年第2回帝展に初入選し、戦後は日展に出品しています。昭和35年(1960)、日本南画院創設に参加し、理事を務め、「秀孤松」は文部大臣賞を受けます。豊橋文化賞を受け、田原町町政功労者としても表彰されました。

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