開催日 | : | 平成26年2月22日(土)〜4月6日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山の弟子たちは、江戸で崋山に絵を学びました。亡くなった後もその画系は弟子であった椿椿山をはじめとした遠洲や三河の画家たちに伝えられました。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
桜人参図扇面 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | ||
興到筆随帖 | 福田半香 萩原秋巌 書 |
天保13年(1842) | 館蔵名品選第1集67 | |
萬里長江巻 | 井上竹逸 | 明治11年(1878) | 館蔵名品選第2集68 | |
元高彦敬米法山水巻 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
ニ仙雙立扇面 | 椿椿山 | 江戸時代後期 | ||
百子留芳図扇面 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | ||
夏山欲雨図 | 渡辺崋山 | 文政3年(1820) | 館蔵名品選第1集4 | |
竹渓六逸之図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 館蔵名品選第1集12 | |
唐美人之図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 館蔵名品選第2集26 | |
重美 | 猫図(複) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 原本は個人蔵 |
伯夷像 | 椿椿山 椿蓼村賛 |
嘉永元年(1848) | ||
山水雪霽清話図 | 平井顕斎 | 弘化4年(1847) | 館蔵名品選第1集80 | |
富貴木蓮図 | 福田半香 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第1集73 | |
菊花湖石図 | 福田半香 | 安政2年(1855) | 館蔵名品選第1集68 | |
怒濤之図 | 福田半香 | 万延元年(1860) | 館蔵名品選第1集70 | |
于公高門図 | 井上竹逸 | 安政5年(1854) | 館蔵名品選第1集87 | |
秋景山水図 | 井上竹逸 | 元治元年(1864) | 館蔵名品選第1集86 | |
花鳥図 | 小田莆川 | 弘化元年(1844) | 館蔵名品選第1集84 | |
松に孔雀図 | 小田莆川 | 江戸時代後期 | ||
秋景山水之図 | 斎藤香玉 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第2集73 | |
山水図 | 斎藤香玉 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
野菊図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第1集91 | |
漁夫図扇面 | 永村茜山 | 文久元年(1861) | 館蔵名品選第2集71 | |
崋山模写雪芦孤雁図 | 椿華谷 | 天保12年(1841) | ||
帰去来 | 椿華谷 | 弘化元年(1844) |
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
● 井上竹逸 文化11年(1814)〜明治19年(1886)
名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保十年(一八三九)から十二年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(一七九八〜一八六六)に学んだ。十二年五月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(一七六三〜一八四〇)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永二年(一八四九)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)
名は忱、字は欽夫、通称は治六、40歳ころから三谷山樵という別号も名乗った。遠江国榛原郡川崎村(現在の牧之原市細江字青池)の豪農・平井家に生まれた。文化10年(1813)、12歳のころに谷文晁門下で掛川藩の御用絵師・村松以弘に入門して絵を学んだ。兄政次郎の没後に家督を継いだが、文政10年(1827)に江戸に出て、谷文晁に弟子入りした。その後、関東の各地を遊歴している。崋山に弟子入りしたのは天保7年(1836)、同じ遠江出身の福田半香(1804-64)の紹介によるものと伝えられる。天保9年に描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫美術館蔵)は顕斎に贈られたものである。崋山の死後は郷里を中心に活動し、山水画を最も得意としたが、師崋山の作品模写なども積極的に行った。このほか、花鳥画・人物画などにおいても画才を発揮している。また、円成寺(静岡県指定文化財、牧之原市細江)にある『十六羅漢図』は、顕斎が崋山の霊を供養するために描いたものであるといわれている。
● 小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)
上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜1884)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)
永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりて一人立ちすると、華谷は椿山の得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 福田半香筆・萩原秋巌書 興到筆随帖 天保13年(1842)
この書と画が五枚ずつ描かれた画帖は山水画を福田半香、漢詩の書を萩原秋巌(はぎわらしゅうがん・1803〜1877)が書いた作品である。秋巌は、宋の徽宗皇帝(1082〜1135)の痩金書を好んだ。半香は崋山の門下生であった。天保4年(1833)に崋山と出会っている。そして翌年、江戸へ行き、崋山門の扉を叩いた。崋山に入門した後、椿椿山(1801〜1854)の花鳥画のすばらしさに目を見張り、自分は山水画に専念しようと決意をした。その中で半香は崋山を救うために開いた絵画会で逆に崋山を苦しめる事となってしまった。
崋山は天保12年(1841)、自害した。半香は失意のなか、自分を責めながらも、崋山や倪元璐(げいげんろ・1593〜1644)、費漢源など明清画人の作品から基本を学んだ。この画帖は、崋山自害の翌年、天保13年(1842)1月に描かれている。悲しみの後の静かな透明感に満ちた気持ちからか、柔らかで優しく、またおおらかさも感じさせる作品である。
この画帖は半香の門人、小栗松靄(おぐりしょうあい・1814〜1894)のために描かれたものである。松靄の一家は文墨の士が多く、多くの文人墨客が旅の途次に小栗家を訪ねており、遠州で松靄を訪れずに過ぎることはなかったと言われている。この桃源郷の風景を描いたと思われる画帖を眺めながら、半香も十才年下の松靄と楽しく心温まるひとときを過ごしたのではないだろうか。
● 渡辺崋山筆 竹渓六逸之図 文政年間
付属の箱書に崋山の画弟子として知られる椿椿山(1801〜1854)の直筆で「趙松雪竹渓六逸 護持院什物崋山先生摸」とあり、「椿山椿弼鑒蔵図書」の印が押される。趙松雪は、宋の太宗の血を引き、詩文に優れ、元朝に仕え、馬を巧みに描く画家としても聞こえた趙子昂(1254〜1322)の作品を摸写したものであることがわかる。作品の摸写としては、非常に精緻なもので、画面の虫食いまでも写し取っている。崋山の当時の画力が相当な力量であることがうかがえる。
● 椿椿山筆・椿蓼村賛 伯夷像 嘉永元年(1848)
伯夷は、古代中国殷の時代、孤竹国の王子で、儒教では聖人とされる。名は允・字は公信。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位につくことを良しとせず、兄に位を継がそうとした。そこで、伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。兄弟は、周の文王の評判を聞き、周へ向かうが、この頃、既に文王は亡くなっていた。文王の息子、武王が殷の王を討とうと、進軍する最中であった。父の死後、間もないのに、主君である殷の王を討つのは、不忠であると、説いたが、聞き入られなかった。この後、二人は、周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、武王が新王朝を立てたときは首陽山に隠れ、山菜を食べていたが、最後には餓死した。
賛を書いた椿蓼村(1806〜1853)は、書家として知られた。通称は亮左衛門。蓼村の娘は椿山の長男、華谷(1825〜1850)に嫁ぎ、一女をもうけた。
● 平井顕斎 山水雪霽清話図 弘化4年(1847)
全体に淡墨を施し、雪景色を表現するために最小限の点苔を置く。明代の文徴明(1470-1559)や清代の文人画家王石谷(1632-1717)の雪景図風作品で、谷文晁(1763-1840)や崋山を通してこういった南宗画風を学んだものと思われる。
「雪霽」とは雪がやみ、晴れ上がってきたことをいい、「清話」とは、世俗を離れた高尚な話のことである。太陽の光が当たった雪原のまばゆいばかりの白さが表現されている。中央やや下の庵には人物が二人描かれているが、まさにその静けさは世俗から遠く離れている。
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● 井上竹逸 秋景山水図 元治元年(1864)
蛮社の獄以前に渡辺崋山についたが、初め谷文晁につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。嘉永二年(一八四九)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。その頃の作品である。落款には「甲子晩秋寫於松吟舎竹逸琹士」と読める。「松吟舎」が竹逸の堂号であるかは不明である。嘉永三年には「九霄琴室」という堂号の作品も知られる。川のほとりにたたずむ庵には四人の人が描かれる。はるかに続く川面にはゆったりと浮かぶ帆船が二艘見えている。画面構成も雄大で、その頃の安定した生活を感じさせる。