平常展 愛知県美術館サテライト展示 東三河ゆかりの作家

開催日 平成25年7月13日(土)〜9月8日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

展示作品リスト

企画展示室2
No. 作品名 制作年 形状材質等 作者 出身地 生没年 備考
1 1967年 油彩麻布 伊藤勲志 豊橋市 1920年〜 ?  
2 蝙蝠の翔ぶ風景 1978年 油彩麻布 小川 智 田原市 1926年〜 ?  
3 地引網 1962年 紙本着色 伊東隆雄 豊橋市 1928年〜  
4 蘇州追憶 1980年 紙本着色 森 緑翠 東京都 1917年〜1999年  
5 1990年 紙本着色 嶋谷自然 鳥羽市 1904年〜1993年  
6 ピエロ 1963年 紙本着色 中村正義 豊橋市 1924年〜1977年  
7 舞妓 1974年 紙本着色 中村正義 豊橋市 1924年〜1977年  
8 正夢か 1981年 紙本着色 星野眞吾 豊橋市 1923年〜1997年  
9 残照の海 1975年 油彩麻布 尾崎良二 鳥羽市 1934年〜 前期展示(8/11まで)
10 惜陽の海(伊良湖) 1975年 油彩麻布 尾崎良二 鳥羽市 1934年〜 木村定三コレクション
後期展示(8/13から)
11 伊良湖 恋路ヶ浜   水彩紙 尾崎良二 鳥羽市 1934年〜 木村定三コレクション
前期展示(8/11まで)
12 岬の茅花(伊良湖)   水彩紙 尾崎良二 鳥羽市 1934年〜 木村定三コレクション
後期展示(8/13から)

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者解説

伊藤勲志

大正9年、豊橋市に生まれる。本名は勲次。豊橋中学校在学中に細島昇一に絵の指導を受ける。昭和16年、東京美術学校図画師範科を卒業し、北海道小樽市の中学校で美術教師となるも翌年には帰郷し、愛知県内の中学校・高等学校で教鞭をとった。昭和26年から昭和30年までは、田原市内の県立福江高等学校に美術教師として勤務し、赴任した年には、「美術クラブ」を創立し、自ら顧問となって油絵制作など活発な活動が行なわれた。昭和27年、第29回春陽展に初入選すると同展に出品を続けながら昭和42年の第63回太平洋展では奨励賞を受賞して、太平洋美術会の会員となる。昭和52年、第73回太平洋展で会員秀作賞を受賞。昭和55年、豊橋市美術博物館で伊藤勲志油絵展を開催。翌年、紺綬褒章を受章。平成4年、愛知県美術館ギャラリーで開催された「東海の作家たち展」にも出品。平成7年には、太平洋美術会を退会している。

小川智

大正15年、田原市小中山町に生まれる。昭和20年、愛知第二師範学校(現在の愛知教育大学)を卒業。昭和27、28、29年と中部二紀賞(最優秀賞)を受賞。昭和31年には、二紀展にて褒賞を受け、昭和33年二紀会同人に推挙される。昭和36〜38年には、東京国立近代美術館にて開催された安井賞候補新人展に出品。昭和41年、二紀会会員に推挙された。昭和47、48年、国際形象派展に招待出品。昭和40年〜57年にかけて、世界約80ヶ国を美術行脚旅行。昭和59年には、中日新聞連載「ゆかたがけの神父」の挿絵を担当した。二紀会審査委員、納庫芸術村村長、竜紀会会長などを歴任。本市出身の異才の画家である。

尾崎良二

昭和9年、三重県鳥羽市に生まれる。昭和24年頃、働きながら夜間の工業高校在学中に出会った美術教師がきっかけで愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)に進学した。昭和34年から昭和46年まで独立美術協会会員として作品を発表。昭和37年には、渡欧し翌年帰国。昭和39年から昭和54年まで東京・大阪・名古屋で毎年個展を開催。昭和46年には、ニューギニア・オーストラリア・ニュージーランドを取材旅行。昭和55年以後は、日本国内の各地を取材し、作品を制作しながら個展を開催。氏の作品は、パステル基調のやわらかい色使いが特徴である。

森緑翠

大正6年、東京都江東区に生まれる。本名は博。昭和5年、中村岳陵に師事し蒼野社に入門。昭和10年の院展、12年の新文展に初入選、昭和18年の新文展では、特選となる。前年の17年より一采社同人、昭和22年には、日展に初入選を果たし、日展・一采社展をその活動の拠点とする。昭和24年、肺結核が悪化し制作活動を中断。翌年、中村正義や浅田蘇泉夫妻の尽力により渥美郡泉村石神(田原市石神町)で転地療養。昭和32年、豊橋市に転居。昭和34年、新日展で特選、翌年無鑑査となる。昭和35年、蒼野社を脱退。その翌年に我妻碧宇・浅田蘇泉・伊東隆雄・永井繁男らと白士会結成。白士会展を中心に出品を続けるほか、中部選抜展、中日展など当地方の展覧会を中心に活躍。昭和52年、白士会顧問。昭和55年の豊橋文化賞をはじめ多くの賞を受賞。昭和61年、渥美町郷土資料館特別展「郷土の画人展」に出品。平成6年、豊橋市美術博物館で「森緑翠展」を開催。平成11年、逝去。平成18年には渥美郷土資料館特別展「渥美半島を描く」に出品している。

伊東隆雄

昭和3年、豊橋市に生まれる。昭和23年、中美展に初入選。同年、市立南部中学校に勤務するも翌年画業に専念するため退職。昭和25年には、日展に初入選(以後10回連続入選)を果たす。昭和27年、中村岳陵に師事し蒼野社に入門。昭和35年、蒼野社を脱退。その翌年に我妻碧宇・浅田蘇泉・永井繁男・森緑翠らと白士会を結成する。以後、白士会展を中心に出品を続けるほか、サロンド・パリ展、韓日精鋭作家展、ニューヨーク国際美術交流展、国際アーティストフェア、中部総合美術展などに出品、多くの賞を受賞。現在、白士会委員。平成18年には渥美郷土資料館特別展「渥美半島を描く」に出品した。昭和30年頃まで盛んに行われていた表浜(太平洋側)の地引網の風景をテーマとした多くの作品を描いている。

嶋谷自然

明治37年、三重県鳥羽市に生まれる。大正11年、上京し、矢沢弦月に師事し書生として矢沢家に暮らす。昭和4年、第10回帝展に初入選。昭和6年、京都の西山翠嶂が主宰する画塾青甲社に入塾し、名古屋市に移住。昭和21年の第1回日展で入選した翌年、知多市に移住。昭和25年、第6回日展にて特選・白寿賞を受賞し、日本画研究グループの一采社に入る。昭和27年、再び名古屋に移住。昭和30年には、日展の審査員、昭和33年に会員となり、以後たびたび審査員を務め、昭和43年に日展評議員となった。昭和45年、名古屋芸術大学教授。昭和52年、愛知県表彰(文化部門)、昭和54年の日展にて文部大臣賞、翌年から日展参与に推挙され、勲四等瑞宝章を受章した。平成5年、逝去。

中村正義

大正13年、豊橋市に生まれる。豊橋市立商業学校を中退し、夏目太果、畔柳栄らに日本画を学ぶ。昭和21年より中村岳陵に師事し、蒼野社に入門し、日展や院展に出品。昭和24年には、一采社同人となる。日展では、作品が2回特選となり、昭和35年には、審査員も務めるなど、その前途を期待されたが、翌年、日展を退会。これを機会に伝統的な形象を否定し、ボンドや蛍光塗料を用いた激しい作風へと変化した。以後、川崎市に移住すると、現代日本美術展、日本国際美術展などに出品した。昭和49年には、星野眞吾らと从会を結成。その晩年は、病魔と闘いながら作品を描き続けた。昭和52年、52歳の若さで逝去。回顧展が豊橋市美術博物館や神奈川県立近代美術館などで開催されている。昭和63年、川崎市の自宅に中村正義の美術館が開館している。

星野眞吾

大正12年、豊橋市に生まれ、豊川市で幼少期を過ごす。昭和19年、京都市立絵画専門学校図案科を終了後、同校日本画科へ再入学。昭和23年、卒業して教師となる。三上誠・山崎隆らと前衛グループ・パンリアル結成。翌年には、パンリアル美術協会を発足。以後は、パンリアル展に出品。昭和25年には、教員を辞め、帰郷。昭和28年の中美展で佳作賞。東三在野美術協会に参加。昭和37年、第5回中部日本画総合展で最優秀賞を受賞。昭和39年、父親の死をきっかけに<人拓>シリーズを始める。同年、中村正義とともに日本画研究会に参加。昭和46年には、東京造形大学で非常勤講師を務めた。昭和49年、中村正義・斎藤真一らと从会を結成。以後、同展に出品するほか、日本国際美術展、現代日本美術展に出品。昭和52年、パンリアル美術協会を退会。その後も様々な展覧会に出品を続ける。平成5年、名古屋芸術大学特別任用教授。翌年には、豊橋文化賞を受賞。平成8年、星野真吾展が豊橋市美術博物館で開催されるも翌年逝去した。

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