開催日 | : | 平成25年7月13日(土)〜9月8日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山の師である谷文晁は生誕250年となります。7月3日から8月25日まで東京ミッドタウンのサントリー美術館でも谷文晁展が開催され、田原市博物館所蔵の作品も出品されます。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
画冊 | 谷文晁 | 寛政3年(1791) | 個人蔵 | |
松島図巻 | 谷文晁 | 天明7年(1787) | (版本) | |
日本名山図会 | 谷文晁 | 文化9年(1812) | (版本) | |
扇面画帖 漁楽図 面壁達磨図 水墨牡丹図 琵琶島図 |
渡辺崋山 渡辺崋山 椿椿山 渡辺崋山 |
文政11年(1828) 天保5年(1834) 天保9年(1838) 文政4年(1821) |
〜7月28日 7月30日〜8月11日 8月13日〜8月25日 8月27日〜9月8日 |
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寿老像 | 平山文鏡 | 江戸時代中期 | 個人蔵 | |
孔明、関羽之図 | 谷文晁 | 寛政6年(1794) | 館蔵名品選第2集43 | |
夏景山水図(春江泛舟図) | 谷文晁 | 寛政9年(1797) | 館蔵名品選第2集44 | |
楊貴妃之図 | 谷文晁 | 寛政9年(1797) | ||
甲州望岳図 | 谷文晁 | 寛政12年(1800) | ||
松渓水村図 | 谷文晁 | 寛政年間 | ||
夏山騎馬図 | 谷文晁 | 文化5年(1808) | 館蔵名品選第1集47 | |
市文 | 蘭亭契会図 | 谷文晁 | 文化2年(1805) | 館蔵名品選第1集46 |
孔雀之図 | 谷文晁 | 文政8年(1825) | ||
西王母図 | 谷文晁 | 文化9年(1812) | 館蔵名品選第2集47 | |
矮樹小禽之図 | 谷文晁 | 寛政年間 | ||
市文 | 仙鶴霊亀図双幅 | 谷文晁 | 文政年間 | |
天香玉兎之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第1集50 | |
御殿猫草花図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
秋景山水図(倣藍瑛山水図) | 渡辺崋山 | 文政年間 | 館蔵名品選第1集15 | |
市文 | 臨模仇英洗硯之図 | 渡辺崋山 | 文政2年(1819) | 館蔵名品選第2集2 |
旭日浴波図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 館蔵名品選第2集23 | |
黄雀窺蜘蛛図(複製) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 文化会館にて展示中 原本は個人蔵 |
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翡翠扇面(複製) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 文化会館にて展示中 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。
● 平山文鏡 享保17年(1732)〜享和元年(1801)
平山家は藩主三宅家が三河挙母を治めていた時代から召し抱えられ、寛文4年(1664)に田原藩主となった三宅家に従い田原へやってきている。名を直員、天明6年(1786)家老職に就く。寛政3年(1791)隠居して家督を実弟直昌に譲り、誓山のち、傯山と改める。画号を文鏡、南坊流茶道を田原三宅四代藩主康高こと了閑(1710〜1791)に学び、宗匠となって茶号を雁々斎と号した。画道を狩野派の加藤文麗(1706〜1782)に学んだ。文麗は谷文晁の師としても知られる。
● 金子金陵 生年不詳〜文化14年(1817)
旗本寄合席大森勇三郎の家臣で、名を允圭、字は君璋、通称を平太夫、別に日南亭と号す。画を谷文晁(1763〜1840)に学んだといわれ、沈南蘋(1682〜?)風の花鳥画を得意としていた。諸葛監(1717〜1790)、宋紫石(楠本雪渓、1715〜1786)、旗本の董九如(1745〜1802)に学んだとする説もある。大森家には安永年間 (1772〜1781) に田原藩主三宅康之(1729〜1803)の三女お滝が嫁いでいる。崋山自筆の『退役願書稿』(重要文化財、田原市蔵)によれば、白川芝山の画塾の授業料が払えなくなり、父の勧めで金陵の弟子になったとある。崋山の文化12年の日記である『寓画堂日記』や同13年の『謾録』にも、金陵の記述が度々見られる。渡辺崋山・椿椿山・滝沢琴嶺(馬琴の長男1798〜1835)の師として知られる。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 谷文晁 松島図巻
宮城野(現仙台市宮城野区)のあたりから始まり、松島湾の島々から高城駅までを俯瞰的描写で正確に板刻したものである。その後、多くこの地を描き続ける。
● 谷文晁 日本名山図会
部出身で、江戸在住の医師、川村寿庵が所蔵する諸国の山を描いた風景図から文晁が百余景を享和2年(1802)に縮写、文化元年(1804)に88図を掲載して出版された。原図の多くは文晁が寿庵に描き与えたものであったという。文化9年には2図を加え、再刊され、名も『日本名山図会』と改められている。
● 谷文晁 孔明・関羽之図
左幅にあたる「関羽之図」の左下の落款に「甲寅春日寫 文晁」とある。この年5月から、文晁は松平定信に従い、白河へ旅している。寛政時代のはじめ頃から鼻筋に白いハイライトをあてたような人物像が特徴的であった文晁であるが、この作品では代赭を主としている。衣線は略筆であるが、立体感は見事に表現されている。
孔明は諸葛亮のことで、軍師。関羽は三国の蜀漢の武将で、劉備・張飛と義兄弟の約束を結んだ。美しい髯を有し、義勇をもって知られ、劉備を助けて功があり、のち魏・呉両軍に攻められ、殺された。
● 谷文晁 夏景山水図(春江泛舟図)美
寛政時代には、着色画も多く見られた文晁だが、水墨作品でも、濃淡で微妙な遠近感を表す技能を完全に習得していることがわかる。この時期の墨を主とした作品は筆線よりも墨の使い方を重視し、のちの烏(からす)文晁時代のダイナミックな表現を予感させる。
● 谷文晁 甲州望岳図
落款に「庚申二月廿二日寫 文晁」とあり、寛政12年(1800)の作品であることがわかる。この年、関西へ旅をしている。富士山を多く描く文晁であるが、山が前景に描かれ、箱書にあるように「甲州」と考えれば、中山道を旅した際の図であろう。文晁は堂号を「写山楼」と号し、清宮秀堅著『雲煙所見略伝』に書かれるように、富士山を好んで描いた。描かれる富士山の頂上は、他作品に多くあるように冠雪している。文晁38歳の作である。
● 谷文晁 松渓水村図
右手前に上部からまるで覆いかぶさるように、大きく切り立ったような絶壁を描き、画の中心に絶壁から張り出すように描かれた樹木越しに上流の家並みを望むことができる。小画面でありながら奥行感を感じさせることに成功している。
● 谷文晁 夏山騎馬図
落款は「戊辰杪冬寫 文晁」と読める。薄書時代と称された文化年間前半の作品である。淡墨・中墨を主体にし、墨調、筆線の調和をはかろうとした折衷のような作品群が存在しており、これを文晁の薄書時代と称している。墨と筆線を混和させるために墨を薄め、筆線を弱め、情緒的雰囲気の中で一定の融和状態を表出したが、あまり長い期間には及ばなかった。筆線を重視しないため、「薄書き」と言われるように、むしろ弱々しく感じられてしまった。現代においては、そのふんわりとした温かみが心地よく感じられる。
● 谷文晁 蘭亭禊会図
蘭亭の会は、晋の時代である永和9年(353)3月に、謝安(320〜385)・王羲之(307?〜365?)ら名士41人が蘭亭に会し禊をし、曲水に觴(さかずき)を流して詩を賦したことを指す。画面中央の庵の中で机上揮毫しているのが王羲之である。 後半生では、需要があったのか、更に濃彩な青緑山水図が多くなってくる文晁であるが、文化年間前半ではまだ青緑、朱紅等のあでやかな色を淡く使い、周景との調和を保とうという意識が感じられ、画面に気品が漂う。
● 谷文晁 西王母図
西王母は中国で古くから信仰されていた仙女で、この図は、周の穆王(ぼくおう)が西に巡狩して崑崙(こんろん)に遊び、出会った西王母を描く。画面右下に「文化九年四月畫 文晁」とあり、「画学齋文晁印」を捺す。
本図では、西王母が手に経巻を開き、翳をかざす侍女と霊芝を手に捧げる侍女が描かれる。西王母の頭上には仙桃と授帯鳥が描かれ、神鹿を伴っている。崋山もこの作品の前年にあたる、19歳の時に『亀台金母図』(個人蔵)という西王母を描いた作品があり、明清画を摸写したものである。この作品は、原図があるかもしれないが、精緻で細密に描かれ、文晁の力量を遺憾なく発揮している。頭上の冠や着物の模様、装飾品には金泥の彩色も施される豪華なもので、その絢爛豪華なたたずまいは、当時の文晁の勢いを感じさせる。
● 金子金陵 天香玉兎之図
本来こんなひねり方はできないと思われるが、兎がくるりと首をひねらせてお月様を眺めている。右上からは、木蓮の枝が二手に分かれて下りてきており、その二つの枝の間に木の幹が描かれることにより画面に奥行きが出来、空間が生まれている。空間構成は虚で沈南蘋派の部分的な写実から画面が静止した様な感を受ける。
画題の「天香玉兎」とは、桂花(木蓮)と兎のことである。桂花は月宮殿に開く花のことで、玉兎は月の異名である。桂花、兎どちらからも導かれる月が、つつましやかに右上に描かれている。江戸時代の人々はこの絵がなにを表しているのか謎解きをして、楽しんでいたのであろう。
● 渡辺崋山 秋景山水図(倣藍瑛山水図)
画面右上に「倣藍瑛法王蒙図 華山静」とある。明末期の画家藍瑛(1585〜1664?)が王蒙(1308〜1385、元末明初の画家で、元末四大家の一人。王維・董源・巨然ら古名家の法を学び、構成力のある独自の山水画を作る。)の筆法に法って描いた山水図を崋山が写して描いたものである。藍瑛の描いた秋景山水図としては静嘉堂文庫美術館に現存している重要文化財がよく知られている。この作品の谷文晁による摸本も同美術館に所蔵されている。藍瑛は明代に盛んになった折派を統合し、さらに過去の諸大家の筆法を整理した。18世紀以降の谷文晁一派にこれらの藍瑛作品は積極的に受容されている。原本を見ることはかなわぬが、荒々しく感じられるこの作品も若き日の崋山が自らの感じたままを眼前の紙本に力強く表現した勢いを見る者に感じさせてくれる。
● 渡辺崋山 臨模仇英洗硯之図
文政2年春崋山27歳の作品。山の周りを瑞雲がたなびき、下り落ちる溪水は流れて池を作る。松の下に机を置き、小憩する王羲之とその側で扇を持つ侍童、池畔で硯を洗う童子が描かれている。この画は『太平寰記』に出てくる故事を描いたものである。浙江省会稽の蕺山の下で王羲之が硯を洗い、この池を洗硯池と称した。
この原画は明の仇英の作品で田原藩御納戸文庫にあったものを、文政元年に藩公のお供で崋山が田原に来た折に摸写し、江戸へ帰ってから翌年、需要に応じて揮毫した作品である。繊細な筆致に崋山の若き日の研鑚ぶりがうかがわれる。
● 渡辺崋山 旭日浴波図
この図、明治19年5月、東京新富座にて九代目團十郎が、左團次と共に崋山長英を主人公とした芝居「夢物語蘆生容画(ゆめものがたりろせいのすがたえ)」を演じた際、團十郎の申出で、毎日その舞台裏に掲げた。そして、毎日、この図に向かい、扇子を二本づつ描いたと言われている。波は荒く描かれている。
● 渡辺崋山 翡翠扇面(複製)
落款に「丁酉秋七月朔五日寫 崋山外史」とあり、没骨法で描かれているが、柔らかな柳の枝と翡翠のバランスが絶妙である。
● 渡辺崋山 黄雀窺蜘蛛図(複製)
竹、蜘蛛は硬く、鋭い線描で、雀、朝顔の花、葉は輪郭をとらず、淡く色をつける没骨法を駆使する。蜘蛛、雀は吉祥のしるしで喜びをもたらすもの。常緑の竹は祝と同音で、蔓性の朝顔にも子孫繁栄の意味を読み取ることができ、画題は吉祥画題である。印章の組み合わせは「海錯図」(静嘉堂文庫美術館蔵)と同じである。本作品は、田原蟄居中の身をはばかって年記をさかのぼって記したもので、天保八年にあたる「丁酉」は天保十二年に描かれたものと考えられる。立原杏所のパトロンであった上州麦倉の小室家の旧蔵品であった。