開催日 | : | 平成25年6月6日(土)〜7月7日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 企画展示室2 |
企画展示室2 | |||||
資料番号 | 資料名 | 作者等 | 年代 | 所蔵者、備考 | |
1 | 毛槍(御伊達道具 | 江戸時代 | 田原藩使用 | ||
2 | 毛槍(御道中馬印) | 江戸時代 | 田原藩使用 | ||
3 | 三宅家御家紋入御道具箱 | 江戸時代 | 田原藩使用 | ||
4 | 伝 藩主所用鞍及び鐙 | 江戸時代 | 田原藩使用 | ||
5 | 朱印状入 | 江戸時代 | 巴江倶楽部蔵 | ||
6 | 朱印状1 | 朱印状 | 徳川家光発行、三宅康政(木工助)宛 | 寛永2年(1625) | |
7 | 朱印状5 | 朱印状(写) | 徳川綱吉発行、三宅康勝宛 | 貞享元年(1684) | |
8 | 領知目録 | 寺社奉行本多忠当、奏者番牧野富成連署 | 貞享元年(1684) | ||
9 | 三宅康直判物(控) | 三宅稲若康直発行、西光寺宛 | 文政11年(1828) | ||
10 | 藩関係文書296 | 三河国渥美郡内郷村村高帳 | 田原藩 | 明治3年(1870) | |
11 | 宣旨類27 | 位記(三宅康直を従五位下に叙す) | 三宅康直宛 | 文政12年(1829) | |
12 | 宣旨類29 | 宣旨(三宅康直を土佐守に任ず) | 三宅康直宛 | 文政12年(1829) | |
13 | 藩関係文書636 | 巴江城郭平面図 | 明治44年(1911) | ||
14 | 参河国田原城修復奉願 覚 | 田原藩発行、江戸幕府宛 | 正徳5年(1715) | ||
15 | 参考 | 田原城曲輪の配置 | |||
16 | 参考 | 田原城縄張図(高田徹氏作図参考) | |||
17 | 参考 | 田原城内の建物配置図 | |||
18 | 市文市文 | 田原藩奏者番御手留 | 江戸時代末期 | ||
19 | 藩関係文書147 | 御手留貸出帳 | 天保14年(1843)11月より | ||
20 | 藩関係文書160 | 御手留借込帳 | 弘化2年(1845)5月改 | ||
21 | 書簡書状類62 | 帝鑑間詰同席大名勤務年数書出 | 文久2年(1862)ころ | ||
22 | 参考 | 三宅康直像 | 高橋由一 | 明治7〜10年ごろ | 原本は墨田区・楢崎宗重コレクション |
23 | 市文、日記275 | 天保七年 御用方日記 | 天保7年(1836) | ||
24 | 床几 | 江戸時代 | 田原藩使用 | ||
25 | 陣笠 | ||||
26 | 市文、日記279 | 天保九年 御用方日記 | 天保9年(1838) | ||
27 | 石竹図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
28 | 参考 | 田原城二ノ丸櫓写真 | 明治初期撮影 | ||
29 | 市文、日記291 | 天保十四年 御用方日記 | 天保14年(1843) | ||
30 | 参考 | 白気発動星座測量之図 草稿 | 石井夏海作成、柴田収蔵写 | 天保14年(1843)2月6日 | 原本はゴールデン佐渡所蔵 |
31 | 藩関係文書21 | 御家中由緒書 | 鷹見爽鳩(三郎兵衛) | 享保12年(1727)正月調 | |
32 | 藩関係文書26 | 家中分限帳 | 享保20年(1735)4月 | 『田原の文化』第11号に鬮目作司氏による翻刻あり | |
33 | 書簡書状類225 | 小石川氷川台三宅備後守下屋敷図面並外 | 明治初期か | ||
34 | 藩関係文書254 | 御道具類御書物不残取調帳 | 慶応2年(1866) | ||
35 | 書簡書状類229 | 御召武具、御道具売立帳 | 明治初期 | ||
36 | 版籍奉還の通達 | 行政官発行(明治新政府)、三宅康保(備後守)宛 | 明治2年(1869)6月 | ||
37 | 太政官 三宅備後守を田原藩知事に任ず | 太政官発行、三宅康保(備後守)宛 | 明治2年(1869)年6月 |
● 朱印状
朱印が押された命令文書(印判状)であり、戦国時代から江戸時代にかけて盛んに使用された。特に江戸幕府が公家・武家・寺社の領地を確定させるために発給した文書を領知朱印状と呼ぶ。武士に対しては、10万石以上の大名については判物を、それ未満の大名・旗本・御家人などに朱印状を発行した。
● 領知目録
江戸時代に書類の宛行、安堵を行う際に領知朱印状・領知判物に添えて発給された目録。石高は表高(多くは江戸初期に設定された石高)を用いて記される。将軍代替わりに行われる継目安堵の際には将軍が大名から任じた奉行(奏者番などが任じられる場合が多い)が差出人となる。実際に展示している領知目録は寺社奉行(奏者番兼任)の本多忠当、奏者番の牧野富成が務めている。 その他の場合(寄進・加増・転封・村替など)には老中が奉行の代役として差出人となる。
● 位記
朝廷の位階に叙位される人物に与えられた公文書。
● 宣旨
令期以降の日本において天皇・太政官の命令を伝達する文書の形式名。朝廷が出す文書の形態の一つ。天皇が正式に下す文書は詔勅だが、複雑な手続きが伴うために、簡略化するために一官僚である弁官・史が作成した文書を当事者に発給した。弁官・史の署名しかないにも関わらず天皇の権威が伴う形式のため、幕末期に朝廷が急激に力を持った際には偽勅が乱発されることとなった
● 版籍奉還
明治維新直後の明治2年(1869)、諸大名から朝廷にいったん領地を返還し、あらためて各藩主を知藩事に任命したこと。朝廷の諸大名に対する命令権の確保が目的であったが、2年後の明治4年には廃藩置県により全ての大名は土地を失い、明治政府が任命した官僚が県知事となった。
● 「田原藩奏者番御手留」、「同御自留」について
詳しくはPDFファイルをご覧ください。
「田原藩奏者番御手留」、「同御自留」について(PDFファイル:600KB)
1 田原藩主・三宅氏と田原藩について
(1) 田原藩主となるまでの三宅氏
三宅氏は寛文4年(1664年)、当主康勝の時に三河国挙母(現在の豊田市)から同国田原に1万2千石で入封し、12代208年間に渡って田原を支配しました。
三宅氏は南北朝時代の武将・児島高徳(生没年不詳)を自らの先祖であるとしましたが、実際にはよくわかりません。資料によると、三宅氏は15世紀後半に加茂郡高橋荘(現在の豊田市西部)の地頭・中条氏の被官(家来)として初めて登場し、明応2年(1493年)の猿投神社の拝殿の棟札には「大施主三宅筑前守家次」の名があります。
これに前後して三宅氏は中条氏から独立し、戦国時代前期には足助から高橋荘の梅坪・伊保・猿投にかけて支配する勢力に成長します。しかし、永禄元年(1558)に徳川家康(当時は松平元康)の攻撃を受け、時の当主・正貞は降伏、家康への臣従を選びました。その子康貞は多くの合戦に従軍して功績を立て、慶長9年(1604)には挙母城で1万石の譜代大名となりました。その後伊勢亀山(現在の三重県亀山市)への転封を経て、田原藩主となっています。
(2) 田原藩から田原市博物館へと残された資料について
田原藩は渥美半島の中央部から西部(先端部は除く)の24ケ村を領有しました。戸数・人口は元禄9年(1696年)に4,314軒、20,434人という数字が残っています(武士は除く、『元禄九年改田原領高付並人家社寺道程帳』より)。また、表高(江戸幕府の書類上の石高)は1万2千石でしたが、17世紀後半から内海部の干拓を相次いで進めたことによって、幕末期には実際の石高は2万石ほどになっていました。ただし、渥美半島は痩せ地が多い上に、風水害でたびたび大きな被害が出るなど、藩財政は江戸時代中期以降、常に苦しいものでした。
この24ケ村の支配拠点かつ政庁であったのが田原城です。本来、1万石程度の大名では城ではなく陣屋住まいになるのですが、三宅氏は譜代大名中の名家という扱いを受けて城持大名でした。しかし、壁や櫓、石垣、土塁など城郭を巡る構造物を維持管理するにはそれだけの経費がかかり、小藩には大きな負担です。実際に地震等であちこちが破損し、そのたびに江戸幕府に修理を願い出た文書が残っています。
2 田原藩から田原市博物館へと残された資料について
12代208年の長きに渡って田原藩主として君臨した三宅氏ですが、尾張徳川家が徳川美術館に引き継いだような豪華な調度品、茶器、甲冑の類は田原市博物館にはあまり残っていません。幕末にまとめられた「御道具類御書物不残取調帳」を見ると、刀剣・茶器、書画等がそれなりにあったようなのです。現在残っていない理由は必ずしも明らかではありませんが、明治初期に作成された「御召武具、御道具売立帳」を見る限り、華族となった三宅家が藩の借金を引き継がされたことにより、家蔵の品を相当数売りに出してしまったことにも大きな原因があるようです。 その代わりに、田原藩の古文書関係の書類は比較的多く残っています。これは明治維新後に三宅家がこれらの資料を田原士族団に譲渡し、さらに昭和40年代に士族団から田原町(当時)への引継ぎが比較的うまくいったからでしょう。特に『田原藩日記』と総称される藩政記録を記した総計506冊の資料群は貴重なものです(詳しくは別にワークシートに記述)。
3 最後に
先ほど書いたとおり田原藩の古文書は比較的多く残っています。ただし、解読されていないものも多く、現在は『田原藩日記』の解読を進めているところです。田原市博物館としては、他の資料も含めて今後とも読み進めていくとともに、多くの研究者によって活用され、新しい知見により博物館のお客さまにより楽しんでもらえるようにしたいと考えています。