平常展 田原市市制10周年 崋山生誕220周年 渡辺崋山・椿椿山の肖像画

開催日 平成25年6月1日(土)〜7月7日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山が描いた肖像画技法は、弟子の椿椿山に伝えられました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  俳人肖像真蹟
芭蕉・支考・其角
許六・嵐雪・秋色
渡辺崋山 天保6年(1835)頃 個人蔵
  おあんおきく物語 (版本) 天保8年(1837) 喜多武清・渡辺崋山挿絵
  立原翠軒肖像 伝渡辺崋山
立原翠軒
江戸時代後期 個人蔵
  岩本幸像 渡辺崋山 天保2年(1831)  
市文 御母堂栄之像画稿 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第2集32
市文 母堂栄座像画稿 渡辺崋山 天保年間  
市文 母堂栄画像稿 渡辺崋山 天保年間  
重美 佐藤一斎像稿 第二(複) 渡辺崋山 文政年間 原本は個人蔵
重美 佐藤一斎像稿 第十一(複) 渡辺崋山 文政年間 原本は個人蔵
重美 松崎慊堂像稿(複) 渡辺崋山 文政9年(1826) 原本は個人蔵
重美 松崎慊堂像稿(複) 渡辺崋山 天保年間 原本は個人蔵
重文 市河米庵像稿(複) 渡辺崋山 文政年間 原本は京都国立博物館蔵
重文 市河米庵像(複) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本は京都国立博物館蔵
  吉村貞斎像 椿椿山 天保3年(1832)  
  平山子龍像 椿椿山 天保4年(1833)  
重文 高野長英像(複) 椿椿山 天保年間 原本は高野長英記念館蔵
市文 福田半香肖像画稿 椿椿山 嘉永4年(1851) 館蔵名品選第1集64
重文 渡辺崋山像(複) 椿椿山 嘉永6年(1853) 館蔵名品選第1集65
市文 崋山先生令室たか坐像画稿 椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか像稿 椿椿山 嘉永年間  
市文 崋山先生令室たか之像画稿 椿椿山 嘉永年間  
  老女像稿 椿椿山 江戸時代後期  
  椿椿山像画稿 椿華谷 江戸時代後期  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜1898)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

↑ページTOPへ

作品紹介

渡辺崋山 俳人肖像真蹟

芭蕉・支考・其角・許六・嵐雪・秋色の六俳人の肖像版画である。版元は和泉屋市兵衛で、天保六年頃の泉市版と明治以降の再版のものがある。屏風の貼り交ぜ用に描いた崋山の絵を和泉屋が無断で版をおこし、評判になったが、崋山の抗議で絶版となった逸話がある。同じ頃の佐野屋喜兵衛版も存在するので逸話には疑問を残す。陰影法を使い立体感を表現した作と秋色のように概念化された浮世絵風のものが混ざる。

渡辺崋山 岩本幸像

崋山の妹もとの嫁ぎ先である桐生の岩本家の姑を描く。『毛武游記』(作品番号41)十月十七日に「茂兵衛絹を持し其母の真を寫さん事を請ふ、応ず」とあり、まさにその作品と考えられるものである。眼には金泥を入れる。岩本家を切り盛りする偉丈夫な女主人の姿を描いた。

市文 渡辺崋山 御母堂栄之像

崋山の母は、旗本で摂津国(現大阪府)高槻藩主の永井大和守の家臣河村彦左衛門の娘にあたる。22歳で崋山を生んだ。崋山が40歳の時に書いた『退役願書稿』(重要文化財・田原市博物館蔵)によれば、「唯母之手一つにて、老祖・病父・私共、其日を送候事故…」「私母、近来迄夜中寐(寝)候に、蒲団と申もの、夜着と申もの、引かけ候を見及不申、やぶれ畳之上にごろ寐(寝)仕、冬は炬燵にふせり申候。」と書き、非常に苦労していたことがわかる。渡辺家には、この作品の稿と考えられる作品(田原市博物館蔵・田原市指定文化財)があった。画面中央左に「全楽堂文庫」印が捺されている。元は渡辺家にあったものであろう。崋山が田原幽居中に描いたものと考えれば、70歳頃の姿である。

重美 渡辺崋山 佐藤一斎像稿 第二

「第二」は朱書きである。釣り上るように描かれた両目と眉、湾曲する形で縦に引かれた眉間の皺が印象的である。

重美 渡辺崋山 佐藤一斎像稿 第十一

図中に朱書きで「逼真 温而習」、墨書で「第十一」とある。正本の直前段階の稿本である。顔の部分には修正した別紙を貼り付けている。

重文 渡辺崋山 市河米庵像・重文 渡辺崋山 市河米庵像稿

図には門弟の数、五千人と言われた書家、米庵(一七七九〜一八五八)による自題が「六旬誕日寫伝神 驚見蒼顔一老人 烏帽戴来雖似黄 綿裘着得竟応真 繋名文苑瘤相類 游手墨池亀有因 無事散間能到七 重逢垂白画中身 戊戌九月六日 米葊自題」とある。自題にある「戊戌九月六日」は米庵六十歳の誕生日にあたり、かつてはこの作品の完成年を天保九年としていたが、本像完成の謝礼として米庵が崋山に贈った鄭岱筆「西湖画帖」中の題識に、「余明年六十ナリ、コノ頃兄ヲ債ウテ寫照ス」とあり、天保八年の作であることが知られるようになった。自賛で、描かれた自らの姿と向き合う不思議な感覚を述べている。「年老いて蒼黒くなった自分の顔に驚き、頭髪や髭の白くなった画中の自分と出会う」と述べている。画稿に比べれば、正本では力強さは弱まり、淡く細い弱々しい線を使い、顔の輪郭線の内側で上瞼・頬・額の中心は朱勝ちの肌色の濃淡で立体感を表現している。黒眼には茶色を塗り、中心から外郭に向かって濃くなるように描き、瞳孔には泉石と同様に円形の塗り残しがある。
崋山は肖像画を完成させるために稿本を数多く描く。本図と異なり、縞の着物に羽織を着ている。その姿はまさに「対看写照」の実践を現代の我々に伝えてくれる。他の肖像画と異なるのは、顔を正面から描いたことで、烏帽子から下がる紐を白の胡粉で描いた大胆なつけたての描線は鋭い。正本と稿本はともに市河家に伝えられた。描かれる者と描いた画家が画上で対決している。

椿椿山 吉村貞斎像

題賛に「謂不肖吾ニ是親 鏡中真影匪他人 肖哉真也毫端妙 永世相傳舎精神 天保癸巳春貞斎吉村球題肖像之圖賦且書」とあり、別紙に「戒眷屬云 はらたゝずわがまゝいはず むつましく たがひにふしやう するが世の中 辭世云 身の後のことを おもへばかぎりなし かぎりある身ハ いまかおさらハ、臨終正念南无阿弥陀佛 南無妙法蓮華經」とある。図中に「壬辰小春椿山平弼寫」とある。五三桐紋に総髪の姿を考えれば、名のある医家と考えられるが、吉村貞斎という人物の詳細は不明である。

椿椿山 平山子龍像

「癸巳秋日椿山人寫」とある。平山子龍(1741〜1828)は兵学者で武術家であったが、文政11年12月24日に亡くなった。平山子龍は、江戸時代中期の武道家・海防論者で、行蔵と称する。清宮秀堅著『雲煙略伝』によれば椿山は子龍に長沼流兵学を学んだとされる。「癸已秋日椿山人寫」とあり、亡き師への追善に描かれたということになろうか。
像主は数珠を左手に持ち端座する。陰影を施した衣服表現もさることながら、一文字に結んだ口元、見据えた視線、顔の皺、眉毛の毛先方向にまで神経が行き届き、それは異様とも思える写実表現となる。椿山のあくなき対象への観察眼がうかがわれ、崋山が創出した対看写照の肖像画様式を着実に取り入れている。椿山33歳の初期の肖像画作例として、貴重なものである。
さて、平山子龍の肖像は自画像、文政8年椿山作を天保11年に西村氷岩が模写したもの(いずれも京都大学総合博物館蔵)が知られているが、ともに表現の小道具は刀であり、武道家としての立場が表現されている。本作品では前出二例の面長の顔と異なり、また椿山の日記にも記事がなく、やや上から見た構図は伏目がちに描かれる。顔貌表現は似ているとは言い難い。この作品の像主の再考が必要であろう。

椿椿山 高野長英像(複)

高野長英(1804〜1850)は仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同8年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同3年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保九年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。
この画は、高野家と姻戚関係にあったかつての東京市長であった後藤新平が一時手元に置いていた。後藤新平の書簡によれば、かつては愛知県豊橋に残され、崋山の息子渡辺小華による箱書がある。高橋磌一によれば、大槻文彦が『高野長英行状逸話』に、「此椿山ノ筆ハ渡辺崋山ノ粉本中ニ長英ノ顔ノミ画キテアリシニ拠リシモノト云。」と書いていることを紹介している。崋山が縮図冊に記録しておいたものを元に椿山が描いたと伝えられるが、詳細は不明である。

椿椿山 福田半香肖像画稿

嘉永4年、半香(1804〜1864)48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。横に記された「明四日時」とはメモ書であろうか。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。
画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。顔の部分でも耳や髪の表現はさらに描き込みが細かくなる。体の立体感は衣線や彩色がやや荒く、絹本に描かれているが、粉本などの所蔵印として使用される「琢華堂記」と刻された印が右下にあるが、他の印が捺されていないことと、逸話から考えると、正本が完成されなかった可能性もある。この作品の伝来も含めて検討していく必要があろう。崋山が自刃に至る因を作ってしまった半香は、死後、師の菩提寺に自分を葬るよう遺言した。また、「半香翁墓碣銘」と刻した墓標がわりの板碑もある。

椿椿山 渡辺崋山像

外題には「崋山先生四十五歳象癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られる。この像には三回忌の年にあたる天保14年6月7日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化4年4月14・15日に描かれた画稿の存在が知られている。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めている。12年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝え、椿山自身もその出来栄えに満足したであろう。
黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据えている。面貌は多くの画稿が存在することから、とくに精緻に描かれているが、衣服は簡略に写意的に描く。切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいる。机に置いた右手は異様なほど大きく描かれ、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようである。また、この像には公人、つまり武士の立場を演出する刀は描かず、衣服も含めプライベートな崋山の姿を写しているのである。
なぜ椿山は45歳の像を描いたのであろうか。この翌年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたる。この一連の事情を知っている椿山は、その45歳の転機の姿をポートレートとして記録し、供養したとも考えられるのである。

椿椿山 渡辺たか像について

右の図には、上に「第三 筋少ク」、左の図には「第四 耳大キク」「トカル 口ハヘノ字ナリ」「此スシ無」などと記してある。画左に「九月十一日 弼敬寫」とあり、「弼」の朱文円印を捺す。渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、渡辺家に伝来した可能性がある。昭和10年代に撮影された写真の題には「顯妣教了君肖像」と記される。

椿椿山 老女像稿

これも渡辺崋山像稿が保管された倉庫にあり、発見時には同一の袋に入っていた。伏目がちにおとなしい老婆の上半身が描かれる。付属として、顔部の陰影が強調された部分図が貼られている。

↑ページTOPへ