開催日 | : | 平成25年4月13日(土)〜5月26日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
今年は渡辺崋山生誕220年の年です。山本琹谷は渡辺崋山、椿椿山の弟子で、今年は没後140年にあたります。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
曳牛 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
唐美人図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 双幅 | |
人物画冊 | 山本琹谷 | 明治時代前期 | ||
唐子遊戯模写 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
鍾馗図 | 渡辺崋山 | 天保5年(1834) | 館蔵名品選第2集20 | |
市文 | 風竹之図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 館蔵名品選第1集29 |
西園雅集図 | 山本琹谷 | 文久元年(1861) | ||
竹石図 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 | ||
蓮花図 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 | ||
琴鶴自隨之図 | 山本琹谷 | 慶応3年(1867) | 館蔵名品選第1集76 | |
孔愉放亀図 | 山本琹谷 渡辺小華 伊藤鳳山 |
慶応3年(1867) | 館蔵名品選第1集77 | |
月次風俗図屏風 | 山本琹谷 | 慶応3年(1867) | 館蔵名品選第1集78 | |
夏耕之図 | 山本琹谷 | 文久元年(1861) | ||
田植図 | 山本琹谷 | 文久3年(1863) | ||
水墨牡丹図 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 | ||
牡丹図 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 | ||
漁村図屏風 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
●山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治維新後は、東京に居を移し、明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 渡辺崋山 曳牛 天保年間
渡辺崋山が弟子に与えた手本として伝えられたものである。
● 市文 渡辺崋山 風竹之図 天保9年(1835)
風を受けてしなる竹の風情がよく表現され、崋山が数多く描いた竹の図中でも傑出した作品である。賛に「便有好風来沈箪、更無閑夢到瀟湘戊戌麦秋浣花後四日寫為湊長安先生 崋山渡辺登」とあり、江戸の蘭法医であった湊長安(1786〜1838)のために描いたものである。長安は江戸で吉田長淑(1779〜1824)から蘭法内科を、大槻玄沢(1757〜1827)に蘭学を学んだ。また、長崎出島に来たシーボルト(1796〜1866)にも学んでいる。文政年間に江戸で開業し、天保7年(1836)には親友であった小関三英(1787〜1839)につづいて幕府天文方訳員となった。
賛にある沈箪は寝具のことで、「気持ちのよい風の中で寝ていると、夢をみる間もなく、瀟湘(中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水の合する地)にいるように気持ちよい」という意味であろうか。この作品が完成した天保9年6月9日に湊長安は没した。
● 山本琹谷 西園雅集図 文久元年(1861)
西園雅集とは、蘇東坡以下、宋代の文人16人が名勝西園に集まり、詩文、書画、清談、音曲を楽しむ図。初め宋の李龍眠が描き、米芾が記を作ってからこれを描く画人が多くなった。
● 山本琹谷 琴鶴自随之図 慶応3年(1867)
崋山を手本とした中国風人物を得意とした琹谷作品の好例である。中央に描かれた人物は林和靖(967〜1028)で、北宋(960〜1127)の時代の詩人で、世俗から離れ、故郷である杭州の西湖の湖畔に庵を結び、市中に出ることなく詩作に興じた高士である。邸内に鶴を飼育していて、客が来るとそれを放したと言われており、この作品でも林和靖の前には鶴が描かれている。衣線は東洋画的な筆法で描かれており、着色も穏やかで、中国の故事を表現するものとしては落ち着いた仕上がりを見せている。当時崋山の人物画を継承する文人画家として、人気があったのであろう。類作も多く見ることができる。
● 山本琹谷・渡辺小華・伊藤鳳山 孔愉放亀図 慶応3年(1867)
孔愉放亀」は、晋の孔愉が亀を放ってやったために出世した故事を描いたものである。孔愉と亀は琹谷が描き、左から右に流れる水流は渡辺小華が補ったと書き込まれている。小華の「華」の字が「崋」と書かれ、江戸時代末から明治の初め頃に小華が画号として「小崋」を使用していたことがわかる作品である。賛を書いているのは、当時田原藩校成章館教授として田原にいた儒者伊藤鳳山(1806〜1870)である。小華はこの年、翌年に近づいた明治維新に備え、1月21日から徳川将軍慶喜引退の12月までの間はほとんどを田原で過ごしている。琹谷が江戸でこの絵を描き、田原に贈ったものに小華と鳳山が書き加えたと考えるべきであろう。
● 山本琹谷 月次風俗図屏風 慶応3年(1867)
「月次絵」は、一年間の行事や風物を順に描いた絵で、右隻から1月、2月と順に描いている。右隻に、「正月」「節分」「花見」「鍋冠祭」(滋賀県筑摩神社の奇祭)「端午節句」「御幣流し」、左隻に「七夕」「夕涼み」「重陽節句」「えびす講」「酉の市」「獅子舞」が描かれる。2月にあたる節分の絵として、鬼打豆をまいている図の中に落款が「丁卯嘉平月寫 琹谷」とあり、慶応3年12月に描かれた作品であることがわかる。各図には、必ず複数の人が描かれ、その軽妙さと軽いタッチが見ている者にほのぼのと伝わってくる。こういう作品の需要がどういうところに求められたものか不明であるが、幕末と明治という時代の狭間で、当時の風俗画としても貴重である。同構図の作品で、六曲一双に仕立てられた「年中行事図屏風」が島根県立石見美術館に所蔵されている。
● 山本琹谷 夏耕之図 文久元年(1861)
中景から近景へとゆるやかな流れの川を中心に、左手前には、田の除草をする人々、川べりには、その農作業風景を眺め、休憩をしている高士と従者も描かれ、細かな部分まで、細密に描かれる。また、川の向こうの建物の中では、養蚕の風景も見られ、「耕職」の構図となっている。崋山作品の研究や中国画の模写が感じられる作例で、特に人物の描き方に崋山からの技法の影響が見受けられる。本流と思われる大河の上には、一羽の白鷺が描かれているようだ。中景の畦道の直角に曲がった表現が画面の奥行き感を強調しており、より広がった遠近感を感じさせる。為政者が農耕作業などの勤労生産活動の大変さを理解することは、政治にとって重要なことは思想的にも理解され、師の渡辺崋山は田原藩主三宅康直にも藩が成り立つために、領民の幸せをまず考えるように、アドバイスを送っている。人物は中国の容姿で描かれているが、勧戒的・儒教的な意味合いを込めて、蔵主に伝わったとも考えられる。この作品は大正時代に田原藩主三宅家に伝わったとされる作品である。津和野藩の武士でもあった琹谷であれば、その意味合いも理解していたに違いない。
● 山本琹谷 田植図 文久3年(1863)
作品名は「田植」となっているが、田の中にいる農夫たちは、いずれも頭に笠をかぶっている。川と田の間には、田に水を引き入れている作業風景も描かれている。「夏耕之図」に比べれば、細密感は薄れ、あっさりと描かれている。特に遠景には、霞とともに、煙るような初夏の米点で表現された山が描かれる。