平常展 今年は崋山生誕220年 渡辺崋山が描く春

開催日 平成25年2月16日(土)〜4月7日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

今年は渡辺崋山生誕220年の年です。重要文化財渡辺崋山関係資料の展示に引き続き、季節を感じさせる作品を展示します。崋山の弟子と息子、渡辺小華作品も合わせてご覧ください。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  躑躅和歌 渡辺崋山 文政年間 個人蔵
市文 四季山水画冊 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第1集24
  梅花図扇面 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第2集25
  俳画冊 渡辺崋山 天保年間 2冊
        館蔵名品選第2集30
  風竹図 渡辺崋山 天保4年(1833) 個人蔵
  花禽冊 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  春江待渡図 渡辺崋山 文政7年(1824) 個人蔵
  花卉介鱗図 渡辺小華 明治7年(1874) 個人蔵
市文 春秋山水図 渡辺崋山 天保年間 双幅
        館蔵名品選第2集31
重美 牡丹図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 館蔵名品選第1集31
市文 林和靖養鶴之図 渡辺崋山 天保6年(1835)  
  青緑山水図 渡辺崋山 江戸時代後期 三幅対のうち
  四君交結図 渡辺小華 慶応2年(1866) 三幅対のうち
  殿中迎春之図 渡辺崋山 天保年間  
  歳寒二雅図 渡辺崋山 江戸時代後期  
市文 晴風萬里図 渡辺崋山 天保8年(1837) 館蔵名品選第2集22
  蓮葉蛙声図 渡辺崋山 天保年間  
  廬鴻草堂図 渡辺崋山 文政10年(1827) 個人蔵
  墨竹図(一葉竹) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  吉野懐古(複) 渡辺崋山 江戸時代後期 原本は個人蔵
  紅梅鴛鴦図 小田_川 江戸時代後期  
  歳寒図 山本_谷 天保13年(1842) 館蔵名品選第1集75
  溪流群仙図 渡辺小華 明治3年(1870)  
  柳香飛燕図 渡辺小華 明治17年(1884) 渡辺小華展86

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)

小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

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作品紹介

渡辺崋山 躑躅和歌 文政年間

「わが女が、父のなぐさにと、思ひかぞへて、この花を、ねほりたるを、あるうしの、みたまひて うすからぬ君のこゝろの 岩つゝじいはねど しるき花のいろかなとありければ、おもほへず いはつゝじいはねはあらじ この袖をぬらすは君が ことのはのつゆ わたのへの翁」
「わが女」は崋山の妻、たかであろう。病床にあった崋山の父、定通(〜文政7年(1824)60歳で没)のために、妻が枕元に持って行こうとした岩つつじを見て、父のために詠んだ歌を記したもので、文政年代のものと思われる。

渡辺崋山 梅花図扇面 天保8年(1837)

落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みすみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。

渡辺崋山 四季山水画冊 天保8年(1837)

図の中には年記が記されていないが、付属する書付に「鶏年」との年記があり、天保八年の作品であることがわかる。群馬県緑野村の代官斎藤市之進の娘で、十歳で崋山の画弟子となった斎藤香玉(1814〜70)に与えたものと伝えられている。女性に与えた手本らしく瑞々しく広々とした画面構成の作品である。香玉は崋山の画法を忠実に守って描いた山水画は男性のような力強さを見せる。

渡辺崋山 俳画冊 天保年間

全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771〜1844)の題字「最楽」が添えられている。

各図の俳句

飛込むで月日落つく花乃春
青柳をしらぬ御顔や角大師
板の間の釘もひかるや夜のさむみ
削掛重荷おろせしひとたばこ
夏の月駱駝の小屋のとれしあと
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
鶯乃身はくれて居てなきにけり
河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
竹の根に水さらさらとしぐれけり
吸ものの上を渡るや春の鐘
有明や谷川渡る旅からす
霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
鳶乃輪の中に蠢く田打かな
穂かきして浮世かなしや夕紅葉
紙子着てねぎきる役にあたりけり
五左衛門に明日の道問ふ董かな
行秋や薪一把も庭ふさげ
大雪や鼠ひと声ひるすぎる
留守とおもへばくさめする五月あめ
谷川も人は通らず渡る鷹
それは我師走乃句なりいそげ人
草花やともすれば人の垣のぞき
枯柳乞食のくさめ聞へけり
大井川に喧嘩もなくてしぐれけり

渡辺崋山 春秋山水図 天保年間

右幅にあたる青緑の春景と考えられる図の落款は「倣劉松年之意 崋山外史寫」とあり、左幅には「倣王雪谷之意 甲申小春上浣三日於寫全楽堂中 崋山外史」とある。「甲申」は文政7年(1824)にあたるが、落款の書体から見ると、天保年間の作と考えたい。
王石谷(1632〜1717)は王翬といい、清の時代の人で、惲南田(1633〜1690)とも親交を結び、歴代の画の長所を取り、南北二宗を集大成したとも言われる。劉松年(生没年不詳)は南宋の時代の人で、人物山水に巧みであった。右幅は近景左側に垂直に立ち上がった樹木を集中して描き、画面右からは切り立った山崖を描く。奥に向かって積み重ねるように描かれる遠山、そのモティーフはいずれも縦方向の画面構成である。それに対して左幅は横に広がった柳、ゆったりと流れる川、点在する家屋の屋根、門などは横線を基調にして描かれている。原本の存在があるのであろうか。崋山の隅々まで行き渡った緻密な筆使いは完成された構成力を感じさせる。

重要美術品 渡辺崋山 牡丹図(複)  天保12年(1841)

蛮社の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日々を送る身となった。崋山の画弟子福田半香(1804〜64)らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうと考えた。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保12年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、後に「腹切り牡丹」と称されたものである。
陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として評価される崋山であるが、この図は、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す没骨法で描かれており、東洋画の技法もよく研究している様子が窺われる。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富に受容できるのは、武士の教養としての儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる 胭脂を著し、聊か以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々としたべに色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところか。残念ながら、崋山が描いた当時の色はあせてしまっているが、当時の評判が色鮮やかな牡丹を見る者に想像させる。

渡辺崋山・渡辺小華 青緑山水図・四君交結図 江戸時代後期・慶応2年(1866)

崋山の作品は青緑と朱を差し入れた山水画である。款記に「□林初夏有清香日暖魚躍波面平風軽鳥語樹涼野亭飛蓋臨芳草曲諸廻舟帯夕陽所得平時為郡楽況多佳客共衡觴 書歐陽公和張器判官泛谿」。
二幅の小華の作品は四君子が描かれている。梅、蘭、竹、菊である。

渡辺崋山 殿中迎春之図 天保年間

「丁酉」の年記は天保八年であるが、随庵居士は崋山が田原蟄居を命じられた天保11年か12年に限って名乗る号であり、田原で描いた作品と考えられる。構図としては部屋の天井を取り払い、引戸の上を見越すように室内を描くもので、「吹抜屋台」と呼ばれる手法で描かれる。大名家の節分行事を描いており、部屋の中の武士の家紋は崋山の主君三宅家の輪宝にも見える。

渡辺崋山 蓮葉蛙声図 天保年間

崋山45歳頃の作であろう。「登」落款の下に「田原藩士渡邉登蔵書記」印が捺される。この印を作品に使用する例は他に見ない。席画であろう。

山本琹谷 歳寒図 天保13年(1842)

落款に「倣南田壽平之意時壬寅清和月晦」とあり、天保13年の4月の末日に描いたことがわかる。「南田壽平」とは、清代初めに没骨法の花鳥画に優れた作品を輩出した惲南田(1633〜90)のことである。椿山が惲南田風の没骨花鳥画に優れていたことはよく知られる。天保12年に幽居中の渡辺崋山から椿椿山に宛てた手紙の中で、「写意を追及し古人の技法を駆使すれば、自ずと惲南田の画風になる。」とある。琹谷は崋山が蛮社の獄で捕えられた翌年の天保11年6月3日に椿山に入門したことが椿山の門人録である『琢華堂門籍』(田原市指定文化財・田原市蔵・財団法人崋山会にて複製販売)に記録されている。崋山を手本とした人物画の多い琹谷であるが、この歳寒図の柔らかな筆致は崋山から椿山に理想として引き継がれた画技を充分に受容していることを窺わせる作例として貴重である。

渡辺小華 溪流群仙図 明治3年(1870)

落款に「庚子秋月寫 小華逸人」とある。水仙はかつての住居ね田原池ノ原にも多く咲いていた。庚子は明治3年であるが、この年の5月7日から閏10月3日に田原へ戻るまで東京詰議員として東京に滞在している。田原に戻り、12月6日に田原大手の住宅が全焼してしまう。

渡辺小華 柳香飛燕図 明治17年(1884)

柳の木の下を素早く滑空している燕を描く。昭和11年(1936)に小華会主催で開催された小華先生追薦会並遺墨展覧会に出品されている。

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