平常展 崋山生誕220年 重要文化財渡辺崋山関係資料

開催日 平成25年1月5日(土)〜2月11日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山関係資料は、戦前から重要美術品に認定されていた作品の渡辺家伝来の遺品が中心となり、昭和30年(1955)に重要文化財指定となりました。昭和32年には追加指定もされました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
重文 一掃百態図 渡辺崋山 文政元年(1818)  
重文 一掃百態図(複) 渡辺崋山 文政元年(1818)  
重美 壬午図稿 渡辺崋山 文政5年(1822)  
  参海雑志(複) 渡辺崋山 大正9年(1920) 原本は天保4年(1833)
重文 自筆遺書(椿椿山宛) 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 自筆遺書(渡辺立宛) 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 渡辺巴洲像画稿(複) 渡辺崋山 文政7年(1824)  
重文 渡辺巴洲像画稿五図(複) 渡辺崋山 文政7年(1824)  
重文 渡辺崋山像 椿椿山 嘉永6年(1853)  
重文 板絵墨画馬図(絵馬) 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 小集図録及び書簡 椿椿山 天保11年(1840)  
重文 日月大黒天図 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 自筆墓表 渡辺崋山 天保12年(1841)  
  (不忠不孝渡辺登)      
  孔門十哲像      
重文  卜商(子夏) 依田竹谷 文化13年(1816) 糸井榕斎賛
重文  言偃(子游) 文供 文化13年(1816) 菊池五山賛
重文  端木賜(子貢) 林半水 文化14年(1817) 亀田鵬斎賛
重文  宰予(子我) 文水 文化13年(1816) 竹村悔斎賛
重文  仲由 (子路) 山本文承 江戸時代後期 冢田大峯賛
重文 孔子像 渡辺崋山 天保9年(1838)  
重文  顔回(子淵) 喜多武清 文化13年(1816) 佐藤一斎賛
重文  閔損(子騫) 浅尾大岳 江戸時代後期 三谷東奥賛
重文  冉耕(伯牛) 小田_斎 江戸時代後期 松平定常賛
重文  冉雍(仲弓) 椿椿山 嘉永元年(1848) 筒井政憲賛
重文  冉求(子有) 後藤光信 文化13年(1816) 大窪詩佛賛

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華(1835〜87)、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

依田竹谷 寛政2年(1790)〜天保14年(1843)

谷文晁に絵を学び、下谷御徒町に住み、山水・人物・花鳥画いずれもよく描く。

林半水 生没年不詳

明石藩士。麹町田原藩上屋敷の隣に明石藩上屋敷があった。若い頃の崋山の日記にも登場する。

喜多武清 安永5年(1776)〜安政3年(1856)

谷文晁に絵を学び、読本挿絵作品もこなし、江戸八丁堀に住み、古画の鑑定もよく行った。

浅尾大岳

谷文晁に絵を学んだ尾張藩士。牛込済松寺門前に住み、佐藤一斎の門人でもあつた。

菊池五山 明和6年(1769)〜嘉永2年(1849)

漢詩人。名は桐孫。高松藩儒菊池室山の次男。京に遊学して柴野栗山に入門した。江戸に出て、大窪詩佛らと交流。

亀田鵬斎 宝暦2年(1752)〜文政9年(1826)

名ははじめ翼、のち長興。江戸日本橋横山町の鼈甲商長門屋の番頭の子として神田に生まれた。折衷学を井上金峨に学んだ。本所ついで下谷に住み、谷文晁と交流した。

竹村悔斎 天明5年(1785)〜文政3年(1820)

挙母藩内藤家の家臣。林述斎、佐藤一斎に学ぶ。藩主侍講となり、藩士の子弟を教えたが、藩の権臣とあらそい、自決した。

冢田大峯 延享2年(1745)〜天保3年(1832)

信濃国長野村の医者の子に生まれた。江戸に出て、のち尾張藩校明倫堂督学となった。

佐藤一斎 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

岩村藩家老佐藤信由の次男に生まれた。名は坦、愛日楼、老吾軒などと号した。文化2年(1805)34歳で、林家の塾長となり、大学頭林述斎と共に、多くの門下生の指導にあたった。諸大名以下門下3000人と称され、門下生には、佐久間象山(1811〜1864)、山田方谷(1805〜1877)らがいる。

松平定常 明和4年(1767)〜天保4年(1833)

旗本池田政勝の次男に生まれ、池田(松平)定得の養子となり、因幡鳥取藩の支藩、若桜藩主となる。佐藤一斎の門人で、林述斎とも交流した。

筒井政憲 安永6年(1778)〜安政6年(1859)

旗本。目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任。柴野栗山に学び、ロシアの使節と長崎で面会した。文学の造詣も深く、書もよくした。

大窪詩佛 明和4年(1767)〜天保8年(1837)

江戸で、山本北山・市河寛斎に学び、神田に詩聖堂を開き、江戸詩壇の中心人物となった。

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作品紹介

重要文化財 渡辺巴洲像稿 文政7年(1824) 田原市博物館蔵

この画は崋山の父、巴洲こと定通(1765〜1824)の肖像である。この年8月に60歳で亡くなった。図中に「巴洲先生渡邉君小照」とあり、右下に「柳町浄土大学様御寺法傳寺 水戸御寺浅草清光寺 駒込大乗寺 播磨様御寺極楽水宗慶寺」などとある。
全身像は、顔面の部分のみ上から貼付して修正している。崋山の娘婿であった松岡次郎が記した『全楽堂記伝』には「伯登哀哭コトニ甚シク忍ヒ得サレトモ亦追慕フ心切ナレハ自ラ筆執リテ涙ニ咽ヒテハ且推拭ヒツツ其遺照ヲ写シヲキヌ」とある。
五図には下から遺影と考えられる眼を閉じた顔、次に眼を開いた顔、右向き、左向きの横向きにした顔部分、最上部に最終稿と考えられる着色した顔が描かれる。生前の姿の肖像画をつくる場合に、デス・マスクから写したスケッチを利用する場合もあったが、家族を描いた作品であるがゆえに、高いリアリティを持つことになったのは当然である。この画稿の正本は関東大震災で焼失した。

重要文化財 孔子像 天保9年(1838) 渡辺崋山

款記に「天保戊戌五月念三日、後学三宅友信薫沐拜写」とあり、その下に白文方形印の「友信之印」がある。友信は第十一代田原藩主三宅康友の子で、兄の藩主が相次いで亡くなり、本来の三宅家の血統を継ぐべき地位にあったが、田原藩は姫路藩から養子を迎えた。この作品は、時には藩主、全藩士の礼拝の対象になるため、崋山は家臣である自分の名を入れずに、三宅家直系の血筋でありながら、藩主にならず、江戸巣鴨の下屋敷に隠棲していた当時33歳の三宅友信の名で制作した。落款の書体は崋山の筆跡である。この作品は中国唐代の呉道玄の筆と伝えられる孔子像を基にしたものと思われる。この孔子の聖像と十人の孔子門下の十哲像とともに田原藩校成章館春秋二回の釈奠の際に掲げられた。

※孔門十哲像の各作品解説は『崋山会報』に掲載されている。

顔回子淵  第6号
閔損子騫  第9号
冉耕伯牛  第10号
冉雍仲弓  第11号
宰予子我  第12号
端木賜子貢 第13号
冉求子有  第14号
卜商子夏  第15号
仲由子路  第16号
言偃子游  第17号

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